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『ギルドの美食ハンター(2)』

お知らせ:3/31 20時頃、レイアウトが壊れていたので直しました。特にスマホの方には読みにくい状態でアップロードしてしまい、申し訳ございません。

 『居酒屋 迷い猫』への潜入失敗から一週間ほど、メリッサは日々の仕事をこなしつつもどこか上の空で過ごした。


 迷宮前での面妖な体験はなんとなく誰にも話せぬままだ。あの出来事はメリッサの内で整理がつかず、ミーナとエヴァにすらどう話していいかわからないのだ。


 そして迎えた月曜日の朝。

 いつかの一件から9日が経っていた。ギルド会館の傷だらけの扉に、まだちょっとだけ苦さを感じながら出勤する。出勤者の多さに、いつもよりシフトが厚いと気付いた。


 ミーナとエヴァも早番で出ている。

 受付は週休二日の早番・遅番シフト制で年中無休のため、三人が早番で一致することは滅多になかった。


「今日は遅番も三人来るよねぇ。私、金曜日まで十二連勤だよぉ……」


「先週は上層部がバタバタしてましたね。迷宮関連でしょうか」


「え、なんかあったっけ?」


 ミーナとエヴァがカウンターにぺたぁっとしながら言う。

 話についていけないメリッサにミーナは心配そうな目を向けた。


「ちょっと、しっかりしてよぉ。先週からぼんやりしてるよ?」


「らしくありません。先週から休みがないので疲れてるのでは?」


「え、そうだっけ?」


 メリッサもミーナ同様、先週の月曜日から休みがなかったが、シフト表を見て無意識に出勤していた。上の空にも程がある。


 友人たちに心配されつつ、全体の朝礼が始まった。

 ギルド長、もといギルド・アントレ迷宮統括であるクラハ・デュカの声が響く。


「――知っている人もいると思いますが、ギルドと代官は迷宮との対話に入りました」


 職員たちに緊張が走ったが、騒ぐ者はいない。

 続くクラハの説明と指示は簡潔でわかりやすいものだった。


 迷宮入口から概ね半径50メートル周囲の地上が迷宮化し、ギルド会館も迷宮の一部になったこと、それによる人体への悪影響はないこと。


 『居酒屋 迷い猫』という店も同様に迷宮化したが営業に変化はないこと、一般人の入店も制限しないが迷宮主や階層主も客であること、入店時は非武装を推奨し、店内での暴力行為・店の内外によらず店員や客への狼藉は街の存亡に関わるため、ギルドが私的制裁を加えること。


 他にも迷宮化した店舗や住居がないか調査中であり、見つかり次第、同様の扱いになること。


 最後に、件の店はなかなかいい居酒屋だったという余談を以てギルド長の訓示は終わった。


「!」


 『迷い猫』の名前が出た時、メリッサはなんとか声を上げるのを堪えた。

 今すぐ友人たちといろいろ話したい気分だが、すぐに部署ごとの朝礼だ。


 受付嬢たち契約課に対しては課長から指示があった。


 まずギルド長が開示した内容を来館した冒険者・依頼者に周知すること。その際『迷宮内であっても王国の法が適用される』ことを強調すること。


 最後に『グーラのめしログ』なる紙の束を取り出し、掲示板にコーナーを作るよう指示された。


 そしてメリッサたちは5日間のデスマーチを歩き始める……!


  ***


「その居酒屋ってのはギルドが経営するのかね? 一枚かませておくれよ」

「階層主って魔物だろ? 危険はないのか?」

「店員は人間なんだろ? 救出依頼は出ないのか?」

「デートして下さい」

「要するに店ごとぶっ潰せばいいんだな!」

「いや、討伐しに行ったら入れなかったぜ」


「最初の三名様はこちらのリーフレットをよくご覧ください。迷宮の中でも法律は変わらないことをお忘れなく……後の三人は訓練場までツラ貸せ」


 配布用の説明資料があるなど上層部の準備は抜かりなかったが、それでも受付カウンターには問い合わせが殺到した。

 それを一手に引き受けるのが受付の仕事だ。


 そもそもルールブックを読んで従うなど冒険者の苦手とするところ。自由過ぎる問い合わせ(・・・・・)内容にメリッサの『にこやか丁寧』も崩壊寸前だ!

 訓練場には教導課が嫌な笑みを浮かべて控えているぞ!


「その居酒屋のクーポンはないのか?」

「結婚してください」

「ねぇねぇ、いいダイエット法知らないかしら?」

「楽して儲かる方法ありませんか?」

「神様からあなたへの伝言を預かっています」


「……訓練場行ってこい」


  ***


「どうしてっ! 人間はっ! 右にあるものを左に移す程度のこともっ! できないのよっ!!」


「無能な人類は滅びてしまえぇっ!」


「……まぁ、変化に戸惑っているのでしょう」


 ようやく取れた昼休憩。

 メリッサはカフェのテーブルに拳を叩きつけながら叫んだ。

 『迷宮との対話』という大ニュースに他の二人も似たり寄ったりの状況らしい。今日は訓練場が大盛況だった。


「おいっ、三人とも早く仕事に戻らんか!」


 今日は遅番が残業対応の代わりに、早番は休憩なしだ。課長の怒鳴り声に三人は食べかけの焼肉定食と泣き別れた。


「壺買いませんか」

「通報しました」


「お姉さん、そろそろ脱ぐ?」

「通報しました」


「僕のパンツコレクションを見に部屋へ来ませんか」

「通報しました。お前何度目だよ!?」


「お疲れのようだな。この指先の魔術師が個室でマッサージをしてあげよう!」

「通報する前に十発殴らせろ」


「好きな動物は?」

「つうほ……猫!」


  ***


 金曜日の夜9時。

 デスマーチは終わりを迎え、遅番残業だったメリッサたち三人はフラフラと覚束ない足取りでギルド会館を出た。

 土日は二連休、来週からは通常シフトに戻る。


「この開放感……やっと日常に帰ってこれた……」


「十二連勤……乗り切ったぁ」


「どうします? 大人しく帰って寝ますか?」


 疲れ切った身体にエヴァの提案は魅力的だったが、メリッサにはこのところの職場と自宅との往復で持て余したものがあった。酒を飲みたい。

 決して馬鹿の相手してストレス貯め込んだから飲みたいわけではない!

 だから、


「お腹も空いたし今日くらい豪華に行きたいところだけど……」


 そう言ってメリッサが空を仰ぐと、小雨が降っていた。暦はもう雨の月なのだ。

 傘はあっても裏町まで歩く気分じゃない。ついでに気力もない。週末の夜に雨だと馬車も捕まらないだろう。


「それなら、例のお店行ってみる?」


 ミーナが提案するのはもちろん、『居酒屋 迷い猫』だ。

 徒歩一分かからない理想の立地。ギルド長によるとおいしいらしい。メリッサも『グーラのめしログ』とかいう珍妙な食レポに目を通す度、何かのゲージが溜まるのを感じていた。


 この一週間まさに渦中の店だったわけだが、メリッサも中の様子は聞いていない。それならいつかのリベンジをかねて……。


 ――じゃなくて、今日は何も考えずに飲んで食べて楽しみたいわね。


 誰が決めるでもなく、三人は店の前まで来ていた。さすがに近い。

 幾度となく開けなかった引き戸に、メリッサは再び手をかける。今日は入れるという確信はない。

 またギルド会館に戻されたら、と思うと不安だ。迷宮主との会談に使われたというから、お値段も少々不安だが。


「いらっしゃい!」


「いやっしゃいませ~。三名様カウンターでもいい?」


 狭い店内は混雑していた。

 店員と思しきピンクブロンドの髪の女がカウンターを勧める通り、テーブル席は埋まっている。

 ひとつは見覚えのある冒険者同士のカップルで、デートなのだろう、武装していない。外は雨だというのに幸せそうでなによりだ。


「もげろ」


「生えろ」


「……なにがですか?」


 次に鬼人族の家族連れがおり、家長らしき老人はやけに巨漢だ。

 そしてテーブルをくっつけて作ったような卓を囲んでいるのは。


「あれが……迷宮の……」


「ほんとにいるんだねぇ……」


「初めて見ました……」


 テルマと部下のウンディーネ、座敷童、それにフリムとキノミヤが同席していた。なんの集まりかわからないが楽しそうにやっていた。


 誰が誰かなど知らぬメリッサたちでも、フリムやウンディーネ、キノミヤの外見や各々の気配から常人ではないことは一目でわかる。


「でも怖いとかはないわね」


「むしろ平和ですね」


「おとぎ話の挿絵みたいでかわいいわぁ」


 現に冒険者がそばにいてもトラブルが起きていない。むしろ普通の冒険者酒場の方がよほど物騒なくらいだ。


 自分たちの仕事(デスマ)も少しは役に立ったのかと思うと、ちょっと嬉しいメリッサだった。


「はい、カウンターつめて~、入れたげて~」


 店員の呼び掛けでカウンターにいた三人の客が詰めてくれたので、メリッサたちも会釈をして座る。こちらも迷宮の住人たちのようだと気配でわかった。

 メリッサの右隣では異国の服を着た幼女のような客が酒を飲んでいるのだから、間違いようがない。


 他の客は皆楽しそうにしているが、その三名だけは真剣な顔で一皿のタコ焼きから食べる一個を選び抜いていた。


 ――なんかの儀式なの……?


 怖いのでメリッサはなるべくそちらを見ないように、黒板のメニューを眺める。料理は意外と安い。


 『今日のおすすめ』には海鮮が並び、刺身が人気なのだと伺える。メリッサはテーブル席に海鮮丼にして食べている客がいたのを思い出した。


 ――『ルーレットタコ焼き』って何……?


 『定番』には揚げ物やチャーハンなど疲れた身体が求めている料理や、ちょっとしたおつまみが並んでいる。


「あ、『手羽先揚げ』って『グーラのめしログ』にあったねぇ」


 ミーナに言われてメリッサは思い出す。

 『めしログ』にあった鍋や旬の刺身は恐らく季節メニューで今は無いものも含まれているが、定番に並ぶ『ササチー』や『チャーハン』もメリッサのゲージを高めていた料理だ。仕事中にああいう飯テロはほんとやめて。


 そして自称『美食ハンター』であることも思い出した。自称だということも思い出した!

 だがここは『美食ハンター』の本領発揮。『めしログ』などに負けていられない。今日はこの店を食い尽くすべきだろう。ならば、


「お刺身もいいけど今日はガッツリいきたいわよね、ここ安いし」


「ですね。手づかみはしたくないので他の揚げ物と……私はレモンサワーで」


「わたしも」


「私もぉ」


 エヴァの提案に乗り、注文が決まった。乙女は手づかみしないのだ!

 注文を伝えると若い料理人が手際よく調理していく。やはり冒険者酒場のように作り置きはしないのだ。

 だから小さい店なのか、と納得したメリッサは俄然料理への期待を高める。


「はい、お通しとレモンサワー」


 お通しはタコとキュウリの酢の物。泡を立てるレモンサワーのジョッキを合わせ、


「「「お疲れさまー!」」」


 レモンの酸味と炭酸の刺激が胸に染み渡る。メリッサの狂騒曲のような二週間はこの店の門前に始まり、ついに店内で終わろうとしていた。


「「「っだはーっ!!」」」


 乙女は手づかみしないが、一杯目は「っだはーっ!!」が出るのだ!


「こんなに強い炭酸は初めて。キンキンに冷えてておいしいねぇ」


 ミーナが言う通り、このレモンサワーには凍ったレモンが沈められていて良く冷えている。レモンの香りと炭酸が強くて、ほんのり甘みもあってうまい。


「他にどんなお酒がありますか?」


 早くも飲み干したエヴァが先ほどの店員に尋ねた。そういえばドリンクメニューは黒板にも無い。


「今日のサワーはレモン、グレープフルーツ、キウイだよぉ。ハイボールはウィスキーかカルヴァドスを選んでもらいます! うちの炭酸はわたしの特製だからおいしいよ! あとは清酒と焼酎がおすすめなんだけど、仕入れが安定しなくてメニューに出せないんだよねぇ。でもそこが燃えるっていうか、やっぱり貴重なお酒ほど飲みたくなるよね! そんなにお値段しないのもあるし。あ、今日の焼酎は泡盛があって、これは甕でしか仕入れできない――」


 お酒の話は長くなるタイプらしい。なんだかミーナの語り口に似ているが、耳は尖っていないのでエルフではなさそうだ。


 お酒のうんちくを聞き流していると、鋭い目つきで調理していた赤毛の料理人が、カウンターの向こうから料理を置いてくれた。この客数分を一人で作るのは大変そうだ。


「『とり天』、『厚揚げの鶏そぼろあんかけ』、『ササチー』、『激辛麻婆豆腐』お待ち! 店長、厨房回らないから満席の札掛けてきてくれよ」


 なんとこのふんわりした人が店長なのか、という驚きと、


「『激辛麻婆豆腐』って誰頼んだの!?」


「……私です。作ってる時の匂いに負けました。反省はしません」


 甘いものが好きなエヴァが激辛の誘惑に負けるとは相当だ。確かにニンニクを炒める匂いはたまらなかったのでいい判断かもしれない。

 辛いものが好きなメリッサはニンニクを気にして避けたのだが、明日お休みだし。明後日もお休みだし。


 そして熱々にかぶりつくとこれがうまいのだ。三人はちょっとの間遭難していた人のように食べた。


「ササチー罪深いわ! ここランチも営業しないのかしら?」


 メリッサは意外とジューシーなササミと、シソ・チーズ・ソースの織りなす複雑な味に陥落した。『ササチー』のフルネームはもう覚えていない。

 ちなみにランチ営業するとエミールの睡眠時間がなくなる。


「とり天に藻塩をつけると麦焼酎に合うのよぉ」


 ミーナはいつの間にか麦焼酎のソーダ割りを飲んでいた。

 物語では弓と精霊魔術の達人で草食の長命種族として描かれがちなエルフだが、実際はなんでも食べる。弓の達人が多いのは当然森で動物を狩るからで、狩った獣は食べるのだから。


 ただしエルフの国は大森林地帯にあって森を保全している。そのため農作物が少なく、他国から輸入する野菜は珍重される傾向があるのだ。

 強いて言えばエルフは珍しい食べ物が好きな種族である。


「厚揚げとろとろでおいしい……激辛麻婆豆腐は二人に任せます……」


 唇を腫らしたエヴァはご飯をもらってもギブアップだった。クールなエヴァにしてなかなか見られない表情である。


 魔族といえば生肉料理だが、生肉ばかり食べているわけではない。

 甘いものが好きなエヴァは〆の『ハニートースト』にアイスクリームを乗せるべく機会を伺っていた。


 しかし今はここの肴をカルヴァドスのソーダ割りで楽しみたい。ササチーもとり天も気に入ったが、エヴァの一押しはカリッと揚げた厚揚げに鶏そぼろあんをかけたこの一品だ。

 厚揚げは惣菜屋で買えるありふれたものだが、揚げたてはなかなか食べられるものではない。


 二人に任せたはずの激辛麻婆豆腐も、小さなスプーンでちょいちょい摘まむ。舌にくる辛さの他にピリピリする独特の香りもあり、苦手なのにやめられない。これは〆のアイスクリームが余計においしくなる予感。


「はい、梅酒ソーダ。麻婆豆腐辛かったでしょー?」


「ぬ、メルセデスよ。われにも梅酒をもて」


 右隣の幼女のような客も、ふさふさのしっぽを揺らしながら梅酒を注文した。

 チラ見すると唇が腫れているので辛い物を食べたのだろう。


「あの店長、メルセデスっていうのね……どっかで聞いたような名前だけど……」


 そういえばギルドでは店長・店員の名前が一切出なかった。敢えて広めるものでもないのだろうと、メリッサは気にせず黄金色のグラスを傾ける。


 自家製らしい梅酒は華やかで嫌味のない香り、甘さ控えめで料理に合う。

 ここは置いている酒の種類は多くないものの、質がいい。


 メリッサの知る限り、街の飲食店は屋台、冒険者酒場、高級レストランが主流だ。居酒屋は新規開店してしばらく経つと、たいてい冒険者酒場になる。


 これには事情があって、この街の飲食店にとっての最大の市場は冒険者だからだ。刹那的に生きる彼らは大食い・大酒飲みが多くて客単価が高い。宿を兼ねている店など三食利用されるので大変儲かるらしい。


 冒険者酒場はテーブルの間隔が広いというだけでなく、料理の提供時間が短く、一皿の単価は低く設定しているという特徴もある。つまり安くて早いのだ。

 この店と比べると半分の時間・金額で倍以上の量が出てくる。酒も安酒しか置かない。


 これは街の黎明期にとある冒険者酒場が始めたことで、『料理が来なくて暴れる』、『後から入った客の料理が先に出てきて暴れる』、『ちょっと飲み食いしすぎたら金が足りなくて暴れる』というトラブルを防ぐためだったという。

 だから王都に行けばまた違うのだろうが、この街の冒険者酒場に丁寧な仕事は期待できない。期待する客も少ない。


 だがそれ故に一般人には入りづらく、コストパフォーマンスを感じにくい店なのも事実。

 メリッサたちも冒険者酒場に行く際は、食事というよりあの猥雑な雰囲気を楽しみに、もしくはいい男いないかな、いないよな、くらいの気持ちである。


 この店はこれまで冒険者が来なかったのがよかったのだろう。

 丁寧な料理と酒をお手頃価格で提供してくれる店は貴重だ。まさに庶民の味方。


「去年閉めたこの近くの鬼料理店、最近復活の兆しらしいねぇ。そろそろこの街も冒険者だけの街じゃなくなるのかなぁ」


「冒険者の好みも変化しているのではないでしょうか。実際そこにも冒険者の客がいますし」


 ミーナとエヴァの言う通り、いずれこの街も冒険者一辺倒の時代は終わるのだろうとメリッサも思う。この()で生まれた者としては、この先街がどれだけ変化したところで今更何の感慨もないはずだ。

 しかし、今は自分たちもその変化に寄与する力がある。


「村を離れた人たちが帰ってくるくらい、いい街にしないとねっ!」


 と、せっかくいいこと言ったメリッサにエヴァとミーナは。


「そんなことより、さっきの店長ですよ。メルセデスってまさか……」


「うん、シドニア卿のご息女だよねぇ。旅の途中で会ったことあるけど――」


 その話の衝撃に、『せっかくいいこと言ったのに!』という言葉はメリッサの頭から霧散した。

 『メルセデス・シドニア』はギルドで割と有名な名前だった。アントレから出たことのないメリッサでも知っているくらいには。


「そ、それって――」


 ――迷宮討伐者ダンジョンクラッシャー!?


 そう言いかけた時、思わずのけぞったメリッサは後ろに傾いた。酔っていたせいもある。

 カウンターに伸ばした手は空をつかみ、椅子は高く足がつかない。為す術はなく、目を閉じ衝撃に備えた――


 ――ぽふん、と誰かの腕に抱きとめられた。感触から女性だ。

 左隣のミーナだろう。意外と胸あったんだ、などと思いつつ顔を上げたメリッサは、こちらを覗き込む黄色い瞳と片目を隠す赤毛を見た。ミーナなら金髪で目は青い。


 すごい美人だと思ったらグッと抱き寄せられる。いい匂いのする赤毛がメリッサの顔の上にも落ちた。

 濡れた唇が近付き、耳元でささやく。


「その話は当分秘密にした方がいい。あとここの一番のおすすめは手羽先揚げだぞ」


「!?……あの、まさか、こんなところに……カカカカ、カガチ様ぁぁぁっ!」


 カウンターの右端にいたのはカガチ、手前にビャクヤ、グーラと並んでいたのだが、そちらを見ないようにしていたメリッサは気付かなかった。グーラの姿が目を引いたこと、ビャクヤがカガチより長身だったことも理由の一つだ。


 ちなみに助け起こしに来たミーナとエヴァはカガチの顔を知らない。

 映像を記録した魔道具は存在するらしいが、高値で取引されており手が出ないのだ。

 メリッサも何度か遠巻きに見た程度、あとは人気絵師の手による薄い本で補完していたので、目の前に実物がいても気付くまでに少しかかった。


 メリッサの心臓が大きく跳ねる。

 カガチが、自分を抱き寄せて、手どころか舌を伸ばせば届く距離で、ささやいたのだから当然だ!


 ――うわっ、生カガチ様、すんげぇ美人! いい匂いするくんかくんか。もったいねー! こんな近くにいたのに気付かなかった今までの時間もったいねー!


「きゅぅ……」


「ちょっとぉ、メリッサ酔っ払ったの?」


「気を失ってますね。ミーナはそっち持ってください……連れがご迷惑をお掛けしました」


 メリッサが最後に見たのはいたずらが成功したように笑うカガチの八重歯だった。尊い。


 なお、満席の札が掛かっていたので肉屋は今日も入れなかった。

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