小さな娘とほんの少しの嘘
彼女は彼が好きで彼は彼女が好きで、そして二人は、私の事が好きではなかった。嫌いでもなかった。どうでもよさそうだった。
私が生きてさえすれば、二人は他のもっと楽しい事に夢中だった。私のご飯はいつもお米と栄養剤。最低限生きるのに問題はなかった。恨むとかよく分からなくて、二人が私の事嫌いじゃないから私も「嫌い」がよく分からなくて、もう全てがよく分からなくなってしまった。
だけど初めて憎いと思ったのは、お友達の玲奈ちゃんの家族の話を聞いた時かもしれない。
その時少しだけ、ほんの少しだけ私が考えちゃいけない事を考えてしまったから、あの二人は死んでしまったのだろう。
そして私は、パパに出会う。
◇◇◇◇◇
「じゃあ、先に寝てろ。俺も後で行くから」
「分かった」
もう少しで小学一年生となる小さなパジャマ姿の女の子。俺が寝室へ送り込むと、たったひとつの文句も言わずに一人で明かりも付いていない部屋に入ろうとした。
正直驚いた。もっとわがままを言われると思っていたのだ。俺の言うことに大人しく聞くこの娘だが、止めるのもまた俺だった。
「ちょっと待ってくれ」
「?」
「……お前、今の状況ちゃんと分かってるか?」
「えっと、ママがしんだって……みんな言ってた。ごめんなさい」
「死ぬって分かるか? もう二度と会えないって事だぞ……いや分かってるならいいんだ。悪いな急に。あー、お休み」
俺の事を不思議そうに見ながら、少女は小さく頭を下げると今度こそ寝室へと向かった。
聞き分けの良すぎる子だ。てっきり、今日くらいは一緒に寝てくれとねだられると思っていたから拍子抜けだ。
なんだ子育てってチョロいな、と生意気にも思ってしまう。しかし都合が良い。変に俺に懐いてもらっても困る。まだ俺は社会人になったばかりの子供でしかない。たった一人でこれ以上人を抱え込むのは色々と無理だ。
親が早くに亡くなってあの娘もかわいそうだが、俺一人に育てられるよりも、子守経験の豊富な俺の親に預けられる方が幸せだろう。
だというのに、電話越しの親は否定的だった。
「アンタでどうにかなんないの? まだ小さいんだし、私達みたないなおばあちゃんだけじゃ椎菜ちゃんが可哀想よ」
「だから、何度も言ってるだろ? 今だって佐々木先輩に無理言って休みをもらってるんだよ。自分のことで精一杯なのに……悪いけど面倒見きれない。だから、頼んだよ」
これ以上は話しても無駄だと判断して一方的に切る。話し合うではなく話す分には文字が一番だ。
「早く迎えに来てくれよ、っと」
メールを送って携帯を閉じる。
九州の実家に住む親。東京の俺。なるべく早く来てくれよ〜とお月様に祈った。しばらくして通知が入った。恐る恐る開いて中身を確認した。
返事は渋々ながらも了承。こちらの頑固な意思が通じたらしい。飛行機のチケットが取れて明後日来れるらしい。これで俺の心情も楽になった。
そっと寝室を開けて小さな娘の姿を確認する。もう寝ていて、本当に手がかからない。わざと距離を置いている身としては願ったり叶ったりだが……まあ何をしたってもう何日かの付き合いだ。俺にだって情はある。
予備の敷布団で寝ていた少女を抱きかかえていつも俺が使っているベッドに移動させる。少女は眠ったままなすがままにされ、その無防備な姿に上から布団をかけてやる。
「あっちで幸せになるんだぞ」
人工的な金色の髪を撫でて、おやすみと言った。
◇◇◇◇◇
次の日の朝、俺が朝ご飯にチーズサラミパンを作って一緒に食べようとすると、この娘何を考えているのか中々それに手を出さない。
いただきますも言わないし、そこは教育が悪かったのか?
「なんだ、どうして食べないんだ? もしかしてチーズは食べられないのか?」
「……これ、私の?」
「どう見たってそうだろう」
「一緒に、食べるの?」
「はあ?」
アレルギー持ちかと心配して損した。が、返ってきたのはもっと奇妙な返事だった。
何となく嫌な予感がして深くは聞かない。
「正真正銘お前のものだ。ほら、食べるぞ。いただきます」
「……いただきます」
ようやく朝ご飯が始まった。やっぱり子育ては意味のわからない事ばかりでストレスがたまる。
「っ……おいしい」
ま、まあ、悪い事ばかりでもないのか……な? いや、騙されるな。食パンにチーズとサラミを乗せて焼いただけの食べ物に感動されたって困るだけだ。
目の前の娘は戦隊ヒーローでも目の当たりにしたように俺を見つめてくる。何だ、何が言いたい。俺の分はやらないぞ。
「もしかして、あなたが、パパなの?」
「はあ?」
またまた予想だにしない言葉に面食らい、本日二度目のアホっぽい言葉を使ってしまう。
何言ってんだこいつ。やっぱり親が死んで混乱しているのか? 当たり前な事を聞いてくるんだから俺も、当たり前の事を言ってやる。
「もちろん、違う。俺は嘘が嫌いだからはっきりと言うが、お前の母親は…….それと俺の兄さん、つまりお前の父親も死んだ」
馬鹿な事に自業自得の飲酒運転ときたもんだ。大変なのは当事者だけで、他に怪我人がいない事が唯一の幸運か。家でひとりぼっちで留守番していたらしいこいつが幸運だったかどうかはさておき。(間違いなく言える事は、巻き込まれた俺は不幸だ)
とまあ、そんな訳で一旦親族である俺がこいつを引き取った。同じ東京に住んでいた俺に白羽の矢が立ったと言う事だ。
だが今の仕事で働いてまだ二年目の俺が有給をふんだんに取ってる事自体が申し訳なくて恥ずかしい。先輩達に確実に迷惑をかけている。かといってある日突然一人になった少女を放っておくことも出来ないわけで、実家の親に助けを求めているのが今の状況だ……
「つまり、二度とお前の親にはもう会えないんだ。昨日俺が言った意味がわかったか?」
「それは、分かってる……でも」
「なんだ? もしかして、自分の親と似ている俺をただ勘違いしたってわけか」
「ちがう。そうじゃなくて、玲奈ちゃんが言ってたから。パパとママは優しいのが当たり前だって」
「……」
「だから、あなたが私のパパだと思った……ごめんなさい」
「何で謝るんだ。意味分からん」
そういえば昨日も意味もなく謝ってきたよな。まるで言い慣れているみたいだ。
……無性に腹が立つ。こいつに冷たい態度を取っている俺にそんな事を思う資格はないのかもしれないが、クソムカついた。
もっとこう、理不尽なわがままを言ってくれればいいのに。そしたら俺は、こんなにも虚しくならずにすんでいたのに。
ただ一緒に手抜きの朝ご飯を食べたくらいで優しいと勘違いされるなんて、俺には想像もつかなかった。
「ん……おいしい。しあわせ」
純粋な少女と矮小な自分。早く明日が来てくれと、心の中でもがき苦しんだ。
◇◇◇◇◇
親に全てを任せるにあたって、俺は姪っ子の最後の面倒を見る事にした。
「今日はおまえの日用品を買うとするか。服とか」
「にちようひん?」
「お前、服それしか持ってないだろ。というか、私物自体お前が今身につけているものしかないからな」
「?」
クソ不愉快な事に、こいつの(一応俺の兄の)家には
おもちゃの一つもなかった。まあそれくらいは人によりけりだろうが、他に何も見当たらなかった。最低限必要な教材やランドセル以外。そういえばあそこからは、子供が住んでいるなんて全く伝わらなかったと今更ながら気付く。
今にして思えば、それは伏線だったのだろう。後々の波乱万丈な俺に対する当てつけのような。
「とにかく、買いに行くぞ。今の内に欲しいものでも考えておくんだぞ」
「ほしいもの……」
欲しいものと言われてこいつが一つも思い浮かばないのは、きっと欲しいものが無いからではない。
欲しくても手に入った事などないからだ。だから、ねだるという事をこいつはもう知らない。俺にわがままを言う事もない。
俺が思う素直な子とは全く違う。どちらかといえば……従順。
俺が最後にやれる事は、少女に素直な心をかけらでも取り戻す事なのではないか。なんて馬鹿な事を考えながら、手を繋いで歩いて20分のショッピングモールにまで着いた。
「まずは服装だな。女の子はオシャレが重要だ。大人になっても大切なステータスの一部だからな。幼い頃から極めて置いて損はない。それで、どんな服がいい? あれだ、スカートとか履いた事あるか? 女の子のオシャレといえばスカートだろう? 」
それは違うだろう……という店員さんの呟きが聞こえた気がする。沙彩はというと、店内の色々な服に圧倒されているのか、目が回っている。
「帽子なんてどうだ? スカートと帽子が合わさったらそれはもうオシャレを極めたと言っても過言ではないだろう」
確かに可愛いけれど……あいつ大丈夫か……? という店員さん達の呟きなんて聞こえない。
「どれが、いいの?」
結局俺にすがってきた。
「まあ、そうだな。こんなのとか可愛いんじゃないのか? 水色の服なんかよく似合いそうだ。スカートは……自分で言っておいてなんだが、お前には向かんかもしれん。こっちのショートパンツだかハーフパンツだか知らんが、きっと可愛いぞ」
「じゃあそれにする」
「少しくらい悩んでもいいんだが」
「……やっぱりそれがいい」
「ん、そうか」
沙彩は俺が選んだ服を選んだ。これじゃあダメだよな……と俺が思っていると、なんと沙彩はその服をこの場から着用する事を望んできた。店員さんは喜んで沙彩に新品の服を着させた。
初めての沙彩からのお願い。これは順調な滑り出しかもしれない。
……と、思ったのも最初のうち。それから昼ごはんも俺が選んだもの。飲み物も俺が選んだもの。沙彩は俺に何も要求してこなかった。
「本当にもういいのか? 何かしたい事とか?」
「うん……もう、いい」
「そうか」
帰りはすっかりと大荷物になってしまった。俺が選んだアクセサリー。俺が選んだお菓子。俺が選んだおもちゃ。重いと思うのは気持ちも関係している。これが全てこいつ自身が選んだものだったら、俺は多分もっと頑張れたはず……
そんなこんなでいい歳した大人が汗だくで少女と二人で歩いているのは、側から見ると怪しく見えたのだろう。青い服着たお国の治安維持の方に声をかけられるくらいに。
「少し、お話よろしいですかね?」
「あー……えっと」
デブとガリの二人組だった。
俺は今の自分の姿を客観的に見てみた。
片手には大荷物。汗だく。人気の少ない道。隣にはこの歳では珍しい無表情の少女。俺とあまり似ていない顔。真面目な俺とは違ったお洒落に染められた金色の髪。
少し……ほんの少し、怪しいかもしれなかった。
何より一番怪しいのは俺の態度だった。
一番最初に娘ですと言えたのなら良かった。けど、俺はその一言を口にする事は出来なかった。そんな無責任な事を言っていいのかと迷ってしまった。結果口ごもり、二人組の視線が鋭くなったのは仕方のない事だ。
「何か、ご自分の身分を証明できるものはありますか?」
「ここでは何ですし、少しあちらの方で事情、聞きましょうか?」
「っと……いや……だいじょぶす、はい。ちゃんと、本当の親んとこ送るんで」
「本当の親?」
「待った、今のは失言だった。スルーでお願いします」
普通に俺の母親に送りつける事を伝えて責任転嫁を狙ったのだが、言葉のチョイスを間違えた。そこで本格的に警官が俺につめ寄ろうとしたところ、ぐいっと前に出たのは今まで誰よりもおとなしかった沙彩だった。
初めて見る積極的な行動に面食らい俺が何も出来ないでいると、沙彩は俺を守るかのように手を広げて、そして自分よりも何倍も大きい大人に向かって叫んだ。
そう、うるさいくらいに、大きな声で。
「パ……パパをいじめないでっっ!!」
必死な声だった。
「わたしのっ……パパだから!!」
そんな様子を見て目の前の警官達もすっかり毒気を抜かれたのか、沙彩に謝ると、俺に一礼して元の職務へと戻っていった。
俺はしばらくいつもと違う沙彩に驚いた後、それ以降また静かになった沙彩を連れて家へと帰った。
さっきの変わりぶりは何だったのか、むしろ沙彩は家に帰った後も塞ぎ込んだように静かになり、度々俺の言葉にも反応を示さなくなってしまった。
流石に様子がおかしい事に鈍感な俺でも気づいて、夜飯のタイミングで話を切り出した。
「さっきはありがとな。いや、まじで。お前のおかげで助かったよ」
「……ほんと?」
「お、おお、ほんとほんと」
反応が返ってきた事にびっくりしつつ、沙彩の言葉を待った。沙彩はポツポツと話し始めた。
「……ごめんなさい」
始まりはまた謝罪だった。
けれど、なんというかいつもと違う。ただ語尾のように謝るのではなくて。それには明確な意思を感じた。
「なんで謝るんだ?」
「……わたし……嘘ついた」
「は、うそ?」
「嘘ついた……パパじゃないのに、嘘ついた。ごめんなさいっ、ごめんなさい」
「いや、何もそこまで謝らなくても」
「嘘がキライなのにっ」
「っ!」
俺はそこでようやく沙彩が考えている事に気付いてしまった。何を怖がっているのかようやく、やっと、今頃。
「嘘が、キライって言ってたのに……わたし、嘘ついた……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……たくさん、あ、あやまるから…………わたしをキライにならないでっ」
あの時、大声を出した沙彩の体が震えていた本当の理由は、大の大人に立ち向かった事などではなくて。
もしかしたら嘘をつくのが嫌だったからなのでは?
嫌なのに、嘘をつきたくないのに、そうせざるを得ないと思って体を震わせたのは。
俺の為。
沙彩は嫌われる覚悟を持って俺の前に立ったのだ。
「ば、馬鹿! 嫌いになる訳ねえだろ!」
俺は思わず沙彩を近くに抱き寄せていた。俺が買った新品の服。店員さん達の好意のおかげで、その服はとてもよく似合っていた。
今は少し涙で濡れているけどな。
「ほんと……? キライに……ならない?」
本日二度目の沙彩のわがままは、そんな些細な感情。
「私の事、キライにならないで……ほしい」
「嫌いだなんて思った事は一度もねえよ」
「……でも」
「なんだ、言いたい事があるなら言った方がいいぞ」
「……あなたは、私の事キライだから……別の所にわたしをおくるんでしょう? 昨日……言ってた。だから、その時までこの服、着てたかった。すぐ……見てくれなくなるから」
なんのこったと考えてなんてこった。
俺が携帯で母に話した内容をあろう事か沙彩に聞かれてしまっていたのだ。
昨日それがバレていても俺は何も動じなかっただろう。あー聞かれちゃってたかで済んだだろう。だが、一日過ごした今日、この状況で暴露されて、いたたまれない気持ちになってしまう。俺はもしかして凄く最低な事をしてしまったのではないのかと思った。
無視をするには、過ごした時間が長過ぎた。もう見過ごせないし、自分の気持ちを誤魔化す事も出来ない。
「……それはお前の勘違いだよ」
そして俺は、嘘をついた。
ほんの少しの嘘。
「ほら、電話してみるから見とけよ。………………母さん? 沙彩の事俺が面倒見るから。だから申し訳ないけどこっちにはもう来なくても……は? 飛行機乗ってない? 最初から予約してない? ……分かってた? んだよそれ! 孫に会いに行くのはもう少し先にするって知るか! もう切るからな! ……………な? 嘘だっただろう?」
「えっと」
「いや、なんだ、お前が嫌ならいいけどよ。嫌じゃないっつうなら」
「い、一緒に暮らせるの!?」
「お……おぅ」
なんだ、そんな風に笑えるのかよ。
「それに、あれだ。お前は嘘ついたって悩んでたかもしれねーけどよ。お前は最初から嘘なんてついてないから心配するなよ」
「……?」
「だから、ほら……パパってやつ………恥ずかしいから察しろよ! あーもう、つまりだ! 俺がお前のパパになるって言ってるんだ。もう、覚悟出来たよ。今日から俺は、お前のパパになる」
友達の玲奈ちゃんに言っとけよ。パパが出来たって。俺、ちゃんとお前のパパ出来るように頑張るからよ。
「……ほんと?」
「言ったろ、俺は嘘が嫌いだってな」
「ぁっ……ぁ」
沙彩や感極まったように狼狽え、震えて。
それから俺に抱きついてきた。そして俺の小さな娘は耳元で一言。
「…………パパ」
さえずるように囁いた。
黒い、そして最近少し長くなった私の髪をパパが櫛でとかす。この時間が私のお気に入りだった。口には出していないが、多分、パパには伝わってるはずだ。その時正面の鏡に映る私の口元がほんのりと笑っているから。
だから甘えたい時は、背中を倒してもたれかける。そうするとパパはいつもより長く髪をとかしてくれる。仕事に行かなければいけないのに。なのに、つい甘えてしまう私は、きっと悪い子なんだろう。
でも、今だけは。
将来はパパも驚くような素敵な出来る女性になるから、もう少しだけ悪い子でいさせてほしい。
もう少しだけ……
「どうした、今日は気分悪いのか?」
「……うん少しめまいが」
「大変だな」
「髪をくしでとかしてくれないと吐いてしまうびょうき」
「やべーな」
ほんの少しの嘘を、もう少しだけ。