森の鍵
その声が聞こえたのは、庭の楓の木の下だった。
雨上がりの午後。しっとりと湿った空気の中に、どこかすっきりと澄んだ匂いが混ざっていた。
苔の香りが、木の根元からそっと立ちのぼっている。
私はいつものように洗濯物を取り込み、娘は長靴をはいたまま、楓の根のくぼみに腰かけていた。
「ねえ、前みたいな”人”に戻れたら、戻ってみたい?」
突然そんなことを言い出した娘に、私はタオルをたたむ手を止めた。
「前みたいな?」
「うん。別の名前で呼ばれてたころの、ママ」
私は少し笑いながら、娘を見る。
「そんなとき、あったっけ?」
「あったよ。ママは、森に住んでた」
まるで夢の続きを語るように、娘は言った。
「図書館みたいな木の中で、音のない本を読んでたんだって。
風の音と落ち葉の重さで、言葉ができてる本。
誰も来ない場所で、ひとりで、ずっとめくってたんだって」
私の胸に、ふいに冷たい風が吹き抜けた。
そういえば昔、山の資料館で、奇妙な古本に出会ったことがある。
ページが透けて、読むたびに内容が少しずつ変わるような――あれを手にしたとき、私はなぜか言いようのない感情に包まれたのだった。
「でもある日、誰かが来て『あなたは、これから”ママ”です』って言ったの。そうして、“ママ”になったんだよ」
娘は、地面に描いていた小さな丸を靴先で消した。
「それは素敵なんだけどね、森の本たちは、いまもママを探してるって。
あの静かな図書館に、戻ってきてって呼んでる」
私は少しだけ黙ってから、たずねた。
「そこには、もう行けないのかな?」
娘は少し考えて、うなずいた。
「“ママ”っていうのを受け入れた人は、背中に見えない鍵がつくんだって。
それはね、ドアを開ける鍵じゃなくて、ドアを閉める鍵。
森のドアは、一度閉じられたら、開かないの」
私は目を閉じる。
思い出すのは、あの資料館の、静かな午後。
埃の舞う小部屋にあった、不思議な本。
透けたページをめくる指先の感触。
たしかに私はあのとき、何かを選んだ気がする。
袖を引かれ、目を開けると、娘がこちらを見ていた。
「でもね、たまになら、その鍵をちょっと外してもいいと思う。ぜったいにダメってわけじゃないと思うんだ」
私は静かに笑って、娘の髪に指を通す。
「じゃあ今日は、少しだけ名前を置いて、“わたし”に戻ってみようか。一緒に、森に行く?」
娘の顔がぱっと明るくなる。
「うん!声のない風の本、読んでみたい!」
洗濯物のことは忘れて、私たちは裏庭の小道を進む。
雨上がりの土はやわらかくて、見慣れないキノコたちが顔を出していた。苔の絨毯を踏みしめながら、私は思う。
「役割をもらうこと」は、何かを失うことではないのかもしれない。
“わたし”の中に、新しい誰かを迎え入れる――それは、静かでやさしい魔法みたいなことなんじゃないかって。
ときどき鍵をはずして、森を歩く自由も、きっと許されているのだ。
森の入り口にたどり着いたとき、どこからか、ページをめくるような風が吹いた。
noteで開催されていた「私立古賀裕人文学祭」古賀コン9への参加作品です。
1時間で執筆
とのことだったので、タイマー付けて書きました。
とても有名な児童文学の作家さんをバリバリ意識して書いたものでして…まとまりとかはまるっきり考えずに一時間、ああでもない、こうでもない、と悩みつつ書きました。