第六節 婚約破棄された悪役令嬢は宿屋で目を覚ます
頭の中でぐわんぐわんと鐘が打ち鳴らされている。あれは、学院の鐘の音だろうか。あの時も鳴っていた。私を断罪する、王太子の冷たい瞳。その隣に寄り添うように立つ女。周囲の厳しい視線。辛くて悲しくて、どうにもできない気持ちばかりがぐるぐると眩暈のように頭の中を回っていく。
足元が黒くて深い泥のような沼になって、そこに引きずり込まれていくような感覚。どうしようもないという諦めと悔しいという怒りとどうしてという悲しみが全部ごちゃ混ぜになっていく。
「エリー」
声がした。ここのところずっと一緒にいる人の声。やさしくて、あったかい。私を、呼ぶ声。
「エリー」
なのに黒い何かに引きずりこもうとするそれは、私の姿をとって相対する。
(うるさいと思ってるんでしょ)
どす黒い何かを目と口から吐き出しながらワタシが言う。私は否定が出来ない。
(エリーだなんて、ワタシの名前ではないのに)
私はエリザヴェートだ。エリザヴェート・ティア・ラングフォード。辺境伯ラングフォード卿の娘。それは忘れていない。忘れるわけがない。奴隷に堕とされても尚、貴族としての矜持は捨てることは出来ない。
(あの男、目障りね)
シルヴィさんのことだろうか。私を助けてくれた人。私を探していたと言ってくれた人。私の歌が好きだと言ってくれた人。私を、見てくれる人。
「……いいえ」
それには同意出来なかった。ワタシがぎょろりと黒い液体にまみれた眼窩をこちらに向ける。
「いいえ。私はあの人に救われたの」
黒い何かはどろどろと私を取り込もうとする。一筋、天上から光の絃がもたらされた。銀色のいと。シルヴィさんの色だ。
「エリー」
彼がもう一度私を呼ぶ。私を、呼んでいる。
「ごめんなさいね。貴女の恨み言はまた今度聞くことにするわ」
私は手をのばす。その銀色の絃に。だって、私を呼んでくれている。私を探していたと言ったあの人が、私を呼んでいるのだ。
目が、覚めた。
ぱちぱちと何度かまばたきをして、見たことのない天井を見ながら、深く深呼吸をする。熱くて、からからだ。
「エリー!」
右手がぎゅっと握られた。そちらに顔を向けると、ひどく憔悴した表情のシルヴィさんと目があった。
「よかった。本当によかった。宿についた途端に倒れたんだ。覚えている?」
少し考えて、なんとなくぼんやりと思い出してこくんと頷いた。私の右手を自分の額に押し当てながら、シルヴィさんは深く深く呼気を吐き出す。ひんやりしていて気持ちいい。
「酷い熱で、あれから一晩目を覚まさなかったんだ」
体調が悪かったのにも気付かないくらいに気を張っていたのだろうか。奴隷として籠の中にいた時も連れ出されて移動していた時も。決定打はきっと……知恵熱だと思うんだけど。
「……ごめんなさい」
声はかすれていたのでちゃんと聞こえるか心配だったけれど、シルヴィさんには届いたようで目を見開いてから首を横に振られてしまった。
「エリーが謝ることじゃない。俺が――」
「そうだよ。旦那様が女の子の扱いに疎いのが悪い」
別の声が聞こえて、何度かまばたきをしていると、黒い何かが目に入った。
黒曜石。
黒い肌に黒い瞳、きついウェーブの黒い髪で長身の、女の、ひと? 黒いズボンと黒いブラウスを着ていて、靴も黒い。頭の先から足の先まで真っ黒だ。
「起き上がらなくていい。少し水分を取るといいよ」
そう言って水差しを口にくわえさせてくれる。冷たい水が喉を潤す。外で飲んだリモンの果実水にお砂糖が入っているみたいだった。ほんのりと甘くておいしい。
「ドゥー、その言い分はひどくないか」
「ドゥーを置いて出ていった旦那様に言われたくはない」
ふん、とドゥーと呼ばれた人がシルヴィさんに言い返す。
「どれだけ必死に探したか」
「それは、すまないと思っているが、俺にはもう以前の地位はないんだから、ドゥーが俺に仕える必要はない。新しい主に仕えるべきだろう」
「ドゥーが使える主はドゥーが決める」
通常の主従とは少し違うのだろうか? 二人のやり取りを聞いていると、シルヴィさんはやんごとなき身分の人みたいに聞こえる。
「旦那様の旅にドゥーは付いていく。お嬢様のお世話だって必要だろう?」
「……それは否めない」
ひとりでは何もできない自分のことを思い出して、私はちょっと布団の中に隠れたくなった。なんとなくだけど。
「お嬢様。ドゥーはドゥーラ=ドゥーガ。姓はないのでドゥーラ=ドゥーガが名前」
「……ドゥーラ=ドゥーガさん」
「ドゥーでいい。ドゥーもいっしょに旅をさせてもらう」
ぎろっとシルヴィさんを一睨みしてから私に向き直ってにっこりと笑う。黒曜石みたいな印象がふいに柔らかいものになる。
「ドゥーはお世話をするのが好き。だから何かあったら頼るといい」
「え、でも……」
「そうなったら梃でも動かない。ドゥーは世話を焼くことが生きがいなんだ。すまないがしばらく付き合ってくれ」
そう言ってシルヴィさんは私の頭をなでる。やさしい手が私に触れる。
「エリーが倒れた時、生きた心地がしなかった。俺だけでは気が回らないこともあるだろうから、ドゥーに助けてもらおうと思う。事後承諾になってしまうが、いいかい?」
「はい」
私のために、そうしてくれるのだと思う。やさしい手。私に触れてくれたやさしい手は、家族以外にいなかった。王太子さえ、そんなことをすることはなかった。
「ありがとう、エリー」
嬉しそうにシルヴィさんが笑う。私の方が感謝をしてもし足りないくらいによくしてもらっているのに。
「私の方こそ、ありがとうございます」
だから感謝の気持ちはすぐ伝える。忘れないうちに。伝えられなくなる前に。
「さあ、お嬢様はもう少し眠っていただいた方がよろしい」
ドゥーがそう言って冷たい濡れタオルを額に当ててくれた。生活魔法の一種だろうか? とても心地がいい。
「旦那様はドゥーと買い出しです」
「ああ。少し出てくるよ。すぐ帰るからね」
ぐいぐいとドゥーに押されてシルヴィさんが名残惜し気に部屋から出ていく。優しい人たち。私が今まで領地以外ではあったことがないような、優しい人たち。
なんだかすごくほっとして、うつらうつらと眠くなってきてしまった。先ほどまでの悪夢が嘘のよう。ドゥーもシルヴィさんと同じように何か秘密があるのだろうか。帰ってきたら聞いてみようと思いながら私はもう一度目を瞑った。先ほどまでの悪夢は、もう現れなかった。
新キャラ、ドゥーラ=ドゥーガのキャラがなかなか決まらなくて時間かかりました。
今後は三人旅になります。