看病
陽が傾き地平線の向こうに沈んでいった頃。わたしが微睡んでいると、玄関のチャイムが来客を告げた。誰だろう? 最近巷で流行りの風邪をこじらせたわたしを心配してくれるのは、今朝電話をくれた侑子だけかと思ったのだが。
思うように動かない体を引きずって玄関に辿り着く。どうやらわたしは思った以上に重症のようだ。ベッドから玄関までの短い距離を進むのを、こんな重労働に感じるとは。
ドアスコープから外を覗くと、寝癖のようなボサボサな髪の眠そうな目をした男の顔が見えた。欠伸をした。どうやら彼は本当に眠いらしい。わたしは扉を開けた。
「よおぉー。ふわぁあ……」
欠伸の最中で間延びしたなんとも失礼な挨拶だった。わたしの中で扉を閉めようという衝動がふっと湧いた。その衝動を霧散させずとも、どうにか抑えつけてわたしは口を開いた。
「何しにきたの?」
「せっかく見舞いに来たのに、何しに来たの、は随分だな。サークルの人たちが家が近いからって理由だけで、サークル代表で俺に行ってこいってさ」
彼が言い終えてから再度欠伸をするのを見て、わたしの体から力が抜けた。視界が揺らぎ体が傾く。このままだと靴箱の角に頭打つなー、なんて呑気な事を考えていたが、側頭部にはなんの衝撃もこなかった。それどころか両の肩に大きな手が添えられ、わたしを支えていた。
「おい、大丈夫……じゃなさそうだな。悪いけど勝手に布団まで運ばせてもらうから」
肩に置かれていた手が移動して、わたしを抱き上げようとする。いわゆるお姫様抱っこの状態になると、彼の落ち着いた心臓の音が聞こえて心が安らいだ。
細心の注意を払ったのだろうが、乗り心地はよくなかった。彼はわたしをベッドに下ろすと、腕に掛けていたコンビニの白い袋を机の上に置いた。彼は床に膝を着き、袋を漁り始めた。
「熱はある?」
「今朝は九度近く。でも少し下がったと思う」
わたしは体を起こして布団を纏って、壁にもたれ掛かり彼の方を見た。
「そう、藍川が電話した時にかなり具合悪そうだって言ってたんだけどさ。なんか食べた?」
彼が何も出ていないキッチンの方を見ながら言った。わたしはその言葉をうめき声ともとれる声とともに、首をなんとか動かして否定した。彼は袋からりんごを取り出した。
「そっか。りんごくらいなら食べれる? 食べれそうなら切るけど。それともお粥とかの方がいい?」
「どっちもいらない」
彼はわたしの答えを聞くと、袋からカップとスプーンを取り出してわたしに手を出すように促した。わたしはおとなしくそれに従うと、彼はポンと2つを置いて背を向けた。
「とりあえず、それだけは食え。あとキッチン借りる」
わたしの手の上に置かれた冷たいプリンを、プラスチックの小さなスプーンで掬って口へと運んだ。ほどよい甘さとなめらかな口触りが口中に広がる。それを嚥下し、再度スプーンを口の中に入れる。数回繰り返しすことで空になったカップを机の上に置いて、キッチンで手際良く料理する彼に目を向ける。
「なに作ってるの?」
「ん? お粥。作っとくから食べれるようなら、後で食べるといい」
彼は火を弱めて行平鍋に蓋をすると、わたしのもとに歩いてきた。彼はガサガサとコンビニの袋の中から解熱剤とペットボトルを取り出した。
「これ飲んで安静に。俺はお粥が出来たら帰る」
解熱剤の入った箱と水の入ったペットボトルをわたしに握らせるとキッチンに戻っていった。箱から一錠だけを取り出し、口の中に入れ水で流し込んだ。箱に成人は一回に三錠服用と書いてあるが気にしない。
薬を飲みベッドに横になると急に睡魔が襲ってきた。どんどん重くなる瞼に逆らっていると、彼がわたしに声を掛けた。
「じゃあ、俺帰るから。おとなしく寝てろよ」
彼がカバンを背負い、わたしに背を向けた。
「……待って」
あれ? こんな言葉言うつもりじゃないのに。
「ん、まだ何かあった?」
彼がこっちに体を向けた。
「ここに居て欲しい……」
彼は少し困った顔をして、考えているみたいだ。沈黙が部屋の中を満たし、居心地が悪い。
「ごめん。やっぱ今の無し。忘れて」
「分かった。少し荷物とって来る。すぐ戻ってくるから」
彼はわたしの言葉を無視してさっさと部屋を出ていってしまった。わたしは去り行く彼の背中を見送りながら、目を閉じた。
*
わたしが次に目を開けた時、周りは真っ暗だった。ただ部屋の中でキーボードを叩いている彼のノートパソコンを除いては。
「……今何時?」
「三時ちょっと過ぎたくらい」
彼は首に掛けていたヘッドホンを机の上に置いて、ベッドの横に来た。彼はそのまま手をわたしの額に乗せた。濡れたタオルをどかして、彼の額をわたしの額にくっつける。
「ん、熱は少し下がったみたいだな。なんか飲む?」
わたしが肯くと彼は冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出して、わたしに渡した。
「ありがとう」
彼は照れたのかすぐさまパソコンの前に戻り、ヘッドホンをして自分の世界に入ってしまった。
わたしは渡されたスポーツドリンクに口を付けて、また夢の世界に戻っていった。
*
暖かな日差しを感じ、瞼を持ち上げると不思議なことに女性の声が聞こえた。部屋には彼しか居なかったはずなのに。首を動かして部屋の中を見ると、侑子がいた。
「あ、起きたー」
妙なことに右手にレンゲ、左手に茶碗を持って、にこやかにわたしの顔を覗き込んでいる。
「佐藤くん。起きたみたいだよ」
昨夜から泊まり込んでいる彼、佐藤がタオルと湯気の上がる洗面器を持って歩いてきた。
「起きたのか。調子は?」
「あ、うん。大丈夫」
「じゃあ、藍川がさっきまで食ってたお粥持ってくるから、これで体拭いとけ。」
「私が拭いてあげるー」
侑子の申し出を却下して、パジャマの上を脱いで体を拭き始める。
「侑子はいつ来たの?」
「七時半くらいかな。合い鍵使って入ったら、佐藤くんがパソコンやっててびっくりした」
そう言って自分の口にお粥を運んだ。
「うーん、美味しい。ちょっと薄味で物足りないけど。料理が美味しいのはポイント高いかも」
わたしはそれを無視して、タオルを洗面器に戻して、侑子を冷ややかな目で眺めた。
「心配しなくても、君から乗り換えたりしないから、そんな目しないでよ」
曲解した彼女は茶碗を机の上に置いて、わたしに覆い被さってきた。そしてわたしの唇に彼女の唇がくっついてきた。
「おい! 一晩中看病してやったのに、恩を仇で返すようにいちゃつきやがって」
彼はお粥の乗ったお盆を叩きつけるように机に置くと、鞄を背負って急ぎ足で出ていった。