第一節 裏 銀色の魔王は魔王であることをやめました
歌を聞いていたかった。
ずっと。
ただそれだけで、心が落ち着いていくのを感じていた。
魔王として生まれ落ち、魔王として死ぬ定めだった。そう決められていたことに不満はない。そういうものだと思っていたのだから、不満など感じることなどなかった。ただ、ひどく退屈だった。
「魔王シルヴェストル・レーゲン・シュトルム=アウグスト陛下」
部下が私の名を呼ぶ。ああ、それもひどくつまらない。やたら長い名前は生まれた時に決まったものだが、呪文のように滔々と述べられても何の感情も動かない。
魔力の強さも防御力の高さも攻撃の鋭さも、私に比肩する者はここにはいない。いつか現れるという勇者を待つ間、私はただただ退屈していた。十八翼銀絃の魔王と呼ばれ、今まで最強と呼ばれることにも飽いていた。
楽しみといえば人間世界を水鏡で覗き見ることだけだった。
ある時、その水鏡に少女が映った。柔らかそうな白金の髪はふわふわと波うって風に舞い、透き通るような白い指先はその風を手繰るように舞って、歌を、歌っていたのだ。
その瞬間、生まれてこの方感じたことのないほどの衝撃に包まれた。胸が高鳴りすぎてその波動で何人かの部下たちが悲鳴を上げ、床に倒れ伏して私の鼓動が鳴りやむのを待った。
なんという感情なのだろうか。
魔族は基本的に親を持たない。魔大陸に満ちる黒く昏い澱のようなものから、皆生まれ落ちるのだ。だから、私は知らなかったのだ。それが何と言う名前なのかを。
「それは、恋ですね」
吟遊詩人を自称する、気ままな魔族の一人がそう告げた。ああ、その時の感覚は言葉ではなかなか言い表せない。ずっと上手く噛み合わなくて困っていた歯車が、ぱちんと綺麗におさまったような、と言えばいいのか。すとんとそれは腑に落ちた。
人間のことが知りたくて、何度も聞いた歌の中には恋歌と呼ばれるものがあった。それは悲恋であることもあったが、艱難辛苦を乗り越えて幸せになる物語も多かった。
ああ、そうだ。
彼女を見た時、彼女の歌声を聞いた時、私は確かに恋に落ちたのだ。
「だから、先ほども言っただろう」
高位の魔族を集めて、私は高らかに宣言をした。
「私は魔王を辞める。この玉座に在り続けるのはもう飽いた」
「何をおっしゃいますか?!」
「定められたことを反故にすることが出来るとお思いか?!」
「黙れ」
背に生えた翼は九対十八翼。銀色の絃で作られたように見えるこれは、魔王の証であり力の象徴。翼を見たのは初めての者も多かったが、この背にあるそれを見て伏して命乞いをするものばかりなのはつまらなかった。
「私は自由に生きる。そなたたちも息災でな。自由に生きよ。これは命令だ」
「陛下!!」
取りすがる声は無視して、私は翼をはためかさせ飛び立った。私が一番偉いのだから、私がどうしようと勝手だと思ってはいたが、出来る限り後々の遺恨が残らぬように配慮はしたつもりだ。私がいなくても魔大陸はまわるようにした。人間の命は魔族に比べればほんの瞬きの時間。どうしてももう一度、彼女の歌が聞きたかった。
歓楽都市ケルパー。彼女の魔力の残滓を手繰り、訪れたその街で私は彼女を見つけた。
美しい長い髪が、肩口でざんばらに切られていたのは少々頭に来たので、彼女の髪を切り落とした奴は毎日石畳につまずく呪いをかけておいた。簡単に死ぬような呪いであるより、死ぬまで続く些細な嫌がらせの方が効くと聞いたからだ。
それはさておき、私は彼女の歌声をもう一度聞くことが出来た。しかも恋歌を! 何という僥倖。何という強運であろうか。しかし、どうやら隷属の契約を結ばされている彼女は自由に歌うことはほとんど出来ないようだった。
そこで私は考えた。ならば奪えばいい。簡単なことだ。魔族では常識だが、人間ではどうかは知らない。
そうして私は、彼女を手に入れた。
彼女の歌声をもっともっと聞いていたい。むしろ、私だけが聞くというのも悪くはないが、他の人間たちにも彼女の歌がどれだけ素晴らしいかを聞いてほしい。
――――彼女を世界一の歌姫にしよう。
思いついたのは突飛なものであったかもしれないが、彼女と共に旅をしながら彼女の歌声を広めるのもいい。
私は隷属の契約など無しに、彼女にどうしようもなく惹かれていることに気付いていた。
ああ、でも彼女が歌えなくなるのは困るから、自分がどういう出自なのかは隠しておくことにしようと思う。人間はびっくりしても死ぬとも聞いたのだ。これは全部、人間と交流のあった吟遊詩人の魔族から聞いた話だが、念には念を入れておいても悪くはない。
私はこうして、歌姫と旅をすることになったのだ。
シルヴィさんが何者なのかはもうちょっと伏せるか迷いましたが、書いてしまいました。
二人の距離は少しずつでも縮まることは出来るのか? とりあえず頑張れ。とにかく頑張れ。