6. 英雄、堕落する
近頃、彼は毎日ぶらぶらと街中を歩くようになった。
家にいてもすることがなく、妻と顔を合わせているとなぜだか段々と苛々してきてしまう。
妻の遠慮深さを卑屈さと、物欲の小ささを貧乏くささと、彼は感じるようになっていた。
宿屋にいた頃の彼女は、父親を助けていつも忙しく働いていた。家が貧しくはあったが、その表情は生き生きと輝いて見えた。
それが今では、家事や他の仕事から解放されて、生活は確実に楽になったというのに、急に十以上も年をとったようにくたびれてしまった。
元々容貌が優れているというわけではなかったので、活力を失ってしまった妻の姿は正視に堪えかねた。
妻は仕事が生きがいだった。それを失ってしまったから、あんなに疲れたようになってしまっているのだ。
とはいえ、使用人を解雇するのは嫌だと妻は言う。だとすれば、家の仕事以外で何か熱中できることを探さなければならないのだろう。
足りないのは刺激だ、と彼は考えた。妻にも、自分にも。
だが、妻のことについてこれ以上関与する気を、彼は失っていた。
そんなことよりも、今は自分の生きがいを探すことが大切だ――。
彼がそんなことを考えていたちょうどその時。
一人の男が、彼に声をかけてきた。
「勇者さん、あんた、競技会を見てみる気はねえかい?」
「……競技会?」
男の馴れ馴れしい喋り方に、彼は眉を顰めた。
「ああ! 二人の人間が、互いの技を競い合って闘うのさ」
そんなことは、言われなくても彼は知っていた。彼と親友はそもそも、競技会に出るために体を鍛えていたのだから。
槍使いと斧使いも、そんなことを言っていた。
思えばここは、彼と親友が仲間達と出会ったあの道だった。ここで、名剣の男とナイフ使いが喧嘩をしていたのだ……。
当時のことを思い出しそうになって、彼はそれを振り払うように首を横に振った。
「……悪いが、戦いはもう見飽きた」
「まあ待ちなよ」
男は、軽薄そうな笑いを顔に浮かべて、すぐに立ち去ろうとする彼を引き止めた。
「二人の人間が闘って技を競う間、見ている俺達はどっちが勝つか賭けるんだ。当てた奴には、掛け金に応じて金が返ってくるっていうわけさ」
「何?」
彼は目を瞠った。
競技会は本来、騎士団や近衛兵団には所属できない、身分の低い者が出場することで実力を見せ、傭兵や護衛として雇ってもらうための足掛かりにしていたものだ。
彼の知っている当時から、この男の言ったような賭けは非公式に行われていたが、それをこうも堂々と説明してくるとは……。
「制度が変わったのか?」
彼が訊くと、男は小さく笑った。
「なんだ。やっぱり知らなかったのかい」
そこに人を馬鹿にする響きを読み取り、彼はムッとした。
だが男はすかさず愛想笑いを浮かべ、掛け金と配当金についての細かい説明を始めた。
相手が喋り続けているので、彼もなんとなく最後まで聞いてしまった。
説明が終わると、男は上目遣いに彼を見た。
「で、どうする? うまくすれば、がっぽり儲けられるぜ」
「……別に金は欲しくない」
長い話だった、と思いながら彼は答えた。
「へぇ。さすがは救国の英雄様だ。言うことが違うねぇ。しかし、競技会の醍醐味は金そのものじゃあない。どっちが勝つか当てられるか、自分の目の確かさを試される場でもあるのさ」
「…………」
男の言葉に、彼の心が少し動いた。それが分かったのかどうか、男はさらに言葉を重ねる。
「要はどっちが強いか当てりゃいいんだ。見飽きるほど戦いを見てきたあんたには簡単だろ?」
安い挑発だ。彼はすぐにそう思った。だが――、
その挑発に乗って、何がいけない?
「……かもしれないな」
わざと興味なさそうに彼は答えたが、その心は彼自身が思っているよりずっと激しく燃えていた。
これこそ、彼が求めていた刺激!
「怪物にあちこち破壊されちまったから、競技会は今この国の唯一にして最大の娯楽だぜ。一度だけでも参加してみなよ」
「……では、そうさせてもらおう」
遂に、彼はそう答えた。
競技場に入ると、そこは人の話し声と熱気に包まれていた。それは彼に、いつかの城のテラスを思い出させた。
『選手入場』
場内アナウンスが流れ、二人の選手が入場してきた。
試合はトーナメント形式で行われる。これは第一試合の三組目らしい。
彼は以前、ここのリングに上がることを夢見ていたが、今は競技会の選手を見ても羨ましいとは思えなかった。
むしろ哀れにすら思う。
どんなに素晴らしい試合をしても、所詮は賭けの道具にされているのだと思うと、気持ちが萎える。
かつて彼が思い描いていた誇りは、はたして選手達にまだ残っているのだろうか?
「どっちにします?」
選手入場と同時に客席を回り始めた券売りの男達のうちの一人が、彼のところにやってきて訊いた。
彼が片方の選手を選んで答えると、券売りの男はほんのわずか、意外そうな顔をした。どうもそちらは人気がないらしい。対戦相手が前回の準優勝者だからだろう。
彼の近くの観客が得意気に話している。
あれが今回の優勝候補だ。第一試合で負けるはずがない。しかも相手が無名の新人じゃあな――。
だが彼は、そんな雑音を歯牙にもかけなかった。
前回の準優勝? それがどうした。優勝者には負けたんだろ?
たとえ第一試合だろうと、相手が優勝する人間だったら負けるしかないだろうに……。
その試合の結果は、彼の考えの正しさを証明した。
周囲ががっかりした雰囲気に包まれる中、彼は一人興奮していた。
彼は大穴を当てる喜びを知ったのだ。それは予想以上に快感だった。
* *
毒で弱り、片足を切り落とされた怪物には、残りの人間でとどめを刺すことができた。
しかしその途中、彼の剣が折れてしまった。
彼を除いた二人だけで、残った硬い鱗を持つ怪物を倒すことはできないだろう、と彼は思った。
そしてその思いは、親友と爆薬使いも同じだった。
彼らは一度退いて体勢を立て直すことにした。
* *
「ねぇ」
声をかけられて彼が振り向くと、若い女が立っていた。
「儲かってるらしいわね、あなた。まだ負けなしだって聞いたけど」
女はそう言うと、ゆるくウェーブのかかった長い髪をかき上げた。
「まあな。あまりに簡単に当たりすぎてつまらんくらいだ」
内心得意になりながら、彼は答えた。
彼は最初に競技会で大当たりしてから、何度かここへ通うようになっていたのだ。
その理由は、彼自身は気付いていなかったが、ここへ来ればまた皆が彼をもてはやしてくれるからだった。
いつの間にか、彼は「負け無しの男」として有名になっていた。元から顔を知られているので、なおさら有名になるのも速かったのだろう。
「へえ。でもそんな事言ってると、最初に負けたとき恥ずかしいわよ?」
「かもしれないが、今のところ強い奴は見れば大体分かるからな」
「凄いのね。どうしたらそんなことが判るのか、是非ともそのコツを教えてもらいたいものだわ」
彼は、フッと軽く笑った。
「そう簡単には教えられないな」
実は、今までにも何人か、こんな風に声をかけてきた者はいた。
彼が賭けると、真似して同じ方に賭ける奴も多かった。
嬉しい気もする反面、それだと「大穴」にならないので、物足りない気分も味わっていたのだが。
しかし、彼女のように艶やかな女は初めてだった。
妻とは正反対の女だ。美しく、そして美しいと言われることに慣れている。自分でも自分が美しいことを知っていて、その抜群のスタイルを最大限強調する服を着ていた。
「あら、じゃあ、どうしたら教えてもらえるのかしら?」
女は華やかに笑って言った。人の目を引きつけずにはおかない笑顔。
彼は言葉を失い、その女の顔をじっと見つめた。
「……どうして何も答えないの?」
「いや……、君に見惚れていたのさ」
彼は本気に聞こえないように注意しながらそう答えた。
「まあ」
女は微かに笑ったが、それは単純に褒められたことを喜んだからではないだろう。
「じゃあ……そうね、後で一緒にお酒でもどう? いい店を知っているの。二人でゆっくりお話しましょう」
「……ああ」
女の提案に、彼は、頷いた。
「ここよ」
女が示した店を見て、彼は眉を顰めた。
そこは、彼が先日「二度と来ない」と言い置いて去ったあの店だったのだ。
「ここに……、入るのか?」
「あら。嫌なの?」
「気が乗らないな」
彼は溜息をついた。
「なら、うちに来る? 結構色んなお酒が揃っているわよ」
実にさり気なく、女がそんな提案をした。
「……へえ?」
初対面の男をいきなり家に招くとは。誘っているのだろうか、と彼は思った。
妻の顔が一瞬思い浮かんだが、それは以前の、生き生きしていた頃の彼女ではなく、現在の疲れた姿だった。
思い出しただけでげんなりし、それが逆に彼の背中を押した。
「……じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
こういう女と過ごす時間も、たまには悪くない。
彼は、そう思った。
* *
残された三人の中に、爆薬使いがいた。元は名剣の男の連れだった爆薬使いは、彼が折れた剣の代わりに名剣を使うことに同意してくれた。
親友は彼に、預かっていた名剣を渡した。
剣が一本に戻った親友は、代わりに仲間が落としたナイフを拾って使ってみると宣言した。
元からそのつもりだったらしく、戦いながら何本か拾ってみたと言って懐からナイフを取り出した。
怪物から離れたその場所で何度か投げる練習をして、悪くない、と親友は言った。さすがに元の持ち主よりも精度は落ちるようだったが、威力とスピードでは勝っていたかもしれない。遠距離攻撃できる武器が残せるのは有難かった。
最後の怪物には、力押しは通用しない。だが爆薬使いの爆薬と、彼の剣、そして彼の親友の剣とナイフ。それらが揃えば、なんとか対抗できるかもしれない、と、彼らは思った。
* *
「あなた……、実は、話したいことがあるの」
家に帰るなり、妻が久々に輝くような笑顔で言った。
「そうか……。また今度な」
彼は、妻の様子がいつもと違うことにも気付かず、ふらふらと寝室へ向かおうとした。
「あなた……、酔ってるの?」
彼を追いかけて二階への階段を上がっていた妻の表情が、急激に硬くなった。
「あ、ああ。……いい店を見つけてな」
彼は咄嗟にそんな嘘をついた。
あの女の家は一室の壁一面に沿って棚が置かれており、そこに様々な種類、年代の酒が並んでいて、まるでどこかの店のようだ、と思ったのを憶えていたからだろうか。
この家が怪物に襲われなくて本当に良かった、と女は喜んでいた……。
「でも……、香水の匂いがするわ……」
妻は彼の腕を摑み、悲しそうに言った。
その瞬間、彼は女が漂わせていた香水の甘い香りや、柔らかく、それでいて弾力のある肌の感触が蘇ってきたように感じた。
「うるさい!! 俺の行動に口出しするな!!」
眩暈にも似たその刹那、彼は反射的に妻の手を振り払い、力一杯突き飛ばしていた。
小さく悲鳴を上げ、彼女は階段から転がり落ちた。
彼は慌てて彼女の後を追い、階段を駆け下りる。
倒れたままお腹を押さえて呻いている妻を見て罪悪感が湧き起こったが、それが別の女と過ごしてきたという後ろめたさと合わさったとき、全く逆の作用を彼の心に引き起こした。
申し訳なく思う心や恥じ入る気持ちを否定するために、妻に対してさらに暴力的な態度に出てしまったのだ。
自分がこんなに恥ずかしい思いをしているのは、目の前にいるこいつのせいだ、というわけだ。
「おまえは、誰のお蔭でメシが食えてると思ってるんだ!?」
したたかに酔っていたせいもあるだろう。彼はそんな風に叫んで倒れた妻の腹を蹴った。
妻が必死でお腹を庇うのにも構わず、彼は妻の手の上から二度、三度とその行為を繰り返した。
本当は悪いのは自分だということを、彼はよく承知していた。ばかなことをしているという自覚もある。それでも止めることができなかった。
苛立ちを抑えられない。苛立ちの原因が自分にあることも認められない。自分は悪くない。みんな周りの人間が悪い。あいつが、こいつが悪い――!
「旦那様! 何をなさっているのです!」
騒ぎに気付いた使用人が何人かやってきた。倒れている彼の妻を見つけると、
「奥様!?」
と声を上げて駆け寄る。
彼は、妻の服が下腹部を中心にぐっしょりと濡れていることに、今更ながら気付いた。
おかしい。単なる打撲で、あんなにも血が出るものだろうか? 床にまで血溜まりが広がって……。
……それになぜ、妻はさっきから少しも起き上がろうとしないのだ?
「旦那様!」
妻の側に仕えていた小間使いが、蒼くなっていた顔を今度は真っ赤にして叫んだ。その眼には涙が浮かんでいる。
「奥様は妊娠しておいでだったのですよ!!」
「な…!?」
彼は未だ倒れたままでいる妻に視線を移した。
今の話は本当か? 話したいことというのは、それだったのか?
彼は心の中で妻に問いかけた。だが彼女はもちろん答えない。目を固く瞑り、苦しそうに息をしているだけだった。
「早く医者を……!」
「いや、これではおそらくもう……」
使用人達がそんなことを言い合いながらあたふたと動き回っていたが、彼の意識には届かなかった。
彼は立ち尽くしたまま、倒れている妻を一心に見つめ続けた。
――目を開けてくれ。今すぐ立ち上がって私を叱ってくれ。そうしたらちゃんと謝るから。
おまえは怒りながらもきっとゆるしてくれるだろう? 仲直りをして、もう一度やり直そう。なあ、頼むから――
* *