1.馬車の中で目覚める
「マジ詰んでるわ……」
ミレーナは飾り気のない小さな荷馬車の中で深いため息をついた。なぜ彼女が乗っているのが荷馬車なのかというと、座っている場所が椅子ではなく檻の中だからだ。檻を乗せるためには座席の無い荷馬車に積むしかない。ただそれだけの理由だった。
ーーこれは完全に悪役令嬢ね。
ミレーナは学園の卒業記念パーティーで断罪され国外追放となり、国境に向かう馬車の中で前世の記憶を取り戻した。
ここは乙女ゲームでも小説の中でもない。ミレーナが知らないだけかもしれないが、少なくとも八住怜奈として26年ほど生きた記憶の中には無かった。
ミレーナ・デサンティスとしての記憶を辿ると、侯爵令嬢という肩書きを笠に着て、学校でやりたい放題……
なるべくしてなった結果だった。殺人は犯していなかったため、死罪は免れたらしい。
国境を超えて隣国に入ると、記憶を取り戻してからは大人しくしていたからか、御者のおじさんが最後に小さな革袋を渡してくれた。
「あんたが何やったのか知らねえけど、俺はここまでだ。若い女が無一文じゃあまりにもな……」
「ありがとう」
ミレーナがそう言うと、御者は目をまん丸にして驚いていた。それは当然で、記憶が戻るまでのミレーナは、御者を労ったり感謝するどころか、喉が渇いただの、暑いだの寒いだの、なぜ私がこんな目にだの、散々な文句をずっと言って怒り狂っていたのだから。
別人のように変わってしまったように見えるミレーナに首を傾げながらも、御者の男は『ミレーナを国境を超えた先の小さな街に送る』という仕事を終えて、自国へ戻っていった。
一人取り残されたミレーナは困り果てていた。御者がくれた革袋には、十円玉のような色のコインと百円玉のような色のコインが数枚入っていただけだからだ。ここがどこで、このお金と思われるものの価値も分からないし、国を越えたのだから言葉さえ通じないのではないかと不安だった。
道路はアスファルトでも石畳でもない土が剥き出しの地面だし、車どころか自転車も走っていない。立ち並ぶ家や店も、木造や石を積み上げて作った平屋だ。中世、もしくはそれ以前の時代のように見えた。前に暮らしていた王都ではもっと豪華な家もたくさんあったけど、貴族という身分がある世界で、貴族であることを誇っていたミレーナが一般市民の集まる場所に行くわけがない。
ーー知らないことだらけね……
お金も見たことがない。買い物は商人を呼びつけるか、侯爵家御用達の店に行って、「これ、家に送っておいてくださる?」と言うだけだ。荷物の運搬は店がやってくれるし、支払いは運んだ時に家の誰かがやってくれていたんだろう。そのせいで物の価値も分からない。
御者のおじさんが、家を借りられるほどの金額をくれるとは思えない。数日食い繋ぐ程度の金額かしら?
ミレーナの今の格好は、貴族の令嬢らしい豪華な衣装ではなく、気楽に着れる木綿のワンピースだった。ネックレスや指輪などの宝飾品もない。街行く女性も大体同じような格好で、意外と馴染んでいるようで安心した。
ーーお風呂に入りたいわ。
馬車の中で何度か夜を迎えたけど、当たり前だが風呂に入ったりすることはできなかった。濡らした布を渡してくれたから、それで体を拭いてはいたけど、髪は洗えなかった。
銭湯なんてあるのかしら?
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ところ変わってここは隣国オリーヴァ王国。ミレーナが送られた国だ。
毛足の長い真紅の絨毯が敷かれた豪華な部屋で、それまた重厚感のある革張りのソファーに座ってティータイムを楽しんでいるのは、国王、宰相、王弟フロリアーノの三人だ。
「あの悪名高きデサンティス侯爵令嬢をうちの国に放しにしたとか……迷惑な話だ」
ここ一年程の間に銀髪より白髪の方が多くなってしまった苦労性の宰相が、紫色の目を伏せ、ため息混じりにそう言った。
「へぇ、悪名か。兄上、その女は何をやらかしたんだ?」
そう興味深そうに質問をしたのは、肩まである金髪を無造作に紐で括っただけの、深い青色の目をした男。
彼は王の弟で第3王子。全く地位には興味がなく10歳の時に王位継承権を放棄し、自由気ままに過ごしている。結婚もせず、国政にも関わらず、ふらふらと旅をしたり、花を愛でたり、絵を描いたり、冒険者の真似事や商人の真似事をしていたこともある。今日は久々に王都に帰ってきたということで、突然この王の執務室に現れた。たまたま居合わせただけだった。
「私も少し調べただけで、まだ詳細は分からんが……」
困った様子で話し始めたのはこの国の王。三年前に王位を継いだばかりの、まだ若い王だ。
ミレーナ・デサンティスという女はとにかくプライドが高いということだった。
教師を買収して成績を上げ、学園でも彼女の席だけ、艶々に磨かれた革のソファーだった。下賎の者と同じ制服など嫌だと、彼女だけドレスで着飾って授業を受けていたらしい。
身分の低い者を虐めるのは日常茶飯事、身分が低いから卑しいなどと暴言を吐くのはまだマシで、物を壊したり、魔法の的や剣術の木偶の代わりにしていた。大きな問題とならなかったのは、侯爵家当主である父親が彼女を溺愛していたことと、怪我を負わせてもポーションを与え、怪我の治癒は一応していたことだろうか。
「ーーとまあ、こんな感じの令嬢らしい。こんな女に我が国で暴れられたらたまったものじゃない。我が国に入ったら街長宅に『保護しろ』などと押しかけ無茶な要求をしていることだろう」
王も最後は深いため息をついた。
「兄上、そいつ俺が教育し直してやろうか? 立場を分からせてやるよ。まあ上手くいかなければ国から追い出せばいいだけだ」
面白い玩具を見つけた子どものように目をキラキラさせてフロリアーノは言った。
「フロリアーノ、篭絡されても知らんぞ?」
心配そうに王は言ったが、フロリアーノはもうそんな王の言葉は聞いておらず、どうやってミレーナを屈服させてやろうかという算段が頭の中を駆け巡っていた。
「こちら側にも問題がありましたか……」
「こいつも一度言い出したら聞かんからな」
王と宰相がぬるくなった紅茶で、ため息を飲み込んだことにフロリアーノが気付くことはなかった。
フロリアーノはモテた。王位継承権を放棄しているにも関わらず彼がモテたのは、その人懐っこさと、容姿だろうか?
彫刻のように整った顔は王子たちの中で一番美しいと評され、鍛え抜かれたしっかりとした体も、魅力だと言われていた。
王族など本来は守られる立場なのだから、それほど鍛える必要はなかった。しかし彼は騎士たちに混じって剣の稽古などもしていたし、冒険者に憧れたこともあった。しかし他にやりたいことが見つかると、あっさりと辞めてしまった。
一番の魅力は国内外の色々な場所を旅し、話題が豊富だったことだろう。令嬢だけでなく令息にも憧れの的として群がられた。
そしてフロリアーノが次に興味を持ったのは、ミレーナだった。