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第五節 婚約破棄された悪役令嬢は初めて外で買い食いをする

 宿屋に向かう途中でも、この町はやはり活気にあふれていて目に入ってくる情報が眩しい。歓楽都市とは違う活気だと思う。あそこはもっと人間の感情がどろどろとした重いものだった。


「おなか空いたなぁ。屋台で何か買おうか」


 シルヴィさんが指さした先にあったお店はクレープ屋さんで、薄く焼いた生地の香ばしい香りがこちらまで漂ってくる。クレープは一度食べたことがあった。でもそれはテーブルの上に並べられた白いお皿の上に置かれた冷たいものだった。


「すいません。二つください」


 私の返事を待たずにシルヴィさんはふたつ注文して、私の方を振り返るとこっちにおいでと手を引かれた。急いで傍によると、さらにいい香りがしてくる。目の前でじゅわっと生地が鉄板にひかれて、手際よくまぁるくのばされると、そのまま木べらでくるんっとひっくり返されて、思わず小さく拍手してしまった。

 クレープ屋の店主のおばさまは私の反応に気をよくしたのか、にこにこと笑顔でバターと蜂蜜を生地の上に落とすとくるくると巻いて私に差し出してくれた。


「はい、どうぞ」


 まだほかほかと温かい。そういうものを食べたのはずいぶん前になるから、ちょっと困ってシルヴィさんとクレープと交互に見ていると彼は笑って私の頭をぽんぽんと叩いた。


「冷めないうちに食べよう。あっちにベンチがあるよ」


 食べ歩くこともあたたかい食べ物をそのまますぐ食べることも、なかった。貴族の令嬢としてはしたないとされていたし、それが許されるようなこともなかった。

 ベンチに座ってじっとクレープを見ていると、シルヴィさんがぱくんとクレープを頬張った。もぐもぐと咀嚼して、ごくんと飲み込む。


「美味しい。すごく美味しいよ。エリーも食べてみて」


 びっくりした顔で見ていたのに気付いてちょっとはにかんだような笑顔をしながら彼が私に食べるように促す。……毒見してくれたんだ。私が不安がっていたのを気付いたのかな。


「……おいしい」


 気持ち的には大きく口を開けたつもりだったけれど、一口かじったクレープ生地はあたたかくてほんのり甘かった。そのままもう一口かじると、今度は蜂蜜の甘さが足される。さらにもう一口かじると、今度はバターの香りが広がった。

 久しぶりに食べたあたたかいものが、甘いものだなんてしあわせだ。食べることに集中しながら目の前の通りを歩く人々を見る。どこか楽しそうで幸せそうな人々は、どこか遠い世界の出来事みたいだ。今、目の前で起きているというのに。

 最後まで食べ終わって、少し空虚な気持ちになっていたら、目の前に木のコップが差し出された。驚いて見上げるとシルヴィさんが笑っている。


「甘いもの食べると、喉が渇くと思ってね。果実水だよ」


「ありがとうございます」


 恐る恐る手にとって口をつけると、意外にも木のコップの飲み口部分は滑らかに削られていて飲みやすくなっていることに驚いた。果実水は少しぬるかったけど、外で売っているものだからこんなものだろう。リモンの果汁が少しだけ入っていて、口の中がさっぱりとする。

 しかし、シルヴィさんはどこかやんごとなきお家の方かと思っていたのに、すごく気がきく。我が家の家令や侍従たちだってこんなに配慮は出来ないのではないかしら。

 我が家、か。今、どうなっているんだろう。今は怖くて知ることは出来ないけれど、いつかきちんと知ることが出来ればいい。知ることから逃げている私にはこんなことを思うのもおこがましいかもしれないけれど、祈ることだけは許してほしい。どうか、無事でいて。


「さて、宿屋に行こうか。今日は往来が多いから、あっという間に部屋が埋まってしまいそうだ」


「はい」


 飲み終えた木のコップをさりげなく私の手から取ると、そのまま私が立ち上がりやすいように手を差し伸べてくれる。


「シルヴィさん」


「うん?」


「どうしてこんなに、私にやさしくしてくれるんですか?」


 こんなところで聞く話ではないと分かっていても、口が止まらなかった。疑問が喉を突いてあふれてしまったのだ。


「どうして?」


 何でそんなことを聞くのだろう、という顔を彼はして、それから首をかしげて目を瞑るとむむむと言いながら考え込む。


「どうして、どうしてか。どうして……うーん」


 そんなに悩むようなことだったのだろうか。聞いたタイミングが悪かったのかと私は何だかハラハラする。よくよく考えてみれば、もしここで放り出されてしまったら私はここからどうしていいのかも分からないのだ。何でここで聞いてしまったのか、という後悔も湧いてきた。


「俺がエリーの歌がものすごく好きだから、かな。それ以外にエリーを納得させられるような理由は思いつかないんだ。ごめん」


 謝られてしまって私は首を横に振った。困らせたかったわけではない。ただ、気になってしまったのだ。


「ずっと探していたからね」


 シルヴィさんはそう言って私の手をしっかりと握って歩き出す。私はゆっくりと彼について歩く。


「……私を?」


「うん。ずっと、探していたんだ。会えてよかった」


 本当に私でいいのか、と問いただしたかった。あの人は私ではダメだと言った。私では王太子妃にふさわしくないと。正直に言ってしまえば、あの子に嫌がらせをした覚えはない。取り巻きの誰かが私に命じられてやったのだと言ってしまえばそれまでだ。私は悪役令嬢。あの子はかわいそうな悲劇のヒロイン。

 不安ばかりが胸の奥に燻っている。なかなか消えない焚き火の炎のように。


「エリー」


「はい」


「今日は宿についたらゆっくり休もう。俺の都合でいろいろ連れまわしてすまない」


 きょとんとしてシルヴィさんを見上げれば、彼は申し訳なさそうな顔をして私を見ている。


「いえ、違います。シルヴィさんは悪くないです」


「あそこの宿屋にしようか。悪くなさそうだ」


 宿屋は一部屋しか取れなかった。そういえばすっかり忘れていたのだけれど、私、人生で初めて同じ部屋で二人きりで異性と過ごすのかもしれない。ベッドはふたつある部屋にしてもらったので、寝床がいっしょということはないのだけれど、そう考えたら何かいろいろ頭の中で駆け巡ってしまって心臓がバクバクして止まらなくなってしまった。意識してしまうともう駄目だ。

 部屋についてシルヴィさんに名前を呼ばれたところまでは覚えているのだけれど、その後は目の前が真っ暗になってシルヴィさんの慌てる声に大丈夫ですと声を出せたかどうかまでは分からない。私は気を失ってしまったのだった。

 

気を失うのって令嬢っぽい! 気がします。しませんか?

エリーが歌姫として歌うのはもう少しかかりそうです。

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