第1話(2)
私が引き取られたのは、村の南の山沿いに住んでいる貧しい家だった。親類の家と言っても、誰とも顔を合わせたことは無い。六人の子供がいたが、全員男子であった。
「もう七歳なんだから、食事や掃除の手伝いくらいできるだろ?」
私は新しい家族の中で一番年下だったが、貧しい中では大事な働き手と考えられていた。
最初に命じられたのは、台所の手伝いだった。その場に行っても、何をして良いかも分からず立ちすくんでしまう。
「ぼーっと突っ立ってるんじゃないよ! 自分でやることを見つける事も出来ないのか、この役立たずめ!」
いきなり背中越しに大声をかけられ、思わず飛び上がってしまった。この家の奥さんだった。確かに、そうかもしれないけれど、ほとんど何も教わる間もなく両親と別れてしまったから、どうすれば良いのか分からなかった。
「ごめんなさい……」
私に出来る事と言えば、謝ることだけだった。奥さんは恐ろしい形相で睨み付けると
「女手が無いから引き取ったのに、何も出来ないのかね? 全く使えない子だよ!」
などと、更に厳しい声で怒られてしまう。
「役立たずだね。しょうがない、ちょっと外に物を取りに行ってくるから、かまどの火が消えないように見張って、必要なら薪をくべといてくれよ。それくらいなら出来るよね!」
ぶっきら棒に命じられて、煮炊きをする「かまど」の前に立つ。火を絶やしてはいけないと言われたので、中を覗き込む。ゆらゆらとうごめく黄色や赤の光。人の手では決してつかむことの出来ない、幽霊のようにユラユラとしたそれは、突っ込まれた薪の上を灼熱の光で嘗めまわし、貪り食べている。その光景を見た瞬間だった。
「イヤ! 助けて!」
思わず悲鳴を上げ、しゃがみ込んでしまう。かって私の幸せな世界の全てを奪っていった炎。凶悪な牙を持ち、後には何も残さない貪欲な魔物。それが再び私を襲いかかって来る様に見えたのだ。
私の悲鳴を聞きつけた奥さんが部屋に飛び戻ってきた。そして 震えている私を見つけて
「一体何だってんだ!」
と怒鳴りつける。響き渡る怒声は、私の恐怖心を更に増大させる。もう何も考える事が出来ず、私は大きな声で泣き出してしまった」
「うるさいよ、このクズ!」
小さな私を、奥さんは更に責め立てる。
(体が焦げてしまう! いっぱい息をしなくちゃ、煙に巻かれて死んじゃう……)
かっての悪夢の様な体験が蘇る。何も考えられず、目一杯の呼吸を繰り返す事しかできない。しかしそれも、長くは続かなかった。手足が痺れて、目の前が暗くなる。次に気が付いたのは、頬の痛みのせいだった。奥さんは私の襟首をつかみ、顔を平手で叩いていたのだ。そして小声ではあったけど、強い口調で怒り出す。
「まだ寝てる者もいるのに、馬鹿みたいな大声を出してるんだい。なんで倒れてるんだよ」
炎も怖かったが、この女の人の怒声に震え上がった。恐ろしくて、すぐには声が出なかった。何回か問い詰められてからやっと、火事を思い出すので炎が怖くてたまらないという話をした。
「甘ったれた事を言うんじゃ無いよ! いいかい、家や命を無くしたのは、お前だけじゃ無いんだよ! もういい。使えないから台所から出てけ!」
そう乱暴な言葉で言われ小突かれて、尻餅をついてしまう。恐ろしい形相の奥さんに震えながら、すぐに起き上がり、慌てて屋外へと逃げるしかなかった。
火が使えないという事で、他の仕事をやらされる。掃除や洗濯などをやらされるが、習っていない事もあり、上手に仕事をこなせない。非力で体も小さいので、力の必要な仕事は出来ないし、高いところの作業もうまく出来なかった。加えて皆忙しい物だから、解りやすく教えてくれるという事もない。まだ悲しみから立ち直っていない身では、余計頭がまわらず、失敗続きだった。
「こんな事も出来ないかい? 役立たず!」
叱られて泣く毎日が積み重なって行く。穀潰しと言われ、次第に面倒も見て貰えなくなっていく。目障りと言われ、食事も独りで取る様に言われるまでには、時間はかからなかった。働かないので食べ物は減らすと言われ、硬い小さなパンと、残りものを少しずつ与えられるだけだった。
私に課せられた仕事に、水運びがあった。「水溜」というのがある。山からの湧き水を、木を削った溝に流して、石で囲った容器の中に貯めておくのだ。自宅の中に井戸の無い家庭は、そこから自宅まで水を取りに行かなくてはならない。普通は木桶で運び、自宅にある瓶に入れて置くのだが、この桶が大変に重い。私の力では、通常の物は持てないので、しかたなく小さな桶を使って運ぶ事になる。そうなると、回数を増やさなくてはならない。一日に何度も重い桶を持って水を汲む。これは重労働で、毎日クタクタに疲れ果ててしまう。小さな手はすり切れて痛かった。何度泣いたか分からない。ある晴れた日に、水桶に映った自分の顔は、涙と埃の跡で真っ黒だった。余りにみじめな姿を見て悲しくなってしまう。そして、その汚れを、更に流した涙で洗う日々だった。
「泣いてて鬱陶しいし、汚い! あっち行け!」
同じ家の六人の子供達は、私に口々に悪口を投げつける。それは、投げ石をぶつけられているのと同じで、更に深く私の心を傷つけた。話し相手も、救いも無い毎日。心は暗く、重く沈んで行く。本当に独りぼっちだった。
(お父さん、お母さん! 家に帰りたい!)
繰り返される絶対にかなわぬ願いを繰り返し、胸がいつもはち切れそうだった。
夜を迎えるのが怖かった。貧しい家なので、油を使っての灯りを得る余裕も無い。暗くなれば寝るだけなのだ。長い夜を迎え、ようやく眠りについたかと思うと、悪夢が私を責め立てる。それは「炎の中の両親が、悲しげにこちらを見ている」夢だった。毎晩の様に見ては、大声で悲鳴を上げ、泣き叫ぶ。
「うるさい! 夜中に大声を出すな!」
そのたびに、家の人達から更に怒られ、時には殴られる事すらあった。つらくて苦しい毎日。ただでさえ少量しか食べ物を貰っていないのに、それすら喉を通らなくなって行く。痩せて弱ってゆき、気力も失せ、幽霊になったような気がした。そうなると余計に気味悪がられ、ますます冷たくあしらわれ、孤立してゆくだけだった。
その夜も恐ろしい夢を見て飛び起きた。今は家族とは別の、小さな物置の中が私の寝床だった。夢におびえて泣く声が他の家族耳に届かぬよう、自分の右腕で口を押さえる。肩を震わせ、しゃくりあげている時だった。何やら声が聞こえた。私はそっと気が付かれないように、家の外で話を盗み聞きする。声の主は、日中は仕事に出ており見かけることが少ない、この家の主だった。
「今のままじゃ、あの子は死ぬな。役立たずだけど、家の中で死なれても迷惑だよなぁ」
日々私が弱って行く事を、冷たく見ている。死んでしまう事すら迷惑であるという残酷な言葉。奥さんは、それに応えた。
「女なんだから、売り飛ばすか、どっかから突き落としてしまえば良いんだよ!」
幼い私にも、その意味は解った。
(なんて恐ろしい!)
まるでナイフを心臓に突きたてられた様な、恐怖と痛みを感じる。
(売り飛ばされるか、殺されてしまう!)
それは自分が自分では無くなってしまう事を意味する。そんな恐ろしい事は無い。いくら役に立たなくても、そんな事をされてはかなわない。いつも一緒に暮らして、私を痛めつけながら、心の中で酷い事を考えていたのかと思うと、その恐ろしさに震え上がった。もう居ても立ってもいられない。
(こんな家に、いちゃダメ!)
あわてて音を立てず敷地の外に出て、この家から逃げ出した。
夜は恐ろしい魔物の世界。見えない闇の中では、多くの恐ろしい怪物が歩き回るのだという話を聞いていた。でも、この家の住人達よりも恐ろしい魔物はいないと思った。
夜道は暗い。涙を拭いて空を見上げる。私みたいに痩せ衰えた細い月。そんな月明かりでは、少し先に進む事すら難しい。自宅から逃げたのは良い物の、遠くに行く事は難しい。仕方なく、近所の家の壁の陰に隠れ、夜明けを待つ事にしたのだった。人にも夜の怪物にも見つからない様にする為には、選ばざるを得ない手段だった。
ずっと明けないと思えるような夜が、どんどん深くなって行く。闇が舌なめずりをして、自分を食べようとしている気がした。
(寒い……怖い……死にたくない! 早く、早く太陽さん昇ってきて!)
故郷コーミーでは、煤けた白衣の男性が命を救ってくれた事を思い出した。でも今は、誰も助けてくれない。本当は誰かに救って欲しかったけれども、それが見込めないからこそ逃げるしか無いのだと思う。
季節は夏の盛りだったが、それでも夜は冷え込む。寒さと恐怖、加えて空腹が私を責め立てる。
(何か食べたい。食べられれば、もう少し温かくなるのに)
しかし現実には、口にする物は一切無い。自分が好きだった食べ物が思い浮かぶ。誕生日に食べたイチジク。友人や鳥たちと一緒に食べたパン。お父さんが林檎のお酒を飲んでいたのを思い出す。そんな暗い月明かりの中で、ふと、神殿の中で見た壁の彫刻を思い出した。リンゴを片手に、誰かを待っていたような女性の像が描かれていた。何度も繰り返し見たから、今でも目の前にあるように思い出される。
(そういえば、あの女の人は自分では動けないのに、頑張って耐えて待ち続けていたみたいだった。私の場合は、明るくなれば動ける分だけ、まだ良いわ。明るくならない夜は無いんだから……)
そんな考えが浮かんで来る。そして、あの彫刻の女の人を見習って、もう少しだけ耐えようと思った。というより、そう考えていないと怖くて死にそうだった。
ついに待ちわびた朝日はやってきて、か弱い光を発し始めた。
(どこでも良いから、逃げたい!)
自分に今は居場所は無い。どこに行けば良いかも解らない。でも、ここから離れなければならない事だけは心に決めていた。僅かに残った力で、生まれたばかりの薄暗い光の中を、西の門を目指し走る。静かで冷たい廃墟の中に居るような気がした。門を越えて外を目指すのは、初めてだった。でこぼことした土の上を走って行くと、だんだんと木々が増えてくる。曲がり角に、一本の木が見えた。それは友達と遊んでいた広場にあった、火事の日に見た木の姿を思い起こさせた。突然、風がヒョウという音を立て通り過ぎて行く。その音は、炎の熱さに耐えられず上げた、燃え尽きる木が放つ、断末魔の悲鳴の様に聞こえたからだ。と当時に、炎に焼かれた亡霊達の恨みの声にも思えた。生きている私を、同じ世界へ引っ張り込もうとしている様に聞こえてならない。あるいは呪い殺そうと企てているのかもしれない。私の背筋は更に震えた。
(怖い! もっと速く、遠くに行かなくちゃ!)
恐怖に追い立てられて走る。走り続ける。やがて門を抜け、村の外に出られた。それでも足を止める事は出来ない。でもそれは、痩せ衰えていた私から最後の力を削ぎ取る事でもあった。
(苦しい……)
息が切れ、力が入らず足がもつれる。次の瞬間突然目の前が暗くなり、気を失った。全身の痛みで意識を取り戻した時、小高い道から外れて転げていたのだと解った。倒れていた道端には草は生えていなかった。涙と苦い土の味がする。体力の限界で、もう一歩たりとも前に進めない。立ち上がる事すら出来なかった。
(こんな苦しい思いをするために生まれたんじゃ無いのに。どうして、こんな目に……)
悔しかった。悲しかった。もう自分の力では、どうしようも出来なくなってしまったのだ。
土の上で動けずに倒れている私の上に、どんどんと光が注ぎ始める。闇を打ち払って貰う為に、あれほど望んだ太陽。しかし皮肉な事に、この体から水分を奪い去る熱を発するのだと気が付くのに、時間はかからなかった。
(もうダメだ……)
既に、ひとしずくの涙も体の中には残っていない。再び意識に別れを告げようとした、その時だった。幽霊の様な影が眼に映る。男の声で、私に何か話しかけているようだった。何を言っているのか解らなかったが、不思議な温かさと、懐かしさを感じさせる声だった。もしかすると、お父さんが、死の国から自分を迎えに来たのかもしれない。私は目を閉じて、僅かに残った力で手を伸ばす。そして、乾ききった口で、声にならない声をあげた。
「お……おとうさん……」