『海苔弁当』
――あの声……エミール君が来てる。
メルセデスは人と妖精の間に生まれた。本来なら秀でた力を持つ子が産まれるはずだ。しかし、妖精女王の力は強すぎた。
メルセデスは生まれつき、よく記憶をなくす子どもだった。
一度に失う記憶は少しなので、何かを忘れたことは自覚できた。
その度に両親や乳母など、身近な人が悲しむのは怖かった。
一番嫌なのは思い出を失うことだった。
庭木の鳥の巣で雛が孵った。かわいかった。
それを狙う猫が木登りに失敗して面白かった。
雛を襲わないよう猫にご飯をあげようと、屋敷で食べ物を探した。
すると父が陰謀を練るため用意した隠し部屋を見つけてしまい、ドキドキした。
こんな記憶も、ある日フッと虫食いになってしまう。
忘れても描いた絵は消えないことに気付き、お絵描きが習慣になった。お絵描きすることを忘れないよう、メモも増えた。
「あのいたずらっ子は黒猫だったっけ」
初めてアイスクリームを買ってもらい、その味に感動した時。忘れたはずの、あの日の猫の手触りや胸の高鳴り、隠し部屋の埃っぽさを少し思い出した。
『おいしいものを食べると少しだけ記憶が戻る』
それに気付いたメルセデスはいつも何か食べているようになった。最初のお気に入りは大袋入りのラスクだ。
「あなた、いつも何か食べていますわね?」
「えびせんおいしいよぉ。食べる?」
八歳の時、こましゃくれた侯爵令嬢と友達になった。ロマン・ド・サン・シュフランというらしい。大人に囲まれて育ったメルセデスには初めての友達だ。
『なんでも記憶する魔法』を母から授けられた後も、『食べること』は特別だった。『記憶したことを再現する魔法』をもってしても料理技能は身に付かなかったからだ。
十二歳で冒険者登録をした。すぐに周囲の大人たちから技術を吸収し、人類にとって過剰な戦力となった。
当初は父の期待に応えられることが嬉しかったものの、陰謀の駒にされていると気付いた。
「最低限の仕事は受けるから、探さないでね。お母様」
できるだけ両親と関わらぬよう、旅に出た。十六歳の時だ。
もう期待の籠もった目で見られるのも、自分に追い越された人の顔を見るのも嫌だった。母は母で何か言いたそうにしながらも、何も言ってはくれなかった。
「消えない火をもらったから再生する蛇を燃やしてみようよ!」
「消えないということは燃えるものが無くなっても消えないということですね。興味深い」
「それいつか世界を焼く火になるのでやめるのですわ」
「誰にもらったんだい、そんな危険物?」
冒険者になっていたロマンと再会し、王都を拠点にパーティー子豚の丸焼きを結成したのは十八歳の頃だ。
結局実家と仕事の縁は切れず、王都に拠点を持つ必要があった。
元々王宮筋の仕事が多く、浮いた存在のメルセデスだったが、仲間に囲まれたことで一見普通の冒険者らしく見えた。
家に縛られなくなったメルセデスも冒険者らしく振る舞うことを好んだ。
つまり、少々素行が悪くなったのである。
「『半島には入らず迂回しろ』って、この依頼、面倒ですわね」
「隠し事の多い依頼人のようですね」
「半島かぁ。折ったら島だから、通り抜けOKだよね!」
「地図を作る人が大変だからやめようか」
自分のことを話さないマゼンタはともかく、ロマンとカタリナも上流階級の実家で溜めた鬱憤があった。そんな彼女たちと暴れ回るのは楽しかったのだ。
相変わらず旅先ではおいしいものを探した。
野営中にマゼンタが作る料理も、メニューは少ないがおいしかった。マゼンタが料理中だけ優しい顔になるのは不思議だった。
一方、実家の首輪が外れたメルセデスを恐れる向きもあった。ギルドや王都の商人たちからは化け物か危険物扱いである。
そんな時、魔道具作成中に借家を崩壊させた。ついに王都中の不動産屋と宿屋から出禁を食らってしまう。
「長期なら月払いでいいよ。どうせ四部屋しかないから貸切りだ。悪いけど食堂を使うのは深夜にしておくれ。あんたらを見つけると騒ぐ連中もいるからね」
「ありがとう、クレアさん! どうせお仕事から帰るの夜だし大丈夫。はい、今月のお家賃」
マゼンタを紹介してくれた、元有名パーティーの剣士・クレアが気に掛けていてくれた。
金獅子亭という老舗の宿だ。評判の料理を自由に食べられないのは残念だが、頼めばお弁当を作ってくれるので不便はないだろう。
「これがお弁当ですの? パンの存在感がすごいですわ……」
「悪いねぇ、息子の修行に付き合わせちまって。あいつ初めて弁当作ったんだよ」
金獅子亭に世話になって初日の朝、渡されたお弁当は大きなパンと小さな包みだった。宿の息子が慣れないながらも作ったという。極めて素朴なメニューが予想された。
迷宮での休憩中に包みを開けると。
「あ、このジャム瓶に入ってるの煮詰めたカレーだよぉ!」
「パンに塗れということですわね。他の瓶はピクルスとマーマレードと、梨のコンポートですわ」
「どうして瓶詰めばっかりなんだろうね?」
「味はなかなかです」
保存が利くように。消耗していても食欲が湧くように。飽きないように。
お弁当には拙いながらも毎度工夫が見られた。
未だ料理には特別な思いのあるメルセデスだったが、宿のお弁当は特別な料理になった。
殊更気に入ったのは『海苔弁当』だ。
宿の息子が作りやすかったのか、これが一番多かった。
「いいにおーい! 今日のおかずはなんだろな~♪」
「このお弁当もだいぶこなれてきましたわね」
「これはいいものだよ」
「んまーいーぃっ!」
冒険に向かう馬車の中。四角い弁当箱の蓋を開けると、海苔としょうゆの香りがする。
まず目に入るのはおかずだ。日によって変わるが鶏の味噌焼き、ちくわの磯辺揚げ。フライはタラやエビカツで、焼き魚が入る時はチキンカツだ。それに煮物、きんぴらごぼう、卵焼き、酢れんこん、お新香をこれでもかとぎゅーぎゅーに詰める。
それはまるで、食べる人への愛情を詰め込んだかのようだった。面識はないが。
ご飯に乗った海苔には細かい切れ込みがあるので、箸を入れても海苔が持って行かれない。海苔の下にはおかかだ。ご飯の中程にちぎった海苔の層があり、底にはおかかが敷かれている。
料理人の試行錯誤は続く。ソースやしょうゆの小瓶に味噌汁の入った水筒も持たされるようになった。温められるように金属の弁当箱だった時もあった。一回で煤けた。
小さな革袋に入ったタルタルソースは戦闘中に破裂した。以来、持ち物を削って弁当をアイテムバッグに入れるようになった。
その後メルセデスは大容量小型アイテムバッグを開発したが、元はといえばお弁当のためだった。
「あれが息子ですわね、まだ子どもに見えますわ」
「目つきの悪さは信徒クレアに似たようですね」
「あ、あー、エミールって名前、らしいよ。君らと同年代のはずだ」
「ほぇ~……」
昼間の食堂には出入りできなかったが、どんな人がお弁当を作っているのか知りたくて皆で店を覗いた。
赤毛で目つきの悪い、同年代の男の子が父親と厨房に立っていた。
顔は真剣そのものだ。修行中とはいえ小柄な肩に客の期待を背負ってフライパンを振っている。
メルセデスはその後も一人で厨房を覗くようになった。高度な【気配遮断】を使いながら。
二十歳を目の前にして、メルセデスは初めての恋をしたのだ。
***
――エミール君が、料理してる……。
声を掛けることもできなかったが、幸せな日々だった。その日常を守りたいから、迷宮の封印などという無茶もやった。
その思い出を守りたいから、大宮殿の呪いが『なんでも記憶する魔法』を浸食し始めた時、即座に味覚を犠牲に選んだ。二つの魔法も大きな制限を受けた。
クレアに相談し、アントレに店を構えた。そこでエミールを雇うことまで含めて、クレアとライアンの手引きだ。
『迷宮主の息子』を狙う者から守るためとはいえ、随分あっさり自分の息子を差し出したものだとは思う。
だがアントレで過ごす日々が王都の何倍も素晴らしかったのも確かだ。
味を理解できないことが増え、怖くなった。いつか何を食べても味がわからなくなる日が来る。その時、記憶の浸食が始まるのだ。
その前にコントロールできなくなった【石英化】を使い、自身の時間を止める。
それが大切なものを失わない唯一の方法だった。同時にエミールとの別れを意味する。
――仕方ないんだよ……。
アントレでエミールと過ごした時間は、自分を納得させるためのモラトリアムみたいなものだった。
結局ギリギリまで決心できなかったし、両親の乱入でメチャクチャにされたし、エミールに別れを告げる勇気も出なかったが。
――エミール君、怖い顔してる。黙ってたから怒ってるかな……。
体内に大宮殿を封じたためか、メルセデス自身が迷宮化したのは予想外だった。というか『迷宮・メルセデス』とか自分でも意味がわからない。
――マグロ司教にカツオ司祭、野菜修道士……子どもの頃よく描いたな。どうして皆と戦ってるんだろう? マゼンタさん、いつ来たの?
湧いている魔物は幼少期の空想の産物だった。
迷宮化のお陰でまだ意識はあり、迷宮内外の様子もある程度知覚できる。もう一度エミールや仲間の顔が見られるとは思っていなかった。
最後にエミールの笑顔を見られなかったのは残念だが、愛する人にとって一生忘れられない女になったとは思う。
――さよなら。エミール君のご飯を食べられて、わたしは幸せだったよ。
鬼気迫る表情で料理をするエミール。メルセデスはその姿を目に焼き付け、眠るようにまぶたを下ろした。
***
――あ、あれ『海苔弁当』だぁ……お腹空いたなぁ。
いよいよお別れだ、と思ったのだが。
最後に見たエミールが何を作っていたのか、遅れて気付き目を開けた。肉体は石英化しているので、実際は残された自我がそう感じただけだ。
不思議なことに、『あの日』食べた味がありありと思い出された。だから空腹感を覚えてしまったのだ。よだれが止まらない。
もう味なんて思い出せないはずなのに。
石英と化した肉体は唾液など分泌しないはずなのに。
パーティー解散以来、食べていなかった『海苔弁当』の味。気になって目を閉じていられない。深夜、小腹が空いて眠れないのと同じだ!
エミールの声が聞こえる。
『起きろメルセデス、もうすぐ収穫祭だぞ! また飲み会やるぞっ!』
収穫祭。メルセデスには未体験の祭りだが、名前からしておいしいものがたくさんあるに違いない。あと酒も。そういえば部屋に貴重な酒をたくさん残してきた。
エミールは飲み会だと言うので、そこで開けられてしまうだろうか。
そこに自分だけ参加できないなんて。
――なんか、ズルいよぉ。
そう思った瞬間、感情の籠もらない機械的な声がメルセデスの耳に届いた。
『呪法【メシマズ】の中和を確認.封印中の大宮殿が消失します.お世話になりました』




