黒カレイの刺身
「ん、今日はこのポイントがええ」
沖へ進むこと20分。初老の海男、もとい釣り船『勇魚丸』の船長は穏やかな波をひと睨みすると、帆を畳み船を停めた。
岸まで泳げる距離だろうけど、十分海のど真ん中にいる気分になる。
小さな船だが乗るだけなら八人は乗れるらしい。
メルセデスによるとこの船は魔道具だ。高度なものではないが、一人で操作することに特化した作りらしい。
「うちは勇魚丸だけど勇魚釣り上げるにゃまっとーがいな(もっと立派な)船がいるだわね」
船長は上機嫌だが、何を言っているのか俺には半分くらいしかわからない。この町の人はみんなこうなんだろうか? ちなみにこっちの言葉は通じている。
勇魚というのはクジラなどの超大物のことだ。漁師の間では『えびす』とも呼ばれる。
この辺りの民間信仰では海の神やその使いとして、ゆるーく祀られているらしい。
俺たちが転移してきた社には、立派なクジラの頭骨が安置されているそうだ。身は結局食べたようだけど。
「えしこ潮だけん、あんさん方もはや釣るんだわ」
(いい潮なのでお兄さん方も早く釣って下さい)
と、船長は操舵席を離れてすでに釣り準備万端だった。客を置いて一番乗りとはやるじゃねぇか。
釣りが好きだから釣り船やってるんだなぁ。
トモ、つまり船尾の辺りは揺れるんだが、さすが海の男だ。平然と竿を振っている。
これは負けてらんねぇな。
「よし、俺たちも釣るか!」
「そうだねっ。ところで、この辺て何が釣れるんだろう?」
「なんだろうな……? まぁ釣ってみればわかるんじゃねぇか!」
そう言って俺は借りた竿を振った。
ちなみに釣りは初めてだ。
移動中に船長がいろいろ説明してくれたんだが、よくわからなかったので見様見真似。自ら糸に絡まっているメルセデスもわかってないようでちょっと安心した。
俺とメルセデスは右舷の胴の間、操舵席と船べりの隙間にいる。揺れが小さいのだ。
一投目は力まず竿の先くらいに糸を垂らす。餌は小さいエビで、俺はさらにちぎって頭だけ使った。大物狙ってるわけじゃないしな。
錘が海底に着いた感触。ゆっくり糸を巻き取ろうとした瞬間、重みを感じた。
「エミール君、引いてるっ、引いてるよ!」
メルセデスはひょっとして海中が見えたりするんだろうか? 根掛かりかと思ったが竿は立てられる。これは獲物が掛かってるんだろう。
竿を引いては糸を巻き取るを繰り返す。仕掛けが海面に近付くにつれ、文字通り魚が暴れるように力強く振り回された。
ひょっとして大物か!?
海面に黒い影が踊ればもうひと踏ん張りだ。獲物のヒレが海面を叩く瞬間、船長がタモを差し入れて引き揚げてくれた。
甲板で平べったい寄り目の魚が跳ねる。型はそこそこ、いや、引きの強さにしては存外小さかった。
体長はせいぜい、俺の手から肘くらいまでだ。
「まーじ(おやまぁ)黒カレイだわ。まいことはや(上手に早く)釣れましたね」
カレイなんて冬の魚だと思ってたけど、釣れるんだな。
俺は包丁とまな板を借りて裏返したカレイのエラの付け根からザクリと刃を入れた。早速血抜きだ。
続いて尻尾の根元に一刺ししたら、身をたわませるようにして血を絞り出す。
海水で洗ってみて出血が止まっていたら、丁寧に血を洗い流して完了だ。
「釣りは初めてちゅうにまいこと締めるね」
船長がにこにこ顔で言う。
隣を見るとメルセデスの顔が青くなっていた。船酔いか? まさか今更血が苦手……は、ないか。
「どどど、どうしようエミール君! お魚がわたしの餌から逃げていくよっ!? あ、また逃げた。待ってー、それおいしいよぉ!」
ただのボウズだったか。船酔いじゃなくてよかった。
やっぱり魔法か何かで海の底まで見えるようだけど、魚が逃げるのは多分あれだ。
「強い冒険者には魔物も寄ってこないっていうからな……」
「!」
釣り糸からも強者の気配が伝わるのだろう。
メルセデスがしょんぼりしてしまったが、そもそも釣り船に乗ったのは釣りを楽しむためだけじゃない。
俺はアイテムボックス(鞄)から自分の包丁とまな板を取り出した。
「まずは最高に新鮮なのを食べてみようぜ」
「わーい♪」
メルセデスの機嫌が一瞬で直った。
鱗を引いたら頭とはらわたを取り除く。洗ってよく水気を拭ったら、中央から刃を入れて表裏の身を剥がす。
切り身の端から皮を引くと端がぴろぴろ剥がれる。えんがわだ。
スライスして皿に盛ったら『今釣れた黒カレイの刺身』完成。
「まさげな刺身だわ。これやーわから一切れごしなはいな」
(おいしそうな刺身ですね。これあげるから一切れくださいな)
「おう、船長も食ってくれよ」
船長が立派なカサゴを差し出すのでなんとか意味がわかった。これはから揚げかなぁ。
持ってきたワサビとしょうゆを付けて、早速一口――と思ったら、船長に肩を叩かれた。
「最初はこれを付けてもまいだわ」
差し出されたのは塩だ。
これは魚の匂いを誤魔化すものが一切ないわけで、相当自信がないとできない食べ方である。
当然頂く。
「ああ……これはうまい」
「おいしいねぇ、臭みが全然ないよ!」
魚らしいアミン臭は無く、むしろ竹のような芳香を微かに感じる。
きっちり血抜きをした身はよく締まっていた。昆布締めしたら干物になりそうなくらいだ。
しょうゆのような水気が無い分、なおさら歯ごたえを感じる。
そして旨味が強い。
カツオ節のような熟成した旨味ではなく、瑞々しく弾けるような、力強い味だ。
それを引き立てているのは船長がくれた塩だろう。大粒でゆっくり溶けるのでマイルドな塩辛さだ。
「そりゃこの海からこしらえた塩だけんのー」
「なるほど……塩も買って帰らねぇとな」
当然ながら塩とワサビでも、しょうゆとワサビでもうまかった。
あっという間に食べ尽くして釣りに戻ろうとすると。
「もう無くなっちゃった……カレイ、わたしも釣りたいなぁ。海の底にいっぱいいるのは見えるんだよぉ……。もっと食べたいから、ちょっと潜ってくるね!」
「え、おい――」
言うが早いか羽織っていた上着を俺に預けて、船首から海に飛び込んでしまった。
「まーじ、なんだらか? あのおなごしははまったかね? この辺りはきょうてぇ魔物もちーた出るよ」
(あらまぁ、何事ですか? あの女性は溺れたのですか? この辺りは恐ろしい魔物も少しは出ますよ)
「魔物? やばいな、おいメルセデス! 早く上がってこい!!」
瞠目している船長と魔物という言葉に危険を感じた俺は、海面に向かって叫んだ。
メルセデスが飛び込んだ辺りを見つめるが、返事はない。この辺は深いのだ。
いや、メルセデスなら大丈夫な気もしてるんだけど……。
「大きいの捕まえたよぉっ!!」
「「!?」」
俺たちの背後、船尾の近くから飛び出したのはメルセデスだった。
身の丈より大きな魚に腕を回して締め上げながら、甲板に着地して船を揺らす。
足場も無いのにどうやって海面から飛び上がったの?
「これなんてお魚かなぁ? おいしいやつ?」
甲板を弱々しく叩く巨大魚は、暗緑色の奇妙な縞模様と凶悪な牙を持っていた。俺はこんな魚を知らない。
「こいつは水虎だわね。小さい船なら沈めてしまう、おぜぇ(怖い)魔物だわ」
なんと海の魔物だった。まぁこんなことになる予感はしてたけど。
正直味に興味はあるけど、これは船長に進呈することにしてメルセデスが凍らせた。当然美味なので高く売れるそうだ。
船長はそのお礼にと船の代金をタダにしてくれた。
「お礼が船賃じゃたらんがね。なんぞてごはやらか? (何かお手伝いできることはありますか?) 宿は決まってるだがね?」
「宿はこれからなんだ。おすすめはあるかい?」
「あら、この時期はどこの宿も空きがねえわい。観光シーズンだけんのー」
「冒険者向けの宿でもいいんじゃない? この町ギルドは無いけど、冒険者はいるよね?」
「ここにそげな宿はねえよー。冒険者も観光に来るだけだけん」
「えぇっ、そんなぁ!?」
なんてことだ……今日の宿が無い。ここは観光地だ。そういやアントレみたいな事情はなくても、今は全国的にバカンスの季節だったわ。旅行なんてするつもりなかったから舐めてたな。
野営の道具は置いてきたし、これは日帰りするしかないか? メルセデスがまたしょんぼりしそうだけど。
「ほんならうち泊まってくかね、民宿だけど。使ってない部屋があーけんね」
「いいの? ならお言葉に甘えようよ、エミール君!」
「おう、ありがたくお世話になります!」
「お代はタダでええからね」
背に腹は代えられない、というか渡りに船、助け船。さすがは船長だ。
部屋の準備があるから夕方以降にチェックインするということで船を降りた。
夕食は提供していないそうで朝飯だけお願いする。
そういえば船長の言ってることがわかるようになってきたなぁ、全部じゃないけど。
ちなみに針も餌も付けずにあのカサゴを釣ったそうだ。どこの仙人だよ。
出雲弁参考:北三瓶会様 http://www1.ttcn.ne.jp/~kitasanbe/a_top01.html




