第2話(1)
「ちょっと、大丈夫?」
その声は遠くから響いてくる様な気がした。首を振るどころか、目を開けることも出来なかった。そんな私は、優しく抱き起こされる。
「かわいそうに、なんでこんな所で……暑さに負けてるんだね。でも、もう大丈夫だよ」
前よりハッキリと聞こえる声に力づけられ、やっとの思いで目を開ける。見知らぬ男の人が、心配そうに覗き込んでいるのがぼんやりと見えた。あの影は幻では無かったらしい。
「今水をあげるから、ちょっと待ってね」
暫くすると、コップが私の唇に当てられた。
「さあ、お水をお飲み。ムセないように、少しずつね」
私の唇に生ぬるい水が触れている。それは私が一番求めていた物だった。言われるがままに、水を少しずつ口に含む。まるで砂漠に降った雨のように、たちまち体に浸みてゆくのが解る。
(私は、まだ生きているんだ)
そんな考えが浮かぶ。コップが空になると、私の乾きが癒えるまで何度も水を注いでくれる。水に満足して、改めて男の人を見つめた。視線が合うと、微笑みを返してくれる。年はお父さんと同じくらいで背が高く、茶色の髪と緑がかった茶色の瞳も、どことなく似ている気がする。
「日差しが強いから、日陰に行こうね」
そう断って私を抱え上げると、木陰に運んでくれた。体に籠もった熱が逃げて行き、口をきく元気だけは出てきた。しかし、何をしゃべれば良いのか解らない。
「お水……ありがとう」
かすれた声でお礼を言うのがやっとだ。それを聞いて男の人は、再度ニコリと笑うと頭を撫でてくれる。久しぶりに、温かい心に触れた気がする。私は少しほっとした。それを感じ取ってくれたのだと思う。今度は荷袋から小さな包みを取りして紐解き、その中身を差し出してくれた。
「もうお昼だし、これでも食べなさい」
それは乾いたイチジクだった。旅行の非常食として乾燥した果物を持ち歩く事は珍しくは無い。
(でもどうして、私の一番好きな物が真っ先に出てきたの?)
そう思いながらも、勧められるがままに齧り付く。甘いイチジクを口にして、水をもう一杯おねだりする。私が水を飲み終わると、暫く私の顔を見た後で、意外な事を尋ねてきた。
「もしかして、名前はネイ?」
手に持っていた空のコップを、思わず落としてしまった。カラカラとコップは音を立てて転がって行く。
(うそ! この人は、全然会ったことのない人なのに、なんで名前を知ってるの?)
混乱して言葉が出ない。その人は落としたコップを拾い、私を見つめた。
「はい……」
そう答えるのがやっとだった。男の人は、納得したようにうなずいている。色々思い出してみるけれど、この人に会ったことは絶対に無かったはずだ。それなのに、まるで以前から自分を知っていたかの様な事が起きている。
(まさか!)
頭の中に一つの考えが浮かんでくる。
(別の人の姿を借りて、お父さんが帰ってきたんじゃないよね?)
それはあり得ない事だと解ってはいたけれども、あえて聞かずにはいられなかった。
「もしかして、お父さん?」
小声で尋ねたその一言に、男の人は一瞬息をのむと無言で首を横に振る。そして、うつむいて目頭を押さえてしまった。
(しまった! 折角親切にして貰ったのに、泣かせた……何か言っちゃいけない事を言ったんだ……)
理由は解らないけれど、その人を傷つける言葉だったのだと思った。どうして良いか分からない私はうつむいて泣き、ひたすら謝ることしか出来なかった。
「ごめんなさい! ごめんなさい……」
それ以上言葉を続けることは出来ない。わあわあと泣いている私の両手は、そっとくるまれる。それは優しくて、温かかった。
「大丈夫だよ。何も悪いことしていないから」
穏やかな声だった。見上げると、申し訳なさそうな顔をして私を見つめている。その瞬間
(この人は優しい……)
そう感じた。いくら自分のせいでは無いと言われても、私が泣き止むのには随分と時間が掛かってしまう。
「驚かせてごめん。何にも悪い事してないから安心して。つい、昔の事を思い出してね」
そう言いながら、私の頰を拭ってくれる。私に再度イチジクを勧めると、今度は自分の事を話し始めた。
「ファロンという国から来たんだよ。私の名前はファーネルって言います」
ファーネルさんは、神殿を建てたり直したりする「宮大工」と言う仕事をしているらしい。
「神様をお祀りする建物の図面を描いたり、実際に作ったりする仕事なんだよ。ここにあるコーミーの神殿は、とても古くて、大昔の女神様、ミニムィ様が祭られているんだ。火事で大切な神殿が傷んでいるかもしれないけど、詳しい人が居ないからと頼まれて、ここまで見に来たんだよ」
食べたイチジクでべたついた指を舐めている私を見ると、笑いながら話を続けた。
「私には子供がいて、七歳の男の子なんだ。実はもう一人お姉さんがいたけど、三年前、四歳の時に死んでしまってね……鳶の羽のような色の髪と瞳をした女の子だったんだ」
その子は熱を出すと意識を失い、そのまま息を引き取ったという。サラサラとした髪と瞳を持ち、左目の下にホクロがある、良く笑うかわいい子だったと話す。その寂しげな声に、私も思わず貰い泣きしてしまう。身内が突然居なくなる辛さを、私も身にしみて知っているからだ。
「泣かせてしまってごめんね……話題を変えよう。私が、君の名前を知っていた訳はね」
それは、私が一番知りたい事だった。
「火事の中で会った男の人を覚えてる? 彼はアイサーといって、私の幼なじみなんだ」
たまたまコーミーを訪れた時、火事に遭ってしまったのだという。
「彼から、娘の生まれ変わりみたいな、ネイって子がいたって話を聞いたんだ。仕事で来ることになっていたから、もしかしたらとは思っていたんだけど、到着前に会えるとは考えてなかったけどね」
そういえば、あの白いフードの男の人に自分の名前を告げたかもしれない。なるほどと思った。
「彼の話してくれた事は本当だったんだね。髪や瞳の色といい、その泣きぼくろといい、まるで娘が帰って来たみたいだ。出会えて本当に嬉しいよ。ありがとう!」
その言葉は私の心に沁みた。自分を大切に思ってくれている事が解ったからだ。私は、この人をお父さんが帰ってきたのかと勘違いをした。そして自分を、亡くなった娘のようだと言ってくれる。本当に不思議な事だと思わずにいられなかった。
(こんな事あるの? 本当に? 何だかまるで、ここで会う事が決められてたみたい……)
不思議な魔法に掛かったように、火事以来閉じ込めていた自分の気持ちが解き放たれたような気がした。そして、この人になら、自分の身の上や、思っている事を話せる気になっていた。少し迷ったが、ファーネルさんの腕を摑み、恐る恐る小さな声で尋ねてみる。
「あの、私もお話していい?」
勿論だという返事を貰って、私は一所懸命に話し始めた。家族の事、火事と親類の家で起こった事。涙にむせてつっかえたり、話の順番が滅茶苦茶になったりしたのに、最後まで辛抱強く聞いてくれる。何度も頭を撫でてくれたし、時には貰い泣きをしてくれた。一通りしゃべり終えると、私はまた泣いてしまう。
「辛かったんだね。沢山泣いて良いからね」
その言葉に、久しぶりに人の優しさに抱きしめられた様な、温かい気持ちが溢れて行く。私は彼にしがみつき、更に泣き続けてしまった。
落ち着いた頃には随分時間が経っているようで、太陽は頂点を過ぎていた。
「話すの辛かったと思うけど、ありがとう」
そう言われたけれど、本当は私がお礼を言いたかった。でも胸がつかえて言葉が出ない。
ファーネルさんは一度空を仰ぎ見た後で、笑顔で尋ねてきた。
「さて、そろそろ行かなくてはいけないな。一人にしてはおけないから、一緒に来る?」
でもそれは、逃げてきた所に戻ることを意味する。家に帰って何をされるのかを想像すると恐ろしい。
(売られるか、殺されてしまう……)
それを思い出すと、血の気が引き震えが止まらない。でも、この人と別れたら二度と会えない気がする。自分の行き場はどこにも無い。
{どうしたら良いの? どっちも選べない!}
私は思わず涙声で訴えた。
「行きたくない! 帰りたくない! でも、一緒にいて欲しい! お願い、一緒にいて!」
その時に気が付いた。自分は、あの家に居たくないから逃げただけ。本当は自分を認めてくれる場所と人を望んでいたのだと。そして、それが叶えられる機会なのだ。これを手放すことが、怖くなってくる。私に出来る事は、しがみついて泣く事だけだった。
「ネイ……帰りたくない気持ちは、良く分かるよ。でも、今のままじゃどうしようもないよね。だから一度だけ家に戻ろう」
ファーネルさんの優しい声が耳に届く。
「でも、家は……家は怖いの!」
ファーネルさんは、私を抱きしめて静かに話をしてくれる。
「そうだよね。でも、約束しよう。神に誓ってネイを守ろう。絶対に見捨てないよ」
そして、心配を打ち消す様に繰り返す。
「一緒にいて守るから大丈夫。約束するよ。安心して良いからね」
自分を見捨てず、離れないと言ってくれた事が本当に嬉しかった。それでも置いて行かれるのでは無いかという不安は消えず、しゃくり上げながら、もう一度念を押してみた。
「本当? 絶対守ってくれる? 絶対に置いていかない?」
ファーネルさんは相槌を打つ。
「ネイのお父さんだと思って信頼して!」
それは、私が一番欲しかった言葉だったのかもしれない。
(ありがとう! ありがとう!)
涙で声にならなかったけど、抱きついて、何度もうなずいた。しばらくすると、ファーネルさんは口を開いた。
「一つお願いがあるんだ。聞いてくれる?」
私は小さくうなずいて、その話を聞いた。




