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迷宮前の居酒屋には迷宮の階層主が通う 《迷い猫の居酒屋めし》  作者: 筋肉痛隊長
三章 鬼と聖女のオカルティック・サマー
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『漬け丼(1)』

 シモンがエミールたちに語った通り、五日目の朝は静かに訪れた。

 シモンは「今日も暑くなりそうだ」と言いながら馬車に荷物を積み込む。子どもたちの帰り支度も急かした。

 自分の気持ちから目をそらすように。

 この美しい屋敷で初恋の人と過ごした日々を焼き付けるように。


 だが視界にミリスが入る度に胸がちくりと痛み、シモンの顔は二割ほど怖くなくなっていた。

 心配そうに見る子どもたちも、シモンの気持ちには前から気付いている。



「なぁ、シモン。このまま帰っちまっていいのかよ?」


「仕方ねぇだろ……っておい、マテオ。おめぇどうしてエミールのことは『兄ちゃん』でオレは呼び捨てなんだ?」



 ヘタレだからではないだろうか。


 ともかくシモンの気が少し紛れた時、馬車が一台入ってきた。

 高級感のある黒塗りの、貴族が乗るような馬車だ。

 シモンたちを見た御者は少し手前で馬車を停めた。ミリスも馬車に気付いて、一歩前へ出る。



「あら? うちの馬車だわ、接待用の。あ、お父様」



 ミリスには父以外の家族もいるが、この時期にこの別邸を使う者はいないはず。ミリスがそうなるよう手を回していたからだ。

 しかし馬車はミリスの実家の、貴人を乗せるための馬車だった。当然ミリスの父が乗っている。恰幅のいい薄毛の男だ。


 その父が自ら扉を開いて同乗者を案内した。

 馬車から降り立ったのは、白髪まじりで口髭を蓄えた長身の紳士だった。身なりがいい。


 男二人はシモンと目が合うと一度足を止める。しかめっ面だったミリスの父は眉間のしわをより深く、穏やかだった紳士の顔には警戒が浮かんだ。

 しかしすぐに気を取り直してミリスに歩み寄る。

 ミリスの父が厳かに告げた。



「やはり噂は事実だったか。ミリス、こちらは――」


「マルタン・ド・グリエ伯爵だ。ここの領主をしている。ああ、かしこまらないでくれ。これは非公式な訪問だ。突然押しかけてすまないね。僕は君たちの縁談の仲人ということになっていた」


「……ははは、はいぃ!? おおおお見合いは、夜だったかと……」



 シモンは『噂』という単語が引っかかったが、それよりも正真正銘の領主だ。グリエは街の名前であると同時に、領主の家名でもある。

 そして焦るとどもるのはミリスの標準装備だ。


 やはり夜まで待てずにミリスを連れ去りにきたのか。

 そう思うと握った手に力が入るシモンたちだったが、それよりも忌々しいのは。



 ――あんま貴族っぽくなくて……いい奴そうだな。


「それで今日の見合いだが――断りにきた」


「「!?」」




   ***




 立ち話もなんなので、場所を池のほとりの東屋に移した。

 バラの香りは薄れ、池に咲く睡蓮が取って代わる。



「さて、突然こんなことを切り出した理由だが、噂は聞いているかな? いや、知らなそうだ。君の父上が説明してくれるだろう」



 促されたミリスの父が、こめかみに青筋を立てつつミリスを睨みつける。

 いい話ではなさそうだ。


「お前が『素性のわからないガラの悪い男と子どもたちを屋敷に置いて遊興にふけっている』という噂が街に――」


「なんだと、てめぇっ!」



 シモンは流れで使用人から三人分のお茶を受け取り、東屋へ持っていくと領主に椅子を勧められ、釈然としないまま同席していた。

 ここの使用人もたいがいだし、この男は本当に貴族だろうか? とも思ったが、聞き捨てならないことを聞いた。

 そして感情のまま声を荒らげてしまった。



 ――くそっ。これじゃガキの頃と変わんねぇじゃねぇか。



 子どもの頃、短気を起こして孤児院を飛び出したシモンだが、商売のために忍耐を覚えた。

 今では怒っているフリができる程、感情をコントロールできる。そのはずだったのだ。


 しかし、ミリスの名誉を傷つけてしまった事実がシモンの冷静さを奪った。これはシモンのせいなのだ。


 『素性のわからないガラの悪い男(=孤児で顔が怖いシモン)と子どもたち(=孤児たち)を屋敷に置いて遊興にふけっている(=子どもたちと遊んでいる)』。

 表現はともかく噂は事実。

 シモンがミリスへの未練でとった行動で、ミリスの評判を落とし大事な縁談を壊してしまった。

 あまつさえ領主が出てくる事態にまでなった。



「貴様っ、貴様が娘をたぶらかしたな!? なぜ私の屋敷にまだいるのだ、早く出て行きたまえっ!」


「まぁまぁ、僕が引き留めたんだ。シモン君が怒るのもわかる。僕だってミリス殿が孤児院で奉仕していたことくらい聞いているからね。悪意ある誰かが流したデマだろう――例えば、君の商売敵とか」


「それはっ……いえ、例えそうであっても我が身の不徳。この娘に尊き血筋へ迎えられる資格はすでにございません。私の処分ならいかようにも……」


「そんな、お父様……悪いのは私です。罰ならすべて、私が受けます!」


「いや、明らかにオレのせいだ。オレが罰を受ける。それによ、商売敵ってのは街で襲い掛かってきた奴らじゃねぇか? なら衛兵隊に――」


「商会長とミリス殿は落ち着こうか。

 シモン君の言う通り官憲に突き出すのは間違いじゃないがね。それでもこの縁談は進められない。

 噂というのは人の心なんだ。たいていは犯人とも僕らとも無関係な人間のね……だから犯人がわかろうとも、噂が完全に消えることはない」



 領主の言う通りだった。

 人が信じたい情報、興味ある情報はそれ以外の情報と等価ではない。真実なら上書きできるわけではないのだ。

 その噂が悪意の産物であるという事実は、噂をなかったことにはしてくれない。


 そして北部領において国王に次ぐ権力を持ったグリエ伯爵は、貴族とは思えないほど気さくな紳士だった。

 本来であれば自ら出向くほどの問題ではなく、こうして下々の意見を聞く謂れもないはずだ。だがここで領主の目が光る。



「――そして面子を大事にするのが僕ら貴族だ。今回みたいに避けられる弱みは徹底して避けて通る。最早そういう種族だと思ってくれていい」


「……!」



 反論を許さない統治者のすごみがあった。

 現領主になってから戦争はないが、かつて北部国境後退期を帝国から守り抜き、現在の国境線まで押し返した武闘派の血筋だ。

 マルタンとて鍛錬を怠った日は無い。


 だからシモンは最後に、ひとつだけ賭けをした――いや、賭けにもならないかもしれない。


 椅子を蹴飛ばして膝を折り、手を付いて東屋の石畳に額を打ち付ける。

 土下座だ。

 商人にとって土下座とは、一割の余裕を残して使うもの。手札を使い果たすのがもったいないから頭を下げる。断ったら商売抜きで何するかわかんないよ? という脅しのような行為でもある。

 だがシモンには初めから、手札がない。脅しどころか賭けにすらなっていない。



「罰はオレがなんでも受けます。縁談が取り返しつかないこともわかりました。だからせめて、ミリスの名誉と商会の安全だけは守ってくれ、下さいっ!」


「シモンさん……」


「貴様、ぬけぬけと……」



 シモンはこのまま踏みつけられようと、顔を上げない覚悟だった。

 縁談の目的は商会の安全保障、貴族側にとっては財力だ。それが果たせればいい。金額がかさむならシモンがなんとしてでも払うつもりだ。

 そしてミリスがこの後、後ろ指差されることのないように。幸せになれるように。



「顔を上げなさい、シモン君。君が悪い男ではないのは――」


「おや、噂を聞いて来てみれば。田舎貴族の間では平民を這いつくばらせてお茶を飲むのが流行っているのですか。これだから田舎の人付き合いは面倒くさいのです」



 ミリスと同じような青と白の神官服を着た小柄な少女が、氷のような表情でこちらを覗き込んでいた。

 次の瞬間、東屋の椅子に掛けてシモンたちを見渡す。お茶は波ひとつ立てなかった。

 即座に起立したのは領主とミリスだ。



「せせせせせー……」


「せ、『聖女』カタリナ様!?」



 領主が意外にも狼狽し、ミリスはバグった。

 今日の別邸は先客万来だった。


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