『オリーブオイル(2)』
『怪人劇場』へ顔を出したその夜。
酒場『スピークイージー』のカウンターにカガチはいた。王都を東西に流れる川沿いから迷宮・『門』の跡地に行く途中にこの店はある。
ロマンが『英雄が集う迷宮の酒場の物語詩』を聞いたという酒場である。
その時の吟遊詩人が問題の人物と同じかどうか、その情報を求めてきたのだ。
「このオリーブオイル、うまいぞっ……」
情報収集だからといって、何も注文しないのは店に悪い。あくまで仕方なく、仕事を円滑に進めるために注文したのであって、カガチが一杯引っ掛けたかったからではないのだ!
かくして「軽くつまめるものを」と言ったカガチの前には『薄切りのライ麦パンと生ハム』、それにオリーブオイルの瓶があった。
みっしりとして酸味のあるライ麦パン、よく水が抜けてうまみの詰まった生ハム、どちらにもこのオリーブオイルが驚くほど合う。
その味はライトボディの赤ワインにぴったりだった。
カガチが頼んだ酒は一番安いテーブルワインだが、ロマンが来るだけあって上等な部類の店だ。
店内は清潔で比較的静か、客も冒険者だけではない。食器も盛り付けも上品だった。
片隅で吟遊詩人が爪弾く弦の音が聞こえる。
静かに酒を飲む店のようで『迷い猫』ほど料理の種類はなさそうだが、時折肉を焼くいい匂いが漂ってきた。
オリーブオイルがあまりにうまいので、カガチは少しだけそのまま舐めてみると……あまりおいしくはなかった。だが油臭さがないことに気付く。むしろ青臭くさえあった。
さわやかな風味と苦み、バターのようなまろやかさがライ麦パンと生ハムの味を引き立てるのだろう。
「これはお土産になるぞ……と、仕事するかぁ。ヘイ、バーテンダー」
「お呼びですか、お客様?」
「この店に珍しい歌を聞かせる吟遊詩人が来るって話は本当かい?」
カガチは三人いるバーテンダーのうち、年かさの初老の男に声を掛けて銀貨を一枚カウンターに置いた。
冒険小説などで酒場の情報収集と言えば、くだまいてる常連に声を掛けるシーンだが、実は毎日素面で全体をよく見ている店員に聞いた方が早い。
デメリットはこうして情報収集に来たことも記憶されてしまうことだが、ベテランならその辺も弁えているだろう。
渋いバーテンダーはカガチのグラスにワインを注ぎ足しながら話した。
「葉の月からいらっしゃいましたね。酒場の話を面白おかしく聞かせて頂いたので、よく覚えております」
「今夜は来るかな?」
「先月の中頃からお見掛けしませんので、残念ながら。店を通さずオーナーと契約した方のようでしたので、お探しならお役に立てそうもありません」
「そっかぁ。そいつは参ったぞ……」
この店のオーナーは恐らく王都の富裕層なのだろう。従業員としては首を突っ込みたくないもの道理だ。
雨の月の中頃と言えば『迷い猫』に件の吟遊詩人が来た頃で、その時期王都にいたのなら別人の可能性も出てきた。
王都からアントレまで一週間かかるのだ。職業柄、途中の街にも滞在しながら旅をするものだろう。
ロマンにしてもアントレまで二週間ほどかかっている。吟遊詩人を質問攻めにしてアントレに目星をつけた後、道すがら立ち寄った街の酒場も念のためチェックしていたためだ。
しかし歌の内容やロマンに聞えよがしなタイミングが怪しいのは事実で、『吟遊詩人』は二人いた可能性も否定できない。
ここはやはり、一目確かめておきたいカガチであった。
「なんだ、姉ちゃんあのエルフが目当てか。確かにあの美形は女が放っとかねえな。貴族の嬢ちゃんにも詰め寄られてたし」
近くの席の冒険者らしい風体の男が話に入った。「うらやましいこって」と酒を呷る。
男は空いたグラスを置くと、少し充血した目で言った。
「『金獅子亭』に行ってみな。そこにいなきゃもう王都にゃいねぇよ」
「そいつも酒場かい……?」
「いいや、やたら飯のうまい宿屋だ」
カガチはその名に聞き覚えを感じつつ、思い出せなかった。
ともかく王都にいるかどうかくらいは確認できそうだ。宿なら昼間に訪ねるのがいいだろう。
カガチは男に礼を言って同じものを奢った。
前触れもなく女のバーテンダーが、店の裏から鳥の丸焼きを持ってくる。裏に厨房があり、料理人が焼いていたようだ。
「今日の無料サービスは『鴨のロースト』ですよ!」
静かな店だと思ったが、客席から歓声があがる。酒飲みと肴に貴賤はないようだ。
他にも焼いたソーセージや野菜、丸パンが裏から運び込まれてきた。この店は11時になるとこうして夜食を振舞うのだそうだ。
壁際の長テーブルに料理が並ぶ。客はそこから好きなものを皿に取っていくシステムらしい。
その中でもカガチの目を引いたのは、やはりオリーブオイルだった。
オリーブオイルのかかった豆腐とチーズにはドライトマトが添えられて、見た目も美しく酒に合いそうだ。
タコとジャガイモ、それに軽くつぶしたニンニクをオリーブオイルで煮た『アヒージョ』。残ったオリーブオイルにパンを浸したら、どんなにかうまいだろう。
――うまいに決まっているぞ……いや、ここに長居する理由は無いんだが……。
目が離せなくなっているカガチに気付いたのか、若い女のバーテンダーはカクテルを作りながら言った。
「おいしいですよね、西部領の食べ方だそうです。お客様のリクエストで作ったら評判が良くて――あっ!?」
バーテンダーはオリーブオイルの瓶を手に目を白黒させていた。
酒瓶と同じ注ぎ口が付いているので、カクテルに加えてしまったようだ。
バーテンダーが恥ずかしそうにシェイカーを下げようとするのを、カガチが止めた。
「それもらうから、シェイクしないで出してくれないか。うまいかもしれないぞ」
「えっ!? でも……」
女のバーテンダーは当然ながら戸惑う。
カガチもどうしてそんなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった。
ここの料理をもう少し食べる理由を、酒に求めたのかもしれない。
「ここはいいから、作り直してお出ししてきなさい」
先程情報をくれた初老のバーテンダーが現れた。おろおろする女の肩を優しく叩いて仕事に戻らせると、オリーブオイルの混じったシェイカーを引き取る。
バースプーンを差し入れて手の甲に垂らし、味を見るとにこりとした。
「お客様のご慧眼の通り、ステアすればうまくなりそうです。ですが少々間を置きすぎたため、お客様にお出しできるものではございません」
にこにこしながらそう言って、シェイカーの中身を流しに捨てる。
興味深そうに眺めるカガチの前で、彼は新しいグラスに氷を満たした。
氷を軽やかにかき混ぜたら中の水を捨て、ライムを搾った上にジンを注ぎしっかりステアする。
グラスの内側を伝うようにトニックウォーターを注ぎ、そっとステアしたら先程のオリーブオイルを数滴垂らした。
『ジントニック』にオリーブオイルを加えたのだ。
「お代は結構です。代わりと言ってはなんですが、この酒にお客様のお名前を頂いてもよろしいでしょうか?」
「まったく、断れないなぁ……」
「カリッと焼いた小麦のパンも、オリーブオイルが合いますよ」
初老のバーテンダーがウインクをくれたので、カガチもグラス片手に列へ並んだ。
情報収集に入った酒場ですっかり楽しんでしまい、名前まで知られるとは。
――アントレ裏町の顔が、踊らされたもんだねぇ。
カガチは短くため息をついたが、悪い気分ではなかった。
『薬カガチ堂』として名前を出しているし、王都の商会と取引もある。今更知られて困る名前ではないのだ。
そうしてカガチ――蛇神の名を持つカクテルが生まれた。
後にこの酒がアントレに伝わった時、カガチが大赤面したのは別の話である。




