『一日旅館 迷い猫(2)』
「失礼いたします。新しいお食事をお持ちしました」
聞こえた声に担当君がまたか、とうんざりしながら引き戸を開けると、華やかなキモノ姿の女がいた。宿の女将とは別人――実は敬語も使えるメルセデスだ。
「なんだ、結局人を雇ったのか? 先生は今執筆中だ、後に――」
「――いいわ、見るだけ見ましょう。あら、随分少ないのね?」
先生と呼ばれる女は原稿用紙に書きつける手を止め、文机から中央の座卓へ気だるそうに移った。ろくに食事も摂らず執筆しているため、疲れているのだ。
だがメルセデスが座卓へ配膳した皿を見て首を傾げる。
その動きにつられて波打つ黒髪と浴衣の胸元が流れるように動いた。
目元のほくろと豊かな胸部のため、少々子どもっぽい仕草をしても、匂いたつ大人の色香は薄れない。
そんな女先生を見たメルセデスは。
「あっ、やっぱりお風呂のお姉さんだぁ。これは先付っていう前菜と食前酒だよ。このお品書きのお料理がどんどん出てくるから楽しみにしててね!」
「おいっ、まだ先生は召し上がるとは――」
「――あら、お風呂のお嬢ちゃんじゃない。おめかししたのね。私はコレット、物書きをしているわ。そっちは担当君」
女先生、コレットはやはり、夕食に行く前にメルセデスがお風呂で一緒になった人だった。
お品書きと先付の皿を見たコレットが言う。
「今度は本格的なのね。あなた、料理人だったの? それとも他にも人を雇ったのかしら」
「お料理するのはエミール君。わたしたちは雇われたわけじゃないよ? たまたま居合わせた流しの板前と、流しの女将&仲居です……!」
最後はキメ顔で言うと、氷で冷やしたガラスの徳利を持ってお酌をする。
すでに言葉使いが崩れて女将っぽさはないが。
しばらくお猪口の液面を眺めていたコレットは、それを一息に飲んだ。
「いいお酒ね。甘い香りが強いのにすっきりしてるわ」
「迷宮からもらった霊湯だから、厳密にはお酒じゃないけどね」
「んなっ、そんな怪しげなものを先生に――」
「――聞いたことがあるわね……地脈から溢れるエネルギーのようなもので魔物をも酔わせる美酒。迷宮の奥深くでなければ手に入らないという……」
メルセデスは神妙な顔をするコレットに『いい飲みっぷりだねぇ』と言いながらお酌をする。霊湯の説明をする気は無いようだ。
渋々といった態で担当君も飲み、目を白黒させた。
「先付は『サバの燻製 船長風』、わたしも早く戻って食べたいなぁ」
黒っぽい陶器の角皿に盛られた魚のスライス。青もみじに乗せられ鈍く輝くその周りには、七味唐辛子、大根おろし、白髪ネギが添えられ彩も美しい。
コレットが一切れ口に放り込む。
燻製の力強い香りとサバの生命力に溢れた味が広がった。
酒を一口。
主張の強い肴を淡麗な酒が洗い流す、その喉ごしが心地よい。薬味がもたらす変化も面白かった。
最初に一切れ丸ごといったのは失敗だったかもしれない。これはちびりちびりと楽しむべきものだ。
コレットはあっという間に食べ終えたが、そもそも量が少ない。
お替わりを頼もうとメルセデスを目で探したが。
「あら? いつの間にいなくなったのかしら」
「じ、自分も気づきませんでしたが、先生……これ、うまいですね」
「なんだか余計におなか空いてきたわねぇ……」
そこへ表に人の気配。次の料理が来たのだ。
「失礼いたしますわ」と入ってきたのは、地味なキモノを着た丸っこい娘だ。
宿の女将の娘か孫だろうか、と思うが雰囲気が合わない。というか体形以外の共通点がない。
「椀物は『鯛と豆腐の揚げ出し』ですわ」
片栗粉を付けて揚げた豆腐と鯛の切り身を、とろみをつけた出汁に浸した料理だ。
『迷い猫』ならこれに大根おろしとネギをたっぷりと乗せるところだが、今回は朱塗りの椀に盛り付ける。
鯛と豆腐は一切れずつ。それを刻んだセリ、小ねぎ、もみじおろしで飾り付け、仕上げに白ごまを散らして柚子の皮で香りも添えた。
会席料理の椀物といえば『かぶら蒸し』のような繊細な味が多いのだが、そこまで丁寧な仕事をする時間が無い。
そこでエミールは揚げ物と薬味で香味の強い椀物を仕立てた。
これは即席・即興の綱渡りのような会席料理なのだ。
「温まった喉に冷酒を流し込むのが気持ちいいわ。お上品な料理ね。でも、まだ物足りないというか……私、魚はイカとかマグロが好きなのよ」
「寿司屋に行くといつもそれですね、先生は。自分はこれ好きですが」
「……追加のお酒をお持ちいたしますわ」
ロマンはメルセデス程長居せず、先付の食器を下げつつ退室した。
***
「――うーん、そう来たか。コレットの好みは『味や歯ごたえがしっかりしたもの』だな。助かるぜ、ロマン……そういやコレットって作家、俺も読んだことあるな」
厨房にて。
ロマンから料理の感想を聞いたエミールは唸りつつ、そう結論付け額の汗を拭う。
冒険小説が好きなエミールはコレットの作品が気になるが、今はそれどころではない。
次の向付はお造りだ。
エミールは調理台に出した食材をちらりと見て言った。
「サバの燻製が随分好評だったからな。よし、向付の内容ちょっと変えるぞ」
そして頭に巻いた手ぬぐいを締め直す。
なお、『サバの燻製 船長風』は船長が晩酌用に作っていたものだ。エミールはそのいい部分だけ拝借して骨取りをし、表面をバーナーで炙ってスライスしただけである。
***
二人が椀物を食べ終える頃、冷酒の追加と次の料理を持って現れたのはメルセデスだ。
ロマンが酒の減り具合や食事ペースを厨房に伝え、メルセデスがフォローする。
『流しの女将&仲居(?)』とは思えない、洗練された連携に感心するコレットと担当君の前に、刺身が出された。
「向付は『サーモンのナメロウ』と『刺身の盛り合わせ』だよぉ。はい、お酒も飲んで」
「サーモンのナメロウなんて珍しいわね。このピリピリする爽やかな香りは山椒ね?」
『ナメロウ』はアジを味噌、しょうが、シソ、他薬味とともにたたいた酒に合う一品だ。
ロマンから情報を聞いたエミールは、アジをサーモンに変更したがそれだけではない。
「そう、それにごま油と豆板醤も加えてるって。『この辺りは旬に関係なく魚が獲れるから、味付けで季節を感じてほしい』 by 流しの板前だよ!」
「刺身も先生の好きそうなネタですね。しかしこの不格好なのは何の切れ端だ? 先生に粗末なものを出したんじゃないだろうな?」
刺身の盛り合わせはマグロ、イカ、エビ、ヒラメ、それに『あるもの』を加えた。
これもコレットの好みを考えた変更だ。
担当君がしかめ面で鼻を近付けているのはその『あるもの』で。
「馬鹿ねぇ、それは『ヒラメのえんがわ』。おいしいのよ?」
そう言ってコレットはシソの葉の上に盛り付けたえんがわに箸を付けた。
ヒレを動かす筋肉であるためコリコリした独特の食感がある。そしてじゅわっとにじみ出る脂と旨味。
くどく感じる場合は添えられたシソやレモンとともに。しかし。
「あっという間に食べてしまった……えんがわというのはおいしいのですね」
「安いお店で食べちゃダメよ、大きなカレイ使ってて匂いがするから」
「わたしはあれはあれで好きだけどねぇ。それとこれ、えんがわが好評なら出してくれって。ご飯ものには早いけどね」
そう言ってメルセデスが出したのは『えんがわの握り寿司』2貫ずつだ。
それを見たコレットは歓声を上げて杯を干し、メルセデスがすかさずお酌する。
「これよっ! えんがわにはどうしても酢飯が欲しくなるのよねぇ。お酒にも合うわ」
***
その頃厨房では、エミールが鉄板で焼いた魚の切り身を味わっていた。
疲れたからもぐもぐタイム、ではない。試食である。しかし。
「よし、これで行くぞ」
「ほ、本当に大丈夫ですの? わたくし料理なんて、野営の焼肉とスープくらいしか……」
そう、これを焼いたのは『料理は人並みかそれ以下』のロマンだった。
エミールは焼く前の調味と焼く手順を揃えただけだ。なぜなら。
「だいじょぶだいじょぶ、『料理子ども以下』のメルセデスでも作れるようにしてるから。今日の鉢肴はお客に自分で焼いてもらうんだぜ?
メルセデスがまだ戻らないってことは寿司も出したな。ご飯ものちょっと入ってるから、焼き方の説明はじっくりやって大丈夫だ」
エミールはメインである鉢肴を客に自分で焼かせるというのだ。
その分、口に入るまで時間がかかるため、メルセデスに持たせた寿司はその埋め合わせの意味もあった。
もちろん自分で焼いた焼き立てを食べる醍醐味はあるものの、料理人にコントロールできない要素を増やすのはリスクだ。
『高級な旅館で出す会席』というコンセプトからも外れてくる。
ロマンはまだ不安を拭えない顔をした後、腹をくくった。
「……もうっ、出たとこ勝負ですわ!」




