1-3 狩人は日常に溶け込む
小鳥の囀りが微かに聞こえてくる。聞こえた、つまり七海の意識はあるのだ。軽快に瞼を開くと見なれた天井にフィレが吊り下げられていた。
まだ脳は起きていないのかもしれない。昨晩机の脚に括りつけておいたフィレが蓑虫のようにシュラフを着て天井に吊り下がっている。根もとの部分は風呂場で見たあの丸い穴が空いており、どこかから縄で吊らされているようだ。
夢か幻か確認する為に、七海は体を起こした。いつもなら気持良く体を伸ばしてカーテンを開けて朝日を浴びるのだが、こんな得体の知れない事をされては気持ちが良い朝を迎えることはできない。
ぶら下がっているフィレに触れる。シュラフの柔らかい感触が手に取って分かる、これは幻でも夢でもない、現実だ。監視開始から二日目の朝に奇妙な物を見てしまい、七海は意気消沈してしまう。
起こすか、起こさないか迷ったが、起こさないように放置することに決めた。このまま眠っていてもらった方がいい。念のためにタオルを目に巻いておくことにする。
パジャマを脱いで制服に着替える。脱ぐのは遅いけど着るのは早い、これが七海の特に意味のない特技である。
時計を見れば時刻は六時半、少し寝坊した。机の上に置いてある鞄を手に持つ。鞄の中身はタイタンと出会う前に事前準備はできているので、洗面所がある一階へと降りた。
洗面所で身支度を整えてからリビングへ向かった。リビングには母が一人朝食を作っていた。
「あら、おはよう」
「お母さんおはよう」
朝の始まりは挨拶から。今、七海の朝が始まったともいえる。
「今日は遅かったわね」
いつもと起きる時間が違うのに違和感を覚えた母が質問した。
「うん、寝坊しちゃった。お弁当できている?」
「できてるわよ」
母が指差す方向にお弁当が置いてあった。それを手に取り、鞄の中に崩れないように入れる。
「手伝えなくてごめんね」
「いいのいいの、朝ごはんはどうするの?」
「ごめん、菓子パンで我慢するね。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
こんな日があるかもしれないと準備していた菓子パンを手に取って母に別れを告げる。寝坊するなど何年ぶりだろうか。昨日に色々な事がありすぎたせいだろうか。いや、人のせいにしてはいけない、これも自分に体力がないのが悪いのだ、と戒めつつ玄関を開けた。
肌寒い季節の風を感じながら、通学路を小走りで駆け抜ける。空には大きな雲が一つ浮いていた。学校までの距離は一キロもないので、このペースなら五分もあれば到着することができる。
いつも立ち寄ってお世話になっている本屋の前も過ぎ、校門を通り過ぎ、下駄箱で上履きに履き替える。そして大急ぎで生徒会室へ向かい、生徒会室の扉を開ける。
すると、そこには後ろ姿からして男子生徒が一人、椅子に座っていた。生徒会は会長、副会長、会計、書記二人で成り立っている、そのうち副会長と書記が男子生徒なので、目に映っている彼は副会長の木之元偽君か会計の新重頼道君だろう。
乱れた髪を整えて、まだ扉が開いた事に気づいていない彼に朝の挨拶をしようと息を吸い込む。
「遅かったな」
だが彼の声は木之元偽でも新重頼道でもなかった。昨日会った木之元偽や新重頼道と別れ際に喋った時より後に聞き覚えのある声。
椅子が半回転し、朝日を逆光にして彼がこちらを向く。
「タイタン・・・さん?」
大きく吸った息が抜けるようにタイタンの名前を呟いた。そこには前髪を下ろして雰囲気が百八十度変わったタイタンが私立夢実高等付属中学校の男子生徒用の制服を着て、副会長が座る位置にある椅子に座っていた。
「ってどうして学校に!」
「朝から五月蝿い奴だな」
鬱陶しそうに言いつつも、タイタンは七海へと長方形の何かを投げ渡した。七海は慌てて飛んできた物を受け取りつつ。どうしてこの人は物を投げ渡してくるのかと、心の中で悪態をついた。
投げ渡された物は生徒手帳であった。二年三組二十一番 文月タイタン。そう記述されていた。
「って、なんで私の苗字使っているんですか」
「お前を監視する為だろうに、同じクラスとやらにしてもらわないと、こちらが困る」
「勉強受ける気ですか」
「学校とは勉強をするところではなかったか」
「そうですけど。うーん、一週間だけの転校生と思っていいんですかね?」
家庭の事情で一週間だけ転校する破天荒な転校生。同じ姓の七海はどう見られてしまうのだろうかと、先行きが不安になる。
「そんなところだな、もう生徒会とやらには参加させてもらったが」
「えぇ!でも生徒会は五人で役職も決まっていますよ。ま、まさか!誰かをつき落としたとか!」
「そうしようと思ったが、そんなことをするとお前が鬱陶しいだろう。だから生徒会長補佐と言う役柄を理事長と話して作らせた」
「一体タイタンさんは何もの何ですか」
「お前とは次元が違う存在だ」
タイタンはそう言ってから足を組んだ。そんなタイタンを七海は観察する。タイタンは昨日と同様にマフラーを巻いていた。だがそのマフラーの色は白色で、微かに光を放っているようにも見えた。
「そもそも、急に生徒会長補佐なんて作って、他の皆にどう説明すればいいんですか」
「そこは私が尻拭いしてやろう、まぁ見ておけ」
「おっはようございまーす」
そうこう言っている間に会計の倉梨三守が顔を覗かせる。
「おっ七海ちゃんはもう着ているのか、相変わらず早いねぇ」
倉梨三守と七海は一年生の時からの親友だ。小柄な体で、元気が良く活発な彼女。彼女が活発に動けばチャームポイントであるツインテールも同じように動き回り、何をするにも何を言うにも動作がある子であり、良き友達だと七海は誉れ高く思っていた。
「おはよう、三守ちゃん」
「うんうん、元気元気。あ、タイタン君もいたんだ、おはよー」
「え?」
七海は驚き、挨拶をされたタイタンの方を振り向いた。そこには優しい目をしたタイタンが三守の事を見つめていた。
「おはようございます、倉梨さん、今日からお世話になります」
「いいってことよー、緊張しているなら、七海ちゃんでも見て緊張をほぐしな、色々とほぐれるよー」
「ちょっと待ってください、どうして三守ちゃんがタイタンさんの事を知っているの」
三守のいつものセクハラ紛い発言は置いておいて、その三守が昨日出会ったばかりのタイタンを知っているのはおかしいことであり、あり得ない事であった。ここまでで彼と彼女が会う場面が一切なく、夜に家庭訪問したならばあり得るかもしれない。が、そんなことはしていないだろう。
「なーにを寝ぼけておるんだ。昨日タイタン君が会長補佐になるって言ったのは七海ちゃんじゃない」
絶句してしまった。タイタンが言った尻拭いとはこういうことだろう。魔法の類か何かで人々の記憶を改ざんしてしまったのだ。まさかそれほどまでの力を持っているとは思わなかった。
何しろ時間や記憶に関する魔法は禁じてられている、もしくは高度で使えないのだから。
「おはようございます」
次に顔を見せたのは副会長の木之元偽、雄弁な彼は校内の一部の生徒からは嫌われ者だが、心から優しい人間だと理解している。言葉はきついものの、彼の言葉には思いやりが籠っている。ただそれが相手に突き刺さっているので、相手がそう理解できるかどうかは言わずもがな。
「つわる、つわる。珍しいよ、七海ちゃんが寝ぼけてるよ」
「つわると言うな。僕の名前は偽だ、そのい抜き言葉を早く直せ」
蛍光灯の光を反射している眼鏡を上げて、三守に注意を促す。
「かーつれないねぇ、同じ生徒会の仲でしょうに、あだ名くらい慣れなよ」
「渾名など他人が付けたものだ、僕は親につけてもらった名前を気にいっている」
「ホントは満更でもない癖に」
「馬鹿を言うな。それで?文月さんが寝ぼけているとは本当か?本当だったら明日はどんな天気になるのだろうか」
偽と対面し、彼の鋭い目つきがこちらを見る。どうも見据えられると、背中に氷を入れられたように冷や汗が出てしまう。苦手ではないのだけど精神的に緊張してしまっているのだろうか。
「おはよう偽君。違うよ、三守ちゃんの妄言だよ、私は今日も元気です」
「あっちょっと!七海ちゃんひどい!つわる信じて、七海ちゃん自分の弟の事を忘れたんだよ!」
「嘘は体にも良くないぞ。まぁ明日は雪にならなくて良かったよ」
「そうだよ、自分の弟の事を忘れる訳なんてないよ」
弟?
頭の中が疑問符だらけになる。確かに生徒手帳を見た時に文月姓を名乗っていたが、まさか弟と言う設定だとは思いもよらない。タイタンは七海より大人びているし、身長も十センチ程の差があった。中学生、しかも同い年ともなれば男女のそれくらいの差くらい普通だろうが、それならば兄でも良かったと思うのだ。主に性格的に。
「七海が僕の事を忘れる訳ないじゃないですか」
やっと椅子から立ち上がったタイタンは七海より身長が低かった、ここで質問してしまえばまた怪しまれてしまうので、ぐっと喉の奥へ抑えておくことにする。
「それもそうだね、タイタン君の事大好きだもんね」
「そうなのかい?恋愛とは奥深いものだな」
「ち、違います!タイタンさ・・、タイタンの事は良い弟だと思っています!」
自分が黙っていると勝手に話が変な方向へ進んでゆく上に、変な噂が立ちかねない。
それにしても我ながら適応能力は早い事である。頭の中でタイタンは自分の弟に位置付けられた、生まれてこの方弟などいたことないが、これからうまくやっていけるだろうか。
「おはよう」「ございます」
そして最後に生徒会役員書記の新重頼道と新重千佳が声を揃えて登場した。彼と彼女は未だに間違えそうになるほど相似の双子の兄妹だ。どちらも黒く長い髪を肩にかけて揺らしながら、表情を変えず、いつも無表情で淡々と仕事をこなしている。いつも一緒にいるので、喋る時も一言を二人で言うのが特徴的だ。ちなみに頼道より一オクターブ声が高いのが妹の千佳と見分け方がある。話さない場合は勘で当てるしかない。
「頼道君、千佳ちゃん、おはよう」
そんな二人に挨拶を返す。これで現、夢実高等学校生徒会役員が揃った。集合時間丁度七時十五分。彼ら彼女らは時間を厳守する。それが七海のスタンスだったから、皆が真似をしてしまった。まぁ時間を守るのは当たり前の事だけども、体調を崩していても必ず守るのも真似されるのは良くないなとは思っている。
自分はそんなに偉大でも尊大でもなんでもない。ただのしがない少女だ。
「みんなが揃ったところで、一回座りましょう」
七海が会長席に座ったのを見てから、役員達は自らの席についた。七海の正面に今まで無かった席、会長補佐席が出来上がっていた。タイタンがニコニコと笑っているのに恐怖を覚える。
「皆、おはよう。本日も朝早くから御苦労さま。と前置きはこれくらいにしておいて、さっそく朝礼の役割を言葉に出して確認してもらってもいいかな?」
前日に決めた役割分担がある。口下手な書記の二人と行動力のある三守には裏方をしてもらい、教頭先生の変わりに司会を務めるのが副会長の偽だ。そして謎の位置にいる会長補佐のタイタンは一体何をするのか。それを疑問に思い、確認をしろと言い張ったのだ。
「僕の仕事は警護。ですよね」
「ちゃんと書類に目を通しているようだな、さすが文月さんの弟と言ったところか」
「つわるそれ失礼だよ」
「そう」「だよ」
「失礼極まりない言葉と受け取るのは人の勝手だ。文月君はどう思う?」
三人に批判されながらも偽は何事も無かったようにタイタンに話を振る。
「僕は失礼とは思ってもいませんよ、褒め言葉と受け取ります」
「ぶータイタン君、ガツンと言ってやっても良いんだよ?」
「そちらの方が失礼になっちゃうので」
敬語のタイタンに違和感を覚えながら七海は警護と言った意味を考える。
この学校に不良とよばれる人物はいない。全校生徒の名前と顔を覚えている七海にはその言葉が場違いに感じた。
「それじゃあ確認も終えた事だし、体育館に向かいましょうか」
深く掘り下げることもできないので朝礼会場である体育館へと皆足を運ぶ為に立ちあがり、生徒会室を後にした。残ったのは二人だけだ。
「説明お願いしますよ」
七海がタイタンに面と向かった瞬間にこれまでニコニコしていたタイタンの笑顔が消え、初めて会ったと時の鋭く冷たい目つきへと戻った。
「説明も何も私が言った事が全てだ、この一週間お前の弟として過ごし、女狐フィレと監視させてもらう」
「それって家にまで付いて来ると言う訳ですよね?」
「当たり前だろう」
「フィレちゃんを監視役にした理由は」
「言っただろう、風呂とトイレの時の監視役だと、それとも何だ、公平な判断を見出すのに本人が見ないで判断しろと言うのかお前は」
「本当に言葉のままだったとは思いもよりませんでした」
「ふん。それよりさっさと行くぞ。ステージに間に合わなくなってしまう」
「えっと何の事ですか?そんなに朝会が楽しみですかね?」
タイタンは七海の問いには答えず、生徒会室から姿を消してしまった。彼の背中から伝わったのは、さっさと自分に付いて来いとの意志であった。