蒸留所
「客人か、マルタン」
「はい父上。今年の酒を何本か分けます」
「お世話になります、コンタン卿」
隊長にはもちろん名前があり、マルタンという。
実はこの家、コンタン家は酒造りの功績で何代も前に貴族籍へ加えられた。メルセデスの父、シドニア卿と同じく爵位なし貴族というわけだ。
ドアにも付いている葡萄の房の紋章は家紋だろう。酒造り貴族に相応しい。
「これから蒸留所に行くが、見るかね?」
「わぁい」
コンタン卿がニコリともせず言った。
厳しそうに見えるが、西部らしい気のいい人のようだ。
と、その前に隊長親子は前庭の真ん中で足を止めた。貴族の屋敷なら噴水でもありそうなこの位置に、葡萄の房を天に掲げて握りしめる少年の像が建っている。
親子はその前に膝をついて目を閉じ、何事か呟いた。お祈りだろう。だがフィニヨン教じゃない。
「神よ、我らを守り給え……当家の開祖に酒造りの方法を授けた神じゃよ。名は伝えられず『御酒の神』とだけ呼ばれておる」
「この土地独自の信仰で、当家が信者の代表のようなことをしている。この像のようにブドウを酒に変えたと伝えられているな」
「だから西部のお酒はおいしいんだねぇ。あれぇ……?」
土地神みたいなもんか。俺には口を開けて生絞りブドウを飲んでいるように見えるが。
王国の民は宗教にこだわりが小さいから、フィニヨン教がメジャーでもグーラみたいな土地神信仰は結構あるんだろうな。
ちなみに王都だと酒の神はマッチョな大男の神とされていて、冒険者酒場の看板によく描かれている。
ブドウの神という女神も酒の神として扱われることがあるけど、酒器や肴の神とも言われる。
王都の人はシャツのしわにまで神をでっち上げるから、どこまでほんとか。
メルセデスはなぜか不思議そうな顔で神像を眺めていた。全裸の少年像の股間を覗き込む妻。夫として止めるべきだろうか。
そこから歩いて納屋をいくつか通り過ぎると、屋敷と同じくらい大きい、倉庫のような建物に入った。
梨のいい香りが充満している。
「うわぁ!」
「こりゃすげぇな……」
「1000Lの湯煎蒸留器……と言われてもピンとこないか」
「お湯を沸かして、そのお湯でもろみを加熱する蒸留器だね。珍しいよぉ、王国ではここだけじゃないかな。それにこれ、どうやって作ったのか想像も付かないよ」
人が入れるくらいの大釜が水を満たしたジャケットで覆われている。全部ガラス製だ。内側の大釜は梨のワイン、もろみで満たされていて、ジャケットの水に薄黄色い酒が浮かんでいるように見えた。
下で火を焚けばジャケット内部がお湯になり、その熱で大釜のもろみが蒸留されるわけだ。
その蒸気はらせん状に巻かれた冷却管の中で冷やされ、液化して小ぶりの樽に流れ込んでいる。これが一回目の蒸留、初留だ。
初留で取れた酒は二度目の蒸留、再留に進む。幻の酒は二段階蒸留だった。
ちなみに原料の梨は果実として売っても最高級品になるだけのものを厳選し、それを売り物にならない状態まで完熟させてから絞るそうだ。
果汁は元から持っている酵母で発酵し、もろみになる。
「ワインのままでもおいしいよ、エミール君!」
酒に敏感なメルセデスは梨のワインをもらっていた。本命の前に飲み過ぎるなよ。
ワインをくれたのは隊長の弟嫁。そして跡継ぎである隊長の弟はバルブを操作しながら、笑顔で手を振っている。陽気だ。
「樽にお酒が溜まってるよ!」
冷却管の出口に張り付いていたメルセデスが顔を上げた。大興奮だな、来た甲斐があった。
覗き込むと出口にあてがった小ぶりの樽に透明な液体が溜まっている。
「今出ているのは蒸留の始め、『テット』と呼ぶ部分だ」
バルブを操作していた隊長が説明をしてくれた。
コンタン卿はマグカップにサンプルを取り、味を見ている。
メルセデスがそれを物欲しそうに見ていると――
「そろそろいいじゃろ、マルタン」
「はい」
隊長は酒を溜める樽を大きめのものに交換し始めた。酒の入った小さな樽はコンタン卿が回収し、寸分のためらいもなく中身を捨てる。
メルセデスが悲鳴をあげた。
「もったいないよぉ!」
「テットは雑味が多くて再留に入れられんのじゃ。大量生産しとるとこなら次の初留に混ぜとるじゃろうが、当家のしきたりでの」
「当家の梨は自家栽培で、何バッチも初留するほどの量じゃない。だから『クー』も捨てるのが御酒の神様の教えだ」
しきたり多いな。もったいない気もするが、そうやって味を守っているわけだ。
ちなみにラベルを貼らないのも、ブドウを使わないのもしきたりだ。ブドウは御酒の神の象徴だそうだ。
圧搾機が無かった時代は果実を足で踏んで潰していたからだろう。
神様本人は生絞りしてるけどな!
信者にはブドウでワインを作る酒造家多いらしい。信者代表ってかほとんど教祖なコンタン家だけはブドウを使わず、しかし最高の酒を造るようになった……と言い換えれば神との取引か。
『テット』に続いて今取り始めたのが『ブルイ』、それが終わると『クー』と呼ぶ。再留に進めるのはブルイだけだ。
それなりにアルコールを残したまま、もろみを捨ててしまうということになる。大きな蒸留所だとしっかり蒸留して次のバッチのもろみに混ぜるらしい。
「ブルイも酒としては出来上がっておらんからな。飲んではならんぞ、冒険者の娘よ」
「はぁぃ……」
ガッカリした様子のメルセデスと樽を覗き込んだ。ブルイはテットよりも勢いよく出ていて、少し白く濁っている。アルコールは30%ほどらしい。
コンタン卿は出来上がる前の味を見て蒸留の状態を嗅ぎとっていたわけだ。料理人が調理の途中で味を見るのと似てるな。
「ここから十時間ほどかけてブルイを取ったら、蒸留器に戻して再留する。再留の場合テットの次は『クール』、その次を『スゴンド』と呼ぶが、商品になるのはクールだけだ」
スゴンドは味の調整に使われた残りをもう一度蒸留して、消毒用に治療院へ寄付しているそうだ。
これも大きな蒸留所だとスゴンドは次のバッチの再留に回すらしいから、贅沢な作り方をしている。やはりしきたりだった。
当然薪を山のように使うので、隣の納屋には薪の山ができていた。
さて、いつまでもここにいると邪魔だろう。酒樽に張り付いたメルセデスを剥がして果樹園でも見せてもらおうか。
「言い忘れていたが、蒸留中寝てはいけないというしきたりでね。家人は明後日まで交代で仕事をしている。ろくなもてなしもできなくてすまないが、自由に過ごしてくれ」
蒸留中は薪を焚くから火事になるのを防ぐためのしきたりなんだろう。寝不足で余計事故が起きそうだけどな。
使用人と客は寝ていいそうなのでブラックじゃない。でも使用人は家人の世話で忙しいだろうし、客としても非常に休みづらい。
「じゃあ厨房借りていいか? 宿のお礼に精の付くもの作るぜ」
「それはありがたい。案内させよう」