5.
ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家にきて早3日。初日と同じく、この夜もナスターシャの姿はヘンゼルの部屋にあった。
ナスターシャは小さな溜め息をつく。そのくせ気分は悪くなかった。
先に行った少女の部屋では部屋の主はすぐに眠ってくれた。2、3の言葉だけで夢路に立ったのだ。それなのにこの少年はどうだろう? 「眠れない」とつぶやいてベッドにただ座っている。
「どうして僕たちを助けてくれたの」
その問いかけは突然だった。けれど、もっと前に聞かれるべきことだったので答えは用意してある。
「目の前に、しかもこんな森の中にこどもが2人きりだなんて、危なくて見ていられなかったの」
常識的な答えを返すナスターシャに、ヘンゼルの声は納得していない。
「本当に? それに、こんな森ってどういうこと?」
こどもは残酷なほどにまっすぐだ。間違った道を真実だと信じたなら、ひたすらそれを信じこむ。そして、大人が真実ばかりを口にするわけではないと知った少年は、まず全てを疑いだした。
「答えは順番にね。最初の質問だけど、本当だから」
それでも自身と妹を助けてくれたナスターシャには心を寄せている。
ヘンゼルを安心させるように目線の高さを合わせたナスターシャは、淡い薔薇色の唇を再度開く。
「それと、この森についてだけど……」
幼い目が先を急かす。ナスターシャはからかってやりたい欲求が湧いたが、ゆるやかに弧を描く唇からは真面目な答えを出してやる。
「人はこの森を『迷いの森』と呼ぶ。迷子を作るために道を変えてしまう異質な森だから。普通の人にどうこうできるものではないわ」
条件付きではあるけれど、ね。
要の部分だけは口に出さないで、唖然とするヘンゼルの顔を満足そうに見やる。思った通りの反応だ。こどもの反応は素直で好感が持てる。
「だから放っておけなかった。何か事情があるとわかってもね」
呆けたようにナスターシャを見上げていた顔が泣きそうになる。彼女は、それが「事情」のことを考えて表れた表情だと理解していた。その内容も。
この子は――妹もだが――口減らしのために森へ送られたのだろう。
幼くてまだ労働力にならない体。
生産性のない消費するだけの体。
貧しい土地にある村では、働かないものを養うだけの力がない。それがたとえ村の未来を滅ぼすことになろうとも、働いている人間が生きるしかないのだ。それは昔からある風習。
ナスターシャはずっと森に住み、森に送られてくる人間を見てきた。――彼らを喰らう魔女として。
いつから彼女がそう成ったのかはわからない。答えを含んだ記憶はぼんやりと霞んで、けれど大きな力に歪められたことだけはわかっている。
そして彼女は、あまりに長い年月に蝕まれていた。理性など捨ててしまった。それでもなおお菓子の家で人を釣って喰らっているのは、呪いと契約による妄執以外の何物でもない。
真実を毒のように滴らせ、しかし魔女はまだその牙を隠して少年をなだめすかす。
「私はずっとここに住んでいる。ここにくる人の事情も、多少なら知っている。だから……ヘンゼルの寂しさやつらさ、少しわかるよ」
優しい声は耳を通り、ヘンゼルの琴線をかすめた。わずかな潤みをたたえて上げられた瞳がそれを如実に語っている。
あとはこの子を完全に篭絡し、生命を喰らうだけ。何のことはない。いつもと同じだ。そう思って魔女は高笑いし、ナスターシャは沈痛な顔を作った。
「あなたはずっと独りだったの?」
え、……何?
ヘンゼルの言葉はナスターシャが全く予想していないものだった。今までの人間は泣く、もしくは「理解できるはずない」と怒った。そういう態度ばかり見てきた。それなのにヘンゼルはナスターシャの心配をしている。
混乱した彼女ののどはまともな返事をつむぐことができない。かすれ声で肯定することしかできなかった。
「……ええ」
「僕よりも寂しかったでしょ」
誰かの庇護を求めるような声にも関わらず、ヘンゼルの声は強く届いた。その声に、まっすぐな視線に、魔女は顔をそらす。胸の中で何かがざわめいた。
「こんなにいい人なのに……。どうしてあなたがそんな目にあわなきゃいけない?」
何か言わないと。そう思うのだが、彼女の意思に反して声が出ない。声帯がからからに渇いている。それでも何とか声をしぼり出した。
「私が魔女だから……忌み嫌われる存在だから……」
ヘンゼルの体が強張るのがわかった。せっかく手なずけようとしているのに、「魔女」の一言で怖がらせてしまった。
言ってしまってからひどい後悔に襲われた。自業自得だと。けれどナスターシャは安心もしていた。彼女をこの場所に縛りつける呪いは、口減らしのために捨てられた者が彼女のもとにきてから5日の猶予を与えている。その間に逃げるなりしてくれれば、彼女は幼い生命を背負わずにすむ。
それなのに、
「だったら僕がそばにいるよ。みんながあなたをのけ者にするなら、僕がいる」
迷いなく発された言葉。目眩がする。こんなことを言われるなんて、思いもしなかった。
「無理よ。私はこの場所に独りで住まなきゃいけないの」
魔女を押し退けてナスターシャが出てくる。こんな優しい子を喰らいたくない、と強く思った。
ヘンゼルは、今まで魔女が誘惑し、喰らってきたどのこどもよりも優しい。自身が嘆きの底にいながらも、ずっと孤独に震えてきたナスターシャを思いやり、怒りまではらませている。
魔女はひどく渇きを覚えた。
――食べたい。
ナスターシャの心が傾けば傾くほど、魔女としての心もヘンゼルに傾く。その小さな生命を自分の中にとりこんでしまいたい欲求にかられる。
「さぁ、今日はもう寝なさい」
どっちに転んでも悲劇しか生まない。それなら魔女に抗い、ナスターシャとしている方がいい。だからもう、ヘンゼルの前から逃げたかった。
うん、と言ってベッドにもぐりこむヘンゼル。ナスターシャは布団をその小さな体にかけてやると、そそくさと立ち去った。
「助けてもらったんだから、ちゃんとお礼はするよ。僕はあなたのとこにいる」
ヘンゼルの言葉が痛かった。




