第3話(1)
故郷のコーミーからファーネルさんの家のあるファロンまで山を越えて行く道のりは、大人にとっても決して楽な物ではない。村を離れて暫くはそれなりの道だったが、すぐに様相は変わる。踏み分けた草の跡からそれが道だとやっとわかるという所が殆どだ。平らな部分は少なく、足を挫かせようと企む小石や、パキパキと音を立て折れて足底を傷つけようとする小枝、人を滑らせて闇の生い茂る谷底に向かい命を投げさせようとする朽ちた落ち葉が続く。手を突かなければ歩けない場所も多く、山越えの難しさを痛感する。加えて、それまで食事をまともにしてこなかった痩せっぽちの私にとって、その道のりは厳しい。そんな弱り切った子供を連れて山道を超えて行く事は、大人であっても、大きな危険を伴う。
ファーネルさんは短い紐を腰に結びつけ、もう一端を私に巻き付けた。二人分の荷物を背負子に載せて運んでいる為に、私を背負えないからだ。それが解っているだけに、私も必死について行く。彼は時々歩みを止めて私の方を振り向き、大丈夫かと尋ねてくれる。
「歩かせてしまってごめんね。ネイは我慢強くて偉いなぁ。でも、大丈夫じゃなさそうだね。まだ先は長いから、ちょっと休もう」
きっと私は、疲れと足の痛みで泣きそうな顔をしていたのだろう。ホッとすると同時に、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめんなさい……」
そんな私の頭をなで、微笑みかけてくれる。
「二人で一緒に行こうって望んだのだから、当たり前なんだよ。だから、謝らなくていい。ネイ。頑張っているの知ってるから、それ以上は頑張らなくて良いんだよ」
そう言って私の頭を撫でてくれる。優しい心に触れて嬉しくて、私は思わずしがみついた。温かい涙が自然と湧いてくる。本当の両親の事を思い出すと悲しくなる。でも、お父さんが姿を変えて帰って来たと思えば、心の痛みも和らいで行く気がした。
普通の旅人の半分ぐらいの速さで歩くのがやっとだったが、幸いだったのは野宿をすること無く旅を続けられた事だった。故郷の神殿を訪ねて来る人々や商いをする人達の為に、
道中体を休める村が所々にあったのだ。宿と言っても立派な物では無く、村人の離れに泊まらせて貰う。それでも、暗い木々の間の硬い土の上で眠りを取る事は危険と苦痛から逃れる事が出来る。汚れた体を拭い、慣れない歩みで痛みを覚えた手足を洗い休ませ、虫に刺された所に薬を塗る。野宿をする事を考えれば、天国のようなものだった。それでも体力の無い私の為に、時には二泊しないと旅立てない日もあった。熱を出したり、疲れ果てて起きられなかったりしたからだ。筋肉痛で動けなくなってしまった日もある。このため、本来大人の足なら三日ほどで到着する筈の距離だったのに、その倍の日が過ぎても目的地には着かなかった。
それでもやっとの事で、山道が開けて平地の道が続くところまでたどり着いた。暫く歩いて行くと、目を見張るような巨大な岩が目に入る。良く見ると岩は中央で割れており、その間に広い道が続いているのが解った。
「あれが町に続く道だよ。もう少しで着くから。もうちょっとだけ頑張ってね」
ファーネルさんも疲れているだろうに、笑顔で励ましてくれる。その気持ちが嬉しくて、私も笑顔を返した。
「大きな岩だよねぇ。あれは神様が町を守るために置いたという話があるんだ」
巨大な岩の間を歩きながら、ファーネルさんが説明してくれた。道は次第に広がって行く。やがて生まれ故郷のコーミーでは目にした事の無い、立派な家が建ち並ぶ町並みが見えてきた。町の中に進むとまっすぐな道の上を多くの人が行き交っている。水の桶を抱えた人、荷車を引く男の人や子供を背負った女性。十字に交わる道では、人がぶつかりそうになって大声で騒いでいるのが見える。これほど活気のある所は今まで見たことが無く、静かな村で過ごしていた私は面食らってしまったやがて、幾つかの角を曲がった所で立ち止まる。
「やっと着いたよ。お疲れだったね」
この言葉で、そこがファーネルさんの自宅だと知った。
広い入り口の両脇に、石で出来た門柱が建っている。中に入ると、同じ様に石を積み重ねて建てられた、見たことも無い立派な家が現れた。
(こんな大きな家に見たことないわ……)
前庭は、大人の足で十歩程で、続く家の入り口の戸は開け放たれたままになっていた。ファーネルさんは、中に向かって声を掛ける。
「今帰ったよ!ちょっと来てくれる?」
その呼びかけに応じて、お帰りなさいという声が聞こえた。入口で立ち止まっていると、女性が奥から出て来る。肩の少し上まで伸びた、輝きのあるこげ茶色の髪をしている。前髪が落ちて、視界を妨げないように髪留めでまとめてある。すらりとした長身の美しい人だった。髪と同じような色の瞳が、人なつこそうに輝いて見える。
(優しそうな人だな……)
少しばかり安心したのとは裏腹に、急に不安になり、動悸がして息苦しくなってしまう。それは、以前の家族に酷い目に遭わされたという嫌な思いが蘇ってきたからに違いなかった。自分が受け入れて貰えるかどうか自信が無いのだ。
(いきなり家に来て、本当に大丈夫?)
そう思うと膝がガクガクと震えてしまい、うつむいたまま顔を上げることが出来なかった。繋がれたファーネルさんの手だけが、自分を救ってくれている気がしていた。
「お帰りなさい。あれ?その子は?」
女の人は私達二人を見て、不思議そうに尋ねる。そう言われると益々不安になり、ファーネルさんの背に隠れてしまう。自分は、家事の手伝いも禄にに出来なくて、散々役立たずだと言われ続けてきた。そんな自分が、ここに居て良いと行って貰える自信が、全く無かったからだった。
(また、いらない子供だと言われたら……捨ててしまえとか、売ってしまえと言われたらどうしよう……)
そういった悪い考えがグルグルと巡って行く。それは耐えがたい恐怖だった。気が付くとファーネルさんの手を、自分の拳の血の気が失せるほど強く握りしめていた。思わず顔を見上げ
「捨てないで!絶対捨てないで!」
恐る恐る顔を上げ、やっとの思いで絞り出した小声で訴えるのがやっとだった。不安が作り出した粒の涙が頬を伝って行く。ファーネルさんは、そんな私の顔を見ると、頭を撫でてから、ささやきかけてくれる。
「大丈夫、ここから先は任せておいて」
私は必死にすがりついた。
ファーネルさんが話をしているのは多分お嫁さんだろう。。
「以前アイサーが、コーミーで会ったって女の子覚えてる?」
その言葉に、不思議そうに私の方を見ていたが、はたと何かに気が付いた様だった。
「あ!もしかして、似てるっていってた、あの子?」
と答えた。どうやら故郷での私の話を、この人も聞いているらしい。その女の人は膝を折って屈み、頭を私の目の高さに合わせてから、ゆっくりと柔らかい声で話しかけてきた。
「はじめまして。怖くないから大丈夫よ。私はフレナです。この家のお母さんです。もし良かったら、あなたのお名前を聞かせてくれる?」
優しい心のこもった言葉だった。そう言われると、自分への自信の無さを改めて感じてしまう。自分が気に入られなかったらどうしようという不安が再び襲ってくる。加えて、初めての人と話す恥ずかしさに耐えきれず、思わず顔を伏せてしまう。それでも返事をしなくてはならないと思い、できる限りの声を振り絞った。でも発することが出来たのは、震えたほんの小さな声だった。
「はじめまして、私の名前はネイです……」
それ以上は、言葉を続けられなかった。
「可愛い名前ね!お疲れ様。お願いだから、少しだけで良いから、お顔を見せてくれる?」
そう言われると流石に断ることは出来ない。言われた通りに、わずかに視線を上げて声の主の方に顔を向けた。するとどうだろう。
「そんな……」
女性は一言発したかと思うと、その表情が、笑顔から驚いた表情へ、そして涙を浮かべた顔にと変わって行くのが見えた。ファーネルさんが女人の肩に手を掛けるのを、私は黙って見ているだけだった。
以前私から聞いた身の上話を、ファーネルさんは語っていた。うつむいたフレナさんの顔の下の床に、涙の染みが一つ、また一つと増えて行くのが見えた。やがて顔を両手で覆ったまま、肩をふるわせている姿が見える。ファーネルさんは、話を続けた。
「もし出発時間がずれてたら、会えないどころか、この子の命は無かったかもしれないんだよ」
それは私も思っている事だった。不思議な巡り合わせで出会い、そして今がある。
「この子と一緒に暮らしたいんだよ。二度と会えないあの子の生まれ変わりでは無いけれども、それでも我が家に帰ってきたと思えるんだよ。偶然とは考えられないんだ。解ってくれるね……」
その言葉が終わると、それまでうつむいていたフレナさんに急に抱きつかれ、ビックリして固まってしまう。そんな私の耳に届いたのは、甘くて優しいささやき声だった。
「そう思うわ。偶然じゃないって……お帰りなさい。お母さんよ……」
不思議と、その言葉を待っていた気がした。二度と逢えないと思っても、諦めきれない大切な人。その懐かしい人に、遠回りしながら再び巡り会えたんだという確信が、私の中には生まれていた。フレナさんの温かい想いは心の中で熱になって、体中に満たされて行くのが解った。
「お母さん……お母さん!」
私は思わず声を出し、フレナさんにしがみつくと、私の背中に腕を回して抱きしめてくれた。時間の彼方に失ってしまい、二度と触れる事のできないはずのお母さんの柔らかさと温かさを、今自分の腕の中に取り戻したのだと実感したのだった。二人で抱き合って泣いた。この時に私は両親を、そして娘を失った夫婦は子供を、共に時間の向こうから取り返す事が出来たのだと思った。




