第二章 小さな工夫の積み重ね
夕暮れがゆっくりと街を包み、レストランの窓ガラスにはオレンジ色の光が映り込んでいた。厨房では、客が少なくなった静かな時間帯に蓮が包丁を握っている。今日の課題は、前菜の簡単なサラダと、鶏肉のソテーだ。
「包丁の角度を意識してみて。野菜の繊維を断つように切ると、柔らかさや食感が変わるんだ」
美優の声に従い、人参を斜め薄切りにする。シャキシャキとした音がまな板から響き、切った断面は光を反射してキラリと輝いた。蓮は不思議な感覚にとらわれる。単なる切り方ひとつで、食感や味わいが変わるとは。
「次はドレッシングだよ。酢と油は大体三対一の割合で混ぜるとバランスが取りやすい。ここに塩を少し入れると味が締まる」
蓮は指示通りに混ぜるが、ドレッシングが少し分離しかける。美優は笑って小さなヒントをくれる。
「粒マスタードを少し加えると乳化して、ソースが滑らかにまとまるんだ」
サラダが皿に盛られると、蓮は自分の手で切った野菜の色や形に満足感を覚える。単純な作業でも、丁寧に向き合うと出来栄えが大きく違うのだ。
続いて鶏肉のソテー。蓮はフライパンを熱し、オリーブオイルを注ぐ。ジュッと油が跳ねる瞬間、目が覚めるような音が響いた。
「皮目から焼くんだ。最初に動かさず、じっと火を通すと香ばしい皮ができる」
蓮は少し焦らされながらも、その通りに鶏肉を置き、じっと見守る。焼き色がついてくるにつれ、部屋中に香ばしい匂いが漂う。
「裏返すタイミングも重要だよ。肉汁が表面に浮いてきたらひっくり返すサイン。焦げすぎないように火加減を調整して」
蓮は火加減に気を配り、鶏肉の様子を観察する。火が通りすぎれば硬くなる、足りなければ生焼けになる。微妙な変化を目で感じ、手で確かめる。これもまた料理の小さな魔法だ。
ソテーを焼きながら、蓮は別のことにも気づく。香りや音が料理の仕上がりを教えてくれるということだ。ジュウッという音が止まると火が通った証拠、香りが強く立ち上ると味の変化の合図。目に見えるだけでなく、五感で学ぶ瞬間がここにはある。
鶏肉を皿に盛り付けた後、美優は蓮にもうひとつの課題を出した。
「次はスープを仕込むよ。玉ねぎを炒めてブイヨンを注ぐだけ。でも、炒め方ひとつで味が変わるんだ」
蓮は鍋を手に取り、弱火でゆっくり玉ねぎを炒める。茶色く変わる断面を見ながら、香りが少しずつ甘くなるのを感じる。
「炒めすぎると苦味が出るけど、弱火で時間をかければ甘みが増す。香りと色をよく観察するんだ」
蓮はメモを取ることなく、手と鼻と目で全てを覚えようと集中した。言葉にせずとも、体に染み込む知識がある。
さらに、刻んだハーブを最後に加える。タイム、ローズマリー、少量のセージ。香りを吸い込むと、空気がほんのり深く、落ち着いた感覚に包まれた。
「ハーブは煮込み時間や入れるタイミングで香りと味の深みが変わる。最後に加えると香りが際立つけど、じっくり煮込めば味に奥行きが出る」
テーブルに並んだ前菜、鶏肉、スープ。どれも小さな工夫の積み重ねで完成している。蓮はそれを目の当たりにして、料理の面白さを新たに実感する。
「料理って、ただ作るだけじゃない。工夫の積み重ねで味や香りが変わるんだね」
美優は微笑む。「そう。火加減、切り方、調味料、時間……全部が魔法の一部。失敗も多いけど、それも学びになる」
蓮は深呼吸をした。包丁を握り、鍋をかき混ぜ、火の揺らぎや香りを感じながら、自分の手で料理を生み出す喜びを噛み締めた。小さな工夫が積み重なる瞬間、それが料理の魔法なのだ。