第四章 一緒に学ぶ台所
夜も深まり、店内の照明は柔らかく、厨房の光だけが二人を照らしていた。今日は蓮が主役だ。美優は横で見守りながら、最低限のアドバイスだけを伝える。
「じゃあ今日は君が全体を仕切ってみようか。サラダもメインもスープも、自分の判断で作るんだ」
蓮は深呼吸をし、包丁と鍋を手に取り、初めての挑戦に胸を高鳴らせる。
まずはサラダの準備。人参、きゅうり、トマトをそれぞれ切るが、蓮はどうしても人参の厚みが揃わない。
「切り方ひとつで食感が変わるんだな……」と独り言をつぶやき、慎重に切り直す。美優は軽く頷き、黙って見守る。
次に鶏肉の下ごしらえ。皮目に切れ目を入れ、常温に戻してから焼く。油を引いたフライパンに置くと、ジュッという音が響く。蓮は音を頼りに火加減を調整する。少し強すぎると焦げ、弱すぎると色がつかない。何度も微調整しながら、鶏肉はじっくりと香ばしく焼き上がった。
「香りと音だけでも、焼け具合が分かるんだ」
蓮は自分の感覚に驚きながら、次の工程に移る。スープを仕込むのは意外と簡単ではなかった。火加減の見極め、ハーブの投入タイミング、塩加減――すべてが蓮の判断にかかっている。
「ローズマリーは最後に入れると香りが際立つけど、早く入れると味に奥行きが出る……どっちにする?」
蓮は考え、まず全体の味を確かめ、香りを立たせるために最後に加えることにした。鍋の蓋を開けると、爽やかで深みのある香りが漂い、手応えを感じた。
サイドディッシュの温野菜も、火を通しすぎると色がくすみ、食感が損なわれる。蓮はタイマーを使わず、鍋を揺らしながら火の通りを確認する。小さな動作ひとつひとつが料理の仕上がりに直結することを、体で覚えていった。
しかし失敗もあった。ドレッシングを作る際、油と酢の比率を間違えて少し酸っぱくなったのだ。蓮は落ち込みかけるが、美優がさりげなく手を添える。
「失敗しても大丈夫。味を見て、少しずつ調整すればいいんだよ」
蓮は塩と砂糖を少量足し、酸味を丸く整える。自分の手で修正できたことに、小さな自信が芽生えた。
調理が進むうちに、厨房は香りの層で満たされる。鶏肉の香ばしさ、煮込みの深い香り、ハーブの清涼な香り――それぞれが独立しながら、重なり合い、食欲と好奇心を刺激する。
やがてテーブルには、蓮が自ら作った料理が並ぶ。自分の手で切り、炒め、煮込み、味を調整した料理の数々。色、香り、音、味すべてが調和していて、目の前に立ち上がる美しさに、蓮は息を呑んだ。
「料理は、作る過程も楽しむものだ」
蓮は改めてそう感じる。火加減ひとつ、切り方ひとつ、塩の量ひとつ――すべてが結果に直結し、自分の手で味を作り出せる喜びがここにあった。
美優は静かに笑いながら、蓮の肩に軽く手を置く。
「今日はよく頑張ったね。君の手でここまで作れるとは思わなかった」
蓮は深呼吸をして、作り終えた料理の香りを全身で吸い込む。香り、味、手応え、すべてが今日の学びの証だった。
その夜、厨房は静寂に包まれ、香りだけが余韻として残った。蓮は初めて、自分の手で料理を完成させる楽しさと、工夫の積み重ねで生まれる魔法を心から理解したのだった。