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第2話(2)

 村に着く頃には日が傾いていた。私が余り気の乗らない足取りだったので、普通より時間が掛かっていたのだと思う。それでもファーネルさんは文句一つ言わなかった。夕日が二人が手を繋いだ長い影を作り出していた。既にこの世に無い両親には、もう触れることは出来ない。ただ一つすがることの出来る温かい手は、今となっては世の中に一つしか無い事という事は解っていた。小さな手で精一杯握ることで、少しでも悲しみを紛らわせたかった。

 かって走り抜けた村を逆にたどり、一歩ずつ家に近づいてゆくにつれ、辛い思い出と恐怖が大きくなって行く。本当は逃げ出したい。足はますます重く、歩みは遅くなってしまう。ファーネルさんは立ち止まり、私に声をかけてくれた。

「そんなに手を強く握るなんて、本当に怖いんだね。でも丈夫だよ」

繋いだ手を見ると、力を込めて握りすぎたため、血の巡りが悪くなっていた。

「ごめんなさい」

申し訳ないという気持ちで咄嗟に手を離そうとしたが、それをさせてはくれなかった。

「違うよ。この手は離しちゃ駄目。怖かったら、もっと強く握っても良いよ」

意外な言葉に顔を覗きこむと、笑顔で頷いてくれていた。思わず涙がこぼれる。信頼できる人と繋がっている事が、どれだけ心強い物なのかを、初めて知った。

 それでも、いよいよ家が見える様になると、足がガクガクと震えだす。それは家に近づく程に強くなり、最後は一歩も踏み出すことが出来なくなってしまった。情けなくて私は、涙を滲ませうつむいてしまう。そんな私の頭上から、優しい声が響いた。

「無理も無いよなぁ……それでは、少し離れたところに身を隠していなさい。用事があったら呼ぶから」

私はうなずくと、震える足を何とか動かして、勝手知ったる近所の物陰に身を隠す。自宅の方からは見えないが、こちらからは様子を見る事が出来る場所で、一人で泣きたい時などに、良くここに逃げ込んでいた。自分が一番安心できる唯一の場所でもある。

 ファーネルさんは戸を叩き、声を掛けた。

「ごめんください。こんな時刻に申し訳ありません。どなたか、おられますでしょうか」

しかし、室内から応答はなかったようだ。

「ごめん下さい。ファーネルと申します。こちらは、ネイさんのお宅ですか?」

再度声を掛けると、ガタガタという音が聞こえた後に、乱暴に戸が開かれた。出てきたのは、この家の奥さんだった。いつにも増して恐ろしい顔をしているのが、遠くから見ても分かった。

「忙しい時に、うるさいんだよ。誰だよ、あんたは?あの役立たずは、一体どこにいるんだい!」

そう口汚く罵る恐ろしい声に、私は震えが止まらなかった。いきりたつ奥さんに対してファーネルさんは、落ち着いた声で丁寧に挨拶を述べる。そして

「こちらに向かう途中でお嬢さんが倒れていたのです。介抱して今は元気になりました。そんな訳で、ご自宅に伺ったのです」

と付け加えた。しかし返事は、非情なものだった。

「倒れていたのを介抱したって?じゃあ、それを理由に、なんか欲しいっていうのかい?あの役立たずの穀潰しの為に、何をしろって言うんだよ!あいつは、どこにいるんだよ!」

そうわめき散らしているのが見えた。私は声を押し殺し、ボロボロと涙をこぼした。邪魔者だとは思われていたのは知っていた。でも、改めて言葉にされると、心に負った傷は深くなるばかりだった。

(こんな人に、命を奪うか売り飛ばすと言われたんだ……)

残酷な状況を再度見せられ、足に力が入らず、膝から崩れ落ちてしまった。

「あ!あいつ、あんな所に隠れてたのかい!この!」

その声に縮み上がる。思わず物陰から姿を見られてしまったに違いない。奥さんは一度家の中に入ったかと思うと、すぐに姿を見せた。その右手には、腕の長さほどもある棒を握られている。恐らく、戸締まりの為の「しんばり棒」だろう。それを振り上げ、恐ろしい勢いで私の方に向かって来る。その形相は、およそ人とは思えない恐ろしい物だった。思わず目を閉じ、身をすくめる事しか出来ない。

「奥さん、危ないから止めてください」

ファーネルさんの声が聞こえる。

「うるさいんだよ!」

という言葉の直後に、突然ドンという鈍い音が響く。しかし、私はどこにも痛みを感じなかった。目を開けると、ファーネルさんが肩を押さえてうずくまっている。私を庇って代わりに殴られたのだと解るのに、時間はかからなかった。彼は、ゆっくり立ち上がると、怒りを含まない、静かで通る声で話した。

「何か誤解をなさっている様ですが、暴力はいけません。もし子供に当たっていたら、大怪我するところです。お願いですからどうか気を静めて、私の話を聞いて下さい」

騒動を聞きつけ、近所の人が、何事なのかと様子を見に集まって来る。流石にバツが悪くなったのだろう。それでも決して謝らず、ふんぞり返っている。偉そうな口調で、夫が家にいるから中に入れと言ってるのが聞こえた。ファーネルさんは、私の方をちらりと見て小さく頷き、微笑みかけてくれる。危ないから家に入らないでと叫びたかったが、その間も無く、恐ろしい奥さんに言われるままに家に入っていった。

 二人の姿が消えると、また独りぼっち。物陰から家の入り口を見つめ待ち続ける。私の心は様々な思いで乱れていた。

(こんな私を庇ってくれた!約束を守ってくれたんだ!自分が殴られたのに、私の事を心配してた……)

その気持ちが嬉しかった。同時に、愛情を注がれた後の孤独は、それを知る以前より辛い物だと初めて解った。家の中で彼が暴力を受けていないか不安で、苦しくてたまらない。

(一人はイヤ、早く帰ってきて!一人にしないで、お願いだから!無事に帰って来て!)

今朝、夜明けを待った時よりも長い時間が流れた様に感じられる。日はほぼ沈み、裕福な家からは、僅かなランプの光が漏れる。薄暗い中、村に入るときに彼が言ったお願いを思い出す。

「あのね、私の家に来ない?答えは今じゃなくて良いから、ちょっと考えてみてね」

その時は、突然だったので答えを口にする事は出来なかった。でも今は違う。命を救われ、自分のために涙を流してくれた。見捨てないと誓い、そしてそれを守ってくれる。そんな人はどこにも絶対にいないし、こんな出会いも二度と無いだろう。私の心は決まっていた。

 永遠とも思えるような長い長い時間が流れた。そして我慢できなくて再び泣き出した頃にやっと、ファーネルさんは家から出て来た。暗い中で私を探しているのが解る。私はやっと力を取り戻し、思わず彼に飛びついた。安心して溢れたその涙は今までと違い、甘い味がした。

「遅くなって本当にごめんね」

ファーネルさんはそう言うと、私の頭をひとなでしてから、更に続けた。

「もう、この家には帰らないよ。それでいい?」

私は、小さくうなずき、頭をすり寄せた。

「もう、このお家には帰りたくないんです。一緒に連れて行ってください……」

自分を助けてくれ、優しい言葉を掛けてくれる世界でただひとりの人。だからこそ、本心を話すことが出来る。彼は嬉しそうに微笑むと、ありがとうとお礼を言ってくれた。でも本当にお礼を言いたいのは、私の方だった。もう怖い物は無かった。

 その夜、宿で汚れた体を水で洗う。着ていた服は余りに傷んでいた。ファーネルさんは、宿で譲って貰った布を器用に縫い、簡易な服を仕立て上げてくれた。裁縫は女性の仕事だと思っていた私は、とても驚いてしまった。その夜は本当に久しぶりに、ちゃんとした夕食を食べさせて貰った。疲れが溜まっているだろうと、余計なことを言わずに見守ってくれているのが、痛いほど解る。本当に久しぶりの心安らかな夜にを迎え、ぐっすりと眠る事が出来た。

 翌日、私が宿で留守番をしている間に、親類と話し合い、私は貰われて行く事になった。後から知った事だが、家の働き手が減るから等と難癖をつけ、代償を要求されたという。「奴隷を買うのでは無いのだから、そういう事は出来ない」

と言うと、家の奥からぼろ布を持ってきたという。普段着てる服なので、これを買い取らないなら譲らないと話したという。法外な要求をふっかけられたけれど、応じたとの事だった。ぼろ布を引き渡す時の奥さんの笑い顔は想像出来たが、そんな醜い物は見たくは無いと思った。

 それから十日ほどの間、ファーネルさんは見たことの無い兜をかぶり、神殿を見回っていた。仕事の邪魔をしてはいけないので、広場で待って居るしか無い。ごく僅かな時間であっても、置いて行かれるのでは無いかという不安が、どうしても消えない。それを解ってくれているのか、周りの人に

「訳あって子供と一緒に仕事をしています」

と断りを入れてくれていた。本当の子供として扱ってくれる事が嬉しい。仕事の行き帰りにも、歩調を合わせたり、時には背負ってくれたりする。食事の時や寝る前には、色々な話を聞かせてくれた。

(宮大工さんて言うのは、色々な事を知ってるんだなぁ。私はそんな家に、これから迎えて貰えるんだ……)

本当に嬉しい。時が経つほどに、ファーネルさんは、本当に優しい人なのだと確信できた。いつの間にか、怖い夢を見る事が無くなっていた事に気が付く。泣かない夜を過ごせるようになったのは嬉しかった。

 そうこうするうち、村での仕事も終わり、ファーネルさんが帰宅する日が来る。最後に私は、神殿の中にある彫刻にお別れを告げたいとお願いをした。林檎を片手に持った、寂しそうな女性像にお別れを告げる為だった。これが、どんなに私の心を慰めてくれたのか解らない。涙を浮かべて見ていると

「素晴らしい彫刻だね。これはクレメンテの話を描いた物だよ。ディプシアという人が作った、有名な物なんだ」

と、ファーネルさんは教えてくれた。

 故郷を背に、村の端にある門を通り過ぎる。風は吹いてはいなかった。私は振り返る。生まれ故郷は何も語ってはくれない。楽しかった思い出は、全て灰になってしまった。何も持って行く事は出来ない。それはとても悲しい事で、涙が自然と浮かんでくる。人の悪意に傷つけられる辛い経験もした。

「大丈夫?辛かったら、いつでも話してね」

ファーネルさんは見かねて、私に声を掛け、手を差し伸べてくれた。頼ることが出来るのは、この人の差し延べてくれる温かい手だけ。幸せを逃がさない様に強く握らなければ、自分が壊れてしまうのではないかという不安が、無いかと言えば、それは嘘だった。

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