死を待つ人
僕なんていない方がいいと言う感覚は、かなり昔からあった。
親には、笑顔で「産む予定は無かった」と言われた事がある。生まれる前から余分だった僕は、確かに愛されて育っただろうが、価値を育むには余りにも弱かった。
僕が生まれた事が罪で、僕がいきている時間が罪であり、罰でもあると言う思想によって育まれた死を望む感覚は、積極的な死さえも拒むようになっていった。
望むべき死を恐れ、忌むべき生を恐れ、これらを紛らわす麻薬-至高の思考を志向する趣向-さえも空虚に思われる様になった。
生ある限り罪を撒き散らす私の生産物が当たり前のように無価値で空虚なものである事は明らかな事実であって、遂に手を伸ばした小瓶を割ってしまった事に恐れをなして、今は天井に取り付けられた空調を見て、ぼんやりと死のビジョンと時計の音を聞くことだけが心穏やかな時間となる。
やがて消えて行く私の空虚な時間全てが無価値でつまらないもので、その後には何も残らないもので……今を生きる事の難しさに心穏やかならざる思いを抱く。
私は何をすべきだろうか?こうして、空調をぼんやりと見上げながら、細分化された時間が刻まれる音を聞く時-有限が私を救われる時を待つ時間-ただ、それだけを楽しむ。目を細め、時が経つ事によって得られる明確な老いの感覚に漠然と価値を見出し、若さと言う言葉によって抉られた心が遠ざかっていくのを楽しむ。
優しい偏見が、多くの痛みを生むことを、私の弱い心が知っている。若さは明るさではない。男は露出狂ではない。肉食愛好家ではない。女が運転できてもおかしくないし、男より何もかも勝る女がいて何が悪い?
努力をする度に空回りする、この運命を車輪の代わりに秒針に託し、無価値な口から溢れるものを拾い集める事もやめ、楽しみを……楽しまなくなり。
目を瞑り、秒針に心を任せて、「何も無い」自分を待つ。