1.
「ヘンゼル!」
ぼんやりとしたまどろみの中、鋭い声がヘンゼルの意識を揺らした。それでも暖かいベッドから離れられずにうとうとしていると、肩を強くつかまれて、本気で揺り起こされる。
「いいかげんに起きなさい!」
「……はぁい」
未だ眠たい目をこすりこすり。やっとの思いで開くと母ゲルトルートの見慣れた姿が目に入った。
「お母さん、おはよう」
「おはよう。朝ごはんできてるから、早く台所にいらっしゃい」
わかった、と返事をしてベッドから降りると、すでに隣のグレーテルの部屋に行ったゲルトルートの声が聞こえてきた。
――毎朝のことだけど。
ヘンゼルは寝間着から普段着に着替えながら思った。
――グレーテルって本当、朝に弱いな。
隣の部屋からは壁ごしにも関わらず、はっきりと声が聞こえている。それなのにグレーテルは起きないらしい。ヘンゼルが着替えを終えて部屋を出るころになってやっと、ゲルトルートはグレーテルの部屋から出てきた。
「今日も大変だったみたいだね」
「本当、あの子には困ったわ。まぁ、それでも可愛い子なのよね……」
「グレーテルだけ? 僕は?」
「ヘンゼルも可愛い子よ。なんたってお母さんの子なんですから」
そう言って笑うゲルトルートはどことなく寂しげだった。しかしヘンゼルは気づかない。ゲルトルートの言葉がうれしくて、それどころではなかった。
キィキィとひかえめにきしむろうかを通って2人が台所に行くと、ほんわりと豆のスープの匂いが鼻に届いた。
やったぁ!
ヘンゼルは心の中で歓声を上げる。
ゲルトルートの作る豆のスープはヘンゼルの大好物だった。痩せた大地でも育つ豆はそれだけで好感を持てたし、その上おいしいのだから嫌いなわけがない。だからというわけでないが、年に数日しか食べられないご馳走でもあった。
朝食は大好物。週末だから教会に行って勉強することもない。これだけでヘンゼルは幸せだった。
食卓に目を向けると、すでに座っていた先客が顔を上げた。
「お父さん、おはよう」
「おはよう」
父ペーターの横を通って席につく時、干した草の匂いがした。
「朝から仕事してたの?」
「ああ」
少しくたびれた声が返ってきた。やっぱり仕事って疲れるんだな、とヘンゼルは思った。
ペーターはほうき職人である。目的に合わせて植物の葉や茎や枝を選んで干し、梳いて束ねる。材料費はあまりかからないけれど、仕事の量や手間からすると割に合わない仕事だった。だからペーターはほうき作り以外にも畑仕事をしていたし、ゲルトルートもペーターを手伝っていた。
「はいはい。不景気な顔しないの」
コトリ、とスープの皿を置いたゲルトルートがペーターの顔をのぞきこむ。
「そんな顔をしいてたら、おいしいものもおいしくなくなるでしょ」
「そうだな」
ペーターは笑うしかなかった。こどもの前で叱られるなんて情けない、そう言いたげな苦笑だった。
仲のいい両親の様子がヘンゼルに日常を信じさせる。
スープの蒸気がヘンゼルの鼻をかすめ、盛大に腹の虫が鳴いた。ソロで高らかに鳴った虫にペーターとゲルトルートは顔を見合わせて笑い、ヘンゼルは恥ずかしさをまぎわらすために席を立った。
「パン出してくるよ。どこにある?」
「棚に入ってるわよ」
ヘンゼルが台所にある造り付けの棚からパン専用のバスケットを取り出すと、いつもより少し重かった。不思議に思って開けてみると、中は焼きたてのパンで埋まっている。
滅多に食べることのできない、柔らかな白パンまである。ゆるい温かさとバターの香りが感じられた。
「うわぁ! どうしたの、こんなに?」
今まで見たことのないパンの量と質に、ヘンゼルの声は興奮で上ずっていた。そんな息子をほほえましく思いながらゲルトルートが口を開く。
「パン屋のマーゴさんがしくじったパンを持ってきてくれたのよ」
ああ、だから豆のスープなんだ!
豪華な朝食にヘンゼルはうかれた。
「どうしたの?」
「これ!」
やっと現れたグレーテルに、ヘンゼルはバスケットの中身を見せた。途端に、グレーテルの顔が輝く。
「あー! おいしそう!」
「だろ!」
2人は食卓の上にパンを広げてはしゃいだ。いつもの固いパンとは違う。甘くないパンとは違う。柔らかくて甘いパンは2人を虜にした。
「はいはい。ヘンゼルもグレーテルも、早く朝ごはん食べましょうね」
「「うん!」」