予兆
本作品は言うまでもなくフィクションであり、実在の人物・団体と一切関わりはありません。また、実在した人物と架空の人物があまり統一性なく登場しています。
地図があった方がいいかと思い、挿入しました。物語の主な舞台となる新京─奉天は、地図の中央部辺りです。
満州国図
昭和十一年(1936)二月三日。満州鉄道株式会社、大連本社調査部事務所にて。
外回りから帰ってきた資料課課長、五島幸洋は、待ちかまえていた部下から声をかけられた。
「課長、また無線の途絶がありました。新京の事務所となんですが……」
「またか? 軍か公使館の方はどうかね?」
「さぐりを入れてみましたが、どちらも同じようです。軍の方は直接確認したわけじゃないですが、怒鳴り声は建物の外にまで聞こえるってやつで」
下手な冗談だが五島は頬をゆるませた。
「連中がいらついているという事は、まだ原因をつかんでいないと?」
「そう見るべきでしょう。今回の途絶は一時間ほどでしたが」
眉間にしわを寄せながら、五島は自分の席に腰をおろした。最近、新京(満州国首都、旧名長春)方面との無線連絡が一時的にできなくなるトラブルがあい次いでいた。はっきりと問題視されるようになったのは年が明けてからだが、無線の不調は珍しい事ではないので、短時間のものはそれ以前から続いていたのかもしれない。
「新京の関東軍、まさか何かやらかそうとしてるんじゃないでしょうね?」
大仰に顔をしかめながらの部下の問いは、おどけ半分、本気半分といったところだろうか。
「まさか……大連の軍司令部は無関係そうじゃないか」
「しかし出先が勝手に、が関東軍の流儀でしょう? 大連司令部が関わっていないことだってありえますって」
無言でかぶりをふる五島。ありえない話ではないが……今の新京司令部がやらなければならない事は、建てたばかりの満州国という看板を見ばえのするように整える事だ。中原か華北に武力行使があるとすれば、手を出すのはむしろ大連か奉天からだろう。
茶で喉をうるおし、五島はつぶやいた。
「通信の予備に……式神廟を用意すべきかな」
「は……式神……ですか?」
若い部下たちは怪訝な面持ちで返す。彼らの視線に気恥ずかしさを覚え、五島の言葉にいい訳じみた響きがこもる。
「日露戦争の時分は、よく使ったものだぞ。精度はまあ伝書鳩とどっこいだったが、荒天時でも使える強みがあった」
「満鉄がそれをやるんですか? 軍があれを撤去したのはもう十年以上前ですよ?」
部下の声音に含まれるかすかな揶揄は、自分たち満鉄を合理的企業、関東軍を遅れた非合理集団という前提からきている。彼らの反感も、わからないではないが……五島の胸の奥がかすかにうずいた。
「冗談だ、冗談。ほら、憶測をならべてるヒマがあったら、手を動かせ」
強引に会話を打ち切った五島の脳裏に、一人の陰陽師の姿が浮かんだ。文字どおりの国難だった日露戦争に先だち、献身的に満州での諜報活動に従事した呪法兵。戦後創設された満鉄調査部に協力し、様々な力添えをしてくれた彼の姿は、五島にとって〝善き兵士〟の象徴だった。
あれからもう三十年近い年月がたつ。あの頃の日本軍と、今の関東軍は別物になってしまった。軍隊自体が鉄と火薬のみに傾斜して、陰陽師や密教僧を組織した〝呪法兵〟は、時代遅れの遺物として消滅しつつあった。それは世界中の趨勢だったが……
(どうしているやら、石光さんは……)
彼はすでに退役し、故郷で悠々自適の生活を送っているはずだった。もう一度茶をすすりペンを取る五島。数週間後、再び戦場に戻った旧友と再会することになろうとは、神ならぬ身に知れるはずもない。
◇─────◇
大連より満鉄連京線を北上する者は、右手側にそびえ立つ千山の偉容を見ることだろう。仏教・道教の名刹が数多く建ちならび、中でも無量観は満州における道教の中心的存在である。最高指導者は葛月譚老師。満州地方に広がる馬賊組織にも強い影響力をもった傑物だった。
早朝、老師の従者の一人が寝所にうかがう。
「師父さま、お目ざめでしょうか? 茶をお持ちしました」
いつもの日課であったが、葛老師の返事がない。
「師父さま?」
引き戸を少し開けてのぞいた彼は思わず声をあげた。老師が卓上につっ伏している。あたりに占術用具が散らばっていた。
「誰か! 師父さまが、師父さまがお体を!」
「ま……待て、騒ぐな」
人を呼ぼうと部屋を飛びでた従者の耳に、苦しげな声が届いた。振りかえれば葛老師は、なかば身を起こしている。
「師父さま!」
身を翻して老師を抱きあげ、寝台に横たえる。上体を支えながら水を飲ませると、老師の呼吸はようやく収まってきた。
「しばらくお待ちください。医者を呼んでまいります」
従者の言葉を
「大事ない。占術の最中に大きな力に触れた、それだけだ」
葛老師はさえぎった。
「それより……白の一族に連絡をとりなさい。私が直接会って話がしたい、と」
「は……〝白〟一族に……ですか?」
従者の言葉には、どこか人をはばかるような響きがあった。が、しかし
「行きがかりは捨てて彼らに頼るほかないのだ。事は急を要する。行きなさい!」
葛老師は強い口調で男をうながした。老師の口調にただならぬ物を感じ、礼を一つ返して寝所を飛びだした。
吐息をつき、葛月譚は枕に頭をあずける。閉じた眼窩が深く、苦悩をうかがわせた。
「……凶星……まさに凶星……。何とした事か……西欧人の来寇時さえ、このような予兆はなかったというのに……」