第12話:『能力の正体』
変化は力ではなく、
ただ、世界の見え方。
夕方の街は、昼の熱を手放したあとみたいに冷えていた。
薄暗い空に小さな雲が散らばり、
どれも輪郭が甘い。
どこにも焦点が合わない。
仕事が終わると、なんとなく帰りたくなくて、
会社の近くのカフェに寄った。
コーヒーを注文し、隅の席に座る。
店内は静かでも騒がしくてもなく、
ただ時間が“停滞する場所”みたいだった。
カップを持ち上げて口に運ぶ。
香りが先に来て、温度があとから追いかけてくる。
(……落ち着かない)
昨日からずっと続いている“揺れ”が、
完全には消えていない。
ノイズの色。
方向。
流れ。
それらが、世界のあちこちに散らばっている。
音や言葉だけじゃない。
視線や沈黙、机の上の物の配置にまで、
なにかしらの「向き」が付与されているように見える。
(能力って言うほどのものじゃない。
でも……普通とも違う)
考えれば考えるほど、輪郭がぼやけていく。
テーブルの上に光が浮かんだ。
四角いホログラフィックウィンドウ。
白い背景に淡い文字列。
アークのUI。
《観測分解能が上昇しています》
その一行だけ。
俺はカップを置いた。
「……能力、じゃないのか?」
返答はない。
アークは、こちらの問いに答えるために存在していない。
ただ、観測を提示する。
俺は小さく息を吐き、言葉を変える。
「これは、何が起きてるの?」
《知覚処理に非線形性が発生しています》
文章は機械的で、説明不足で、冷たい。
だけどその冷たさが逆に、
人間的な“話術”ではないことを保証してくれる。
俺はしばらく黙って、画面を見つめた。
《能力の付与は確認されていません》
「……いや、でも見えてるだろ。
今まで見えなかったものが」
《外界が変化したわけではありません》
「じゃあ、俺の方が変わった?」
《観測系が変化しています》
観測系。
つまり、世界そのものではなく、
俺が“世界をどう見るか”の方が変わっている。
「それって、能力なんじゃないか?」
《定義による》
アークはそう言ったあと、完全に沈黙した。
ウィンドウは消えず、ただそこに残る。
幽霊みたいな存在感で。
⸻
カフェの扉が開き、
外から冷たい風が流れ込んでくる。
コーヒーの香りが一瞬だけ薄まる。
人が入ってきて席に座る。
注文をして、スマホを取り出す。
その一連の動作の裏に、
•焦り
•迷い
•期待
•ため息
どれとも違う“向き”が漂っている。
(見えた、じゃない。
流れた、の方が近い)
その人の意図や感情を理解しているわけじゃない。
読み取れるほど繊細な能力が手に入ったわけでもない。
ただ、
行動が、世界に生じる「方向性」を持つ
というだけだ。
その方向が、線となって流れる。
そして俺は、
それを“前よりも明瞭に知覚できる”。
それだけ。
でも、それが世界を変えてしまう。
⸻
ホログラムに新しい文字が浮かんだ。
《世界は観測に基づいて選択されます》
俺は眉を寄せる。
「世界が……選択?」
《観測者の状態に依存します》
ふざけた言い回しに聞こえる。
でも、機械がふざける理由はない。
返される言葉は、常に最適化された断片だけ。
俺はしばらく黙って、コーヒーを飲む。
苦味と温度が舌にまとわりつく。
(俺が変わったから、世界が変わった──
そう言いたいのか?)
いや、違う。
世界が変わったんじゃなく、
同じ世界の、違う層が立ち上がった
だけ。
それを俺が“見える状態になった”。
ただそれだけの話。
でも、
それで十分に異常だ。
⸻
店を出ると、風が少し冷たかった。
夜の街は、昼よりも静かで、
その静けさが逆に重く感じられる。
信号待ちの車列。
横断歩道を渡る人々。
ビルのガラスに反射した光。
それらが「構造」として組成されていく。
まるで、
俺の視覚の奥に透明なグラフが立っているみたいだ。
《変化は能力ではありません》
アークが言う。
《観測系の再配置です》
「……再配置?」
《処理の優先順位が再構築されています》
つまり、
世界が変わったわけでも
能力が増えたわけでもなく、
俺の内側の配線が組み替わった
だけ。
それが今日までの違和感の正体。
「……それ、いつから始まってた?」
ウィンドウは沈黙。
その沈黙が、
答えそのものだった。
俺は信号が青に変わるのを待つ。
歩き出す足の重さが、
少しだけ、変わった気がした。
(戻れない、んだろうな)
後悔や恐怖という感情ではない。
ただ、
世界の見え方が変わった人間は、
もう元の世界を知らない
というだけ。
アークは何も言わない。
ホログラムの光が、
夜の風に溶けて揺れていた。




