6.
ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家にきて早3日。初日と同じく、この夜もナスターシャの姿はヘンゼルの部屋にあった。
ナスターシャは小さな溜め息をつく。そのくせ気分は悪くなかった。
先に行った少女の部屋では部屋の主はすぐに眠ってくれた。2、3の言葉だけで夢路に立ったのだ。それなのにこの少年はどうだろう? 「眠れない」とつぶやいてベッドにただ座っている。
「どうして僕たちを助けてくれたの」
その問いかけは突然だった。けれど、もっと前に聞かれるべきことだったので答えは用意してある。
「目の前に、しかもこんな森の中にこどもが2人きりだなんて、危なくて見ていられなかったの」
常識的な答えを返すナスターシャに、ヘンゼルの声は納得していない。
「本当に? それに、こんな森ってどういうこと?」
こどもは残酷なほどにまっすぐだ。間違った道を真実だと信じたなら、ひたすらそれを信じこむ。そして、大人が真実ばかりを口にするわけではないと知った少年は、まず全てを疑いだした。
「答えは順番にね。最初の質問だけど、本当だから」
それでも自身と妹を助けてくれたナスターシャには心を寄せている。
ヘンゼルを安心させるように目線の高さを合わせたナスターシャは、淡い薔薇色の唇を再度開く。
「それと、この森についてだけど……」
幼い目が先を急かす。ナスターシャはからかってやりたい欲求が湧いたが、ゆるやかに弧を描く唇からは真面目な答えを出してやる。
「人はこの森を『迷いの森』と呼ぶ。迷子を作るために道を変えてしまう異質な森だから。普通の人にどうこうできるものではないわ」
条件付きではあるけれど、ね。
要の部分だけは口に出さないで、唖然とするヘンゼルの顔を満足そうに見やる。思った通りの反応だ。こどもの反応は素直で好感が持てる。
「だから放っておけなかった。何か事情があるとわかってもね」
呆けたようにナスターシャを見上げていた顔が泣きそうになる。彼女は、それが「事情」のことを考えて表れた表情だと理解していた。その内容も。
この子は――妹もだが――口減らしのために森へ送られたのだろう。
幼くてまだ労働力にならない体。
生産性のない消費するだけの体。
貧しい土地にある村では、働かないものを養うだけの力がない。それがたとえ村の未来を滅ぼすことになろうとも、働いている人間が生きるしかないのだ。それは昔からある風習。
ナスターシャはずっと森に住み、森に送られてくる人間を見てきた。――彼らを喰らう魔女として。
いつから彼女がそう成ったのかはわからない。答えを含んだ記憶はぼんやりと霞んで、けれど大きな力に歪められたことだけはわかっている。
そして彼女は、あまりに長い年月に蝕まれていた。理性など捨ててしまった。それでもなおお菓子の家で人を釣って喰らっているのは、呪いと契約による妄執以外の何物でもない。
真実を毒のように滴らせ、しかし魔女はまだその牙を隠して少年をなだめすかす。
「私はずっとここに住んでいる。ここにくる人の事情も、多少なら知っている。だから……ヘンゼルの寂しさやつらさ、少しわかるよ」
優しい声は耳を通り、ヘンゼルの琴線をかすめた。わずかな潤みをたたえて上げられた瞳がそれを如実に語っている。
あとはこの子を完全に篭絡し、生命を喰らうだけ。何のことはない。いつもと同じだ。そう思って魔女は高笑いし、ナスターシャは沈痛な顔を作った。
「あなたはずっと独りだったの?」
え、……何?
ヘンゼルの言葉はナスターシャが全く予想していないものだった。今までの人間は泣く、もしくは「理解できるはずない」と怒った。そういう態度ばかり見てきた。それなのにヘンゼルはナスターシャの心配をしている。
混乱した彼女ののどはまともな返事をつむぐことができない。かすれ声で肯定することしかできなかった。
「……ええ」
「僕よりも寂しかったでしょ」
誰かの庇護を求めるような声にも関わらず、ヘンゼルの声は強く届いた。その声に、まっすぐな視線に、魔女は顔をそらす。胸の中で何かがざわめいた。
「こんなにいい人なのに……。どうしてあなたがそんな目にあわなきゃいけない?」
何か言わないと。そう思うのだが、彼女の意思に反して声が出ない。声帯がからからに渇いている。それでも何とか声をしぼり出した。
「私が魔女だから……忌み嫌われる存在だから……」
ヘンゼルの体が強張るのがわかった。せっかく手なずけようとしているのに、「魔女」の一言で怖がらせてしまった。
言ってしまってからひどい後悔に襲われた。自業自得だと。けれどナスターシャは安心もしていた。彼女をこの場所に縛りつける呪いは、口減らしのために捨てられた者が彼女のもとにきてから5日の猶予を与えている。その間に逃げるなりしてくれれば、彼女は幼い生命を背負わずにすむ。
それなのに、
「だったら僕がそばにいるよ。みんながあなたをのけ者にするなら、僕がいる」
迷いなく発された言葉。目眩がする。こんなことを言われるなんて、思いもしなかった。
「無理よ。私はこの場所に独りで住まなきゃいけないの」
魔女を押し退けてナスターシャが出てくる。こんな優しい子を喰らいたくない、と強く思った。
ヘンゼルは、今まで魔女が誘惑し、喰らってきたどのこどもよりも優しい。自身が嘆きの底にいながらも、ずっと孤独に震えてきたナスターシャを思いやり、怒りまではらませている。
魔女はひどく渇きを覚えた。
――食べたい。
ナスターシャの心が傾けば傾くほど、魔女としての心もヘンゼルに傾く。その小さな生命を自分の中にとりこんでしまいたい欲求にかられる。
「さぁ、今日はもう寝なさい」
どっちに転んでも悲劇しか生まない。それなら魔女に抗い、ナスターシャとしている方がいい。だからもう、ヘンゼルの前から逃げたかった。
うん、と言ってベッドにもぐりこむヘンゼル。ナスターシャは布団をその小さな体にかけてやると、そそくさと立ち去った。
「助けてもらったんだから、ちゃんとお礼はするよ。僕はあなたのとこにいる」
ヘンゼルの言葉が痛かった。
翌朝。ナスターシャはヘンゼルがグレーテルを連れて出て行くのを期待したが、やはりヘンゼルにそのつもりはなかった。親に捨てられた恨みとナスターシャへの憧憬がそうさせるのだとしても、出て行ってほしかった。
だから、ある情報が木々から伝わってきた時、ナスターシャは大昔に捨てた信仰を取り戻すほど、何かに感謝した。
森の木々はナスターシャの耳であり目である。何が、誰が、なぜ、どこを、いつ、どんな風に。森の中で起こっていることなら全て把握できる。新たに森へ侵入した2つの影が誰なのか、何の目的できたのかもすぐにわかった。
もう数分もすれば彼らが家の前にくる。
「ヘンゼル。グレーテル。もう少しでお客さんがくるの。途中でいいから、いらっしゃい」
ナスターシャの呼び声に、とたとたという足音が答えた。掃除をさせていた2人が家の奥から走ってきたのだ。
「お客さんって誰?」
無邪気なグレーテルの問い。この子は兄を頼り、ただ庇護を受けている。そして、幼いがゆえに現実をきちんと把握していない。歪まずにいられる。
「内緒」
「えー」
けれどヘンゼルは違う、とナスターシャは思った。庇護を受ける身から与える側に変わらざるをえなくて、心のどこかに歪みができている。
「きたみたい。さぁ、行きましょう」
それた道を正しいと思い、歪みを矯正しようとすると反発するだろう。それでも直さなければ。ここから出て行かせなければいけない。
ナスターシャはヘンゼルとグレーテルの手をとって、外に連れ出した。
訪問者に会わせるために。
「お母さん! お父さん!」
「……なんで……」
当たり前のことだが、訪問者を見た時の2人の反応は対極的なものだった。グレーテルはまっすぐ走り寄り、ゲルトルートに抱き付いた。ヘンゼルは近づいてくるペーターの手を払い後ずさった。
「すまなかった。だがやはり、お前たちを捨てることなどできない」
ペーターはそう言って再度手を伸ばす。しかしヘンゼルは怯えたように逃げるだけだった。しかたなくペーターは顔を上げ、その目がナスターシャを捕らえる。
「あなたが口減らしの魔女ですか?」
「ええ」
恐れながらも息子の手前、ペーターはできるだけ堂々としていた。それでも足が震えている。目の前に魔女がいるのだから、それが普通の反応だ。
ナスターシャは薄く笑う。
「お、俺……じゃなくて私は、この子たちと帰ってもよろしい……でしょうか?」
「もちろんです。あなた方は5日以内にきましたから」
「……ありがとうございます」
礼をする時までおどおどと。見ていて気持ちのいいものではない。早くヘンゼルを連れて行ってほしかった。
「やだよ!」
しかし当のヘンゼルが拒んだ。
聞き分けねない息子に拒絶され、ペーターが息を呑む。かたわらにきたゲルトルートは困惑し、それでも手を伸ばした。
「ヘンゼル……」
「僕は行かない。ここにいる」
「どうしてなの?」
「だって、今さらどうしろって言うの? 一度捨てたくせに!」
幼い言葉ばまっすぐだ。矢のように、無慈悲に、ペーターとゲルトルートの心を貫く。
「それは……」
弁明の形をとろうとして、だが声は呻きにとどまる。
「それに、お金がないんでしょ? 4人よりだったら3人の方がいいんじゃない?」
「金の問題じゃない。お前が大切だから迎えにきたんだ」
「そうよ、ヘンゼル」
「捨てたのに?」
ヘンゼルの声には似つかわしくない、冷え冷えとしたものが漂っていた。それがたまらず、ナスターシャは口をはさむ。
「ヘンゼル、ここにきた人間に迎えがくるのは珍しいことなの。好き好んで魔女に会おうとする人はいないわ。それでも君のご両親は迎えにきてくれたのよ。……さあ、行きなさい」
「やだぁ!」
「行きなさい!」
「やだ! 絶対行かない! だって、僕がいなくなったら、ナスターシャさん、またひとりぼっちになるじゃんか」
あぁ、この子は……どうしてこんなにも優しい? 兄だから? 優しくならざるをえない環境にいたから?
どういう理由にしろ、ヘンゼルの言葉はナスターシャに対しても残酷だ。何も知らないから言える言葉が、必然的にナスターシャを追い詰める。ヘンゼルを手にかけたくないならば事実を話すしかない、恐れと罵りを受けるとしても。
ナスターシャにとって、手にかけたくない存在はヘンゼルが初めてではない。何十年も口減らしの役を負わされ、初めは人の命を奪うことに嫌悪感を覚えた。こども、老人、障害者……。皆、自分で自分を養うことのできない、庇護されるべき弱い立場の人間だった。
1人殺し、2人殺し。その数が増える毎にナスターシャの罪の意識は薄らいだ。冷徹な魔女に徹したからだ。そうしなければ自身の心が砕けていた。しかしヘンゼルの言葉は魔女の心を溶かし、人の心を揺さぶる。
「ヘンゼル」
次に口を開いた時、ナスターシャの声は氷を纏っていた。努めて、恐がらせるように声のトーンを落とす。
「殺されたいのかい?」
すぅ、と細められた目に気圧されて、誰もが動きを止めた。空気でさえ凍りつき、木々のざわめきも遠くなる。
「私は口減らしの魔女。この森に捨てられた人間を殺すための存在――。ここにいる限り、君も例外じゃない」
さしものヘンゼルも声が出せなかった。いきなり雰囲気を変えたナスターシャを呆然と見ることしかできない。
「今まで優しくしていたのは、いざ殺す時になって逃げられないため。同情なんてしていないわ」
うすく、ニタァと笑うと、ゲルトルートはグレーテルを連れて後ずさった。ペーターはヘンゼルの腕を引いて魔女から距離をとる。
もう、ヘンゼルは抵抗しなかった。
「親が迎えにきて拾った命。無駄に捨てたいの?」
ナスターシャの笑みは妖艶で禍々しく、ここまできてやっと、ヘンゼルはナスターシャが魔女だと実感した。同時にひどく傷ついた。
助けてくれたのも、あんなに寂しげに見えたのも、僕とグレーテルを油断させるための演技だったんだ。
……騙されたんだ。
今度こそヘンゼルは父から逃げようとせず、ナスターシャを視界に入れないように俯いた。
その姿に安心して、ナスターシャは身をひるがえす。と、思い出したように口を開いた。
「あなたたちは村を出たそうですね。こちらの道を行くと多少は肥沃な土地に出ますから、どうぞ」
パタンと音を立ててビスケットのドアが閉められると、呪縛が解けたように4人は動き出した。
「ヘンゼル。行こう」
ペーターの声にヘンゼルは弱々しくうなずく。うなずくしかない。この森に1人だけ残されたら、それこそ死ぬことになる。もう誰がどうなってもよかったが、死にたいとは思わなかった。
――ナスターシャさん……。
心の中が空虚で染まっていく。ペーターに手を引かれ、ヘンゼルはただ機械的に足を動かした。
家に入ったナスターシャは背中をドアに預けてへたりこんだ。自然と渇いた笑いがこみ上げてくる。
――あの、ヘンゼルの傷ついた顔。すごく揺さぶられた。
家は変わらず、3人で過ごした時間の跡を色濃く残していた。食卓の3つのイス。洗われた3組の食器。ろうかの奥には掃除を命じた2人の道具が、中断したままの姿で見える。
――片づけないと。
しかし立ち上がることさえ億劫で、ナスターシャはぽつりと呪文をつぶやいた。視線に乗せた魔法が道具――ほうきとぞうきんに届き、ひとりでに動き出す。
まるで、透明な誰かがそこにいるかのように。
「……っ!」
動揺が伝わり、ほうきとぞうきんが崩れ落ちた。
2人を連想させる。たったそれだけのことでも、今のナスターシャには重かった。自分から遠ざけたとはいえ、脳裏には2人の影が鮮やかに焼き付いている。グレーテルの無邪気な笑顔も、ヘンゼルの優しい泣き顔も。
魔女であることが煩わしかった。錆び付かせていた「寂しい」という感情が動き出し、ナスターシャの心を支配していた。もう、冷徹な魔女の仮面は被れない。
「あは、は……」
こどもを捨てた報いとして、あの夫婦に魔女殺しの責を負わせればよかった。口減らしのための森を統べる者は自殺できないから。
「もう、いや」
しかしその言葉は誰にも聞こえない。自殺も老いも、安寧の救いとなるもの全てを許されない魔女は、ただただ悲痛な笑いを上げることしかできなかった。
森は今日も静か。
新大陸から新しい作物が伝えられ、人々の飢えが解消されても魔女は生きていた。
訪れる者はなく、救いもなく。
ただ、漫然と生きている。
...Fin




