帰り道の向こう
午前四時四十三分。
目覚ましが鳴るより先に、航平は目を開けた。
洗濯物は乾いていた。流しには、昨夜コーヒーを飲んだマグカップがひとつ。寝室の扉は閉まっている。
顔を洗い、作業着に袖を通す。玄関で靴を履いていると、廊下の奥から妻の声がした。
「今日も遅い?」
「いつもくらい」
「そう」
十五年も繰り返せば、それで用は足りた。
三十八歳になった航平には、役職がなかった。小さな会社のサービス業で、朝から晩まで体を動かした。欠ければ誰かが困るが、代わりがいないわけではない。その程度の場所を、自分の居場所として受け入れていた。
職場までは、およそ五十キロ。
その距離だけが、彼のものだった。
車に乗り、ドアを閉める。
最後の半ドアの音が、家とも会社とも違う空間を完成させる。誰も呼ばない。何も頼まれない。足の動きにエンジンが応え、手の動きに世界が向きを変える。
自分の判断と、その結果が、これほど正確につながるものはほかになかった。
人影のない道を、航平は飛ばした。
速度計の針は、他人に見せられる位置にはなかった。それでも事故は起こさず、取り締まりにも遭わなかった。十五年間、ただの一度も。
自分にはできる。
その確信だけは、誰にも削られていなかった。
職場に着く前に、実家へ寄る。足の悪い祖母のために灯油を運び、母がまとめたごみを出す。
「ちゃんと寝てるの」
「寝てるよ」
母は、嘘と知っている顔で弁当を渡した。
それから仕事をした。
挨拶をし、頭を下げ、物を運び、汚れを落とし、また頭を下げた。時計が二十二時を回ってから、ようやく自分の車の鍵を握った。
帰宅は日付の変わる頃になることもあった。
妻は起きていた。娘はもう眠っていた。
シャワーを浴び、洗濯機を回し、コーヒーをいれる。向かいに座った妻とは、明日の天気や洗剤の残りについて話した。話さない夜もあった。
洗濯物を干して、少し横になる。
そうしてまた、四時四十三分が来た。
*
最初におかしくなったのは、コンビニのコーヒーだった。
五時十二分のレシートを受け取り、カップを車内に置いた。そこから実家までは、どんなに急いでも二十分はかかる。
実家の台所の時計は、五時十九分を指していた。
「これ、遅れてない?」
「昨日、電池替えたばかりよ」
スマートフォンも五時十九分だった。
航平はまだ熱すぎるコーヒーを飲み、道が空いていたのだと思った。
翌週には、仕事の時間が足りなくなった。
いつもなら閉店までに終わる片付けが、少しだけ残った。床の半分。伝票が三枚。洗い終えた道具を棚へ戻す、その程度のことだった。
「珍しいですね」
後輩に言われ、航平は笑った。
「歳かな」
まだ、笑えるほどのずれだった。
ただ、十一時に始めた作業を終えて時計を見ると、十四時になっていることがあった。昼食を取った記憶はあったが、何を食べたのか思い出せなかった。
寝不足だろう、と誰もが言った。
航平もそう思った。
秋の朝、街路樹の葉が色づき始めていた。
その夜、同じ道を帰ると、枝はほとんど裸になっていた。
清掃車でも入ったのだろうか。
信号待ちで見上げた枝の先に、ひとつだけ残った葉が震えていた。
翌朝には、その枝に薄い雪が積もっていた。
*
「昨日じゃないよ」
娘が言った。
ダイニングテーブルに、卒業証書の筒が置いてあった。
「卒業式、昨日だったか」
「先週」
娘の制服には、もうリボンがなかった。
航平は妻を見た。妻は食器を洗っていた。水を止めてから、ゆっくり振り返った。
「何度も連絡したよ」
スマートフォンには、不在着信が並んでいた。
知らない日付が、その間に挟まっていた。
それからは、確かめるようになった。
出発時刻と到着時刻をノートに書いた。車の時計を合わせた。携帯電話を買い替えた。病院へ行き、検査も受けた。
頭の写真を見せられたが、そこに失った時間は写っていなかった。
ある夜、車内で録音を始めてから帰路についた。
四十二分間の録音が残った。
エンジン音。ウインカー。自分の咳。
帰宅すると、六日が過ぎていた。
妻は玄関に立っていた。
怒るより先に、航平の腕を両手でつかんだ。
「どこにいたの」
「帰ってた」
自分でもひどい答えだと思った。
「ずっと、帰ってたんだよ」
妻はその腕を離さなかった。
その晩は、久しぶりに長い話をした。
何を話しても、六日間だけは埋まらなかった。
*
一度、車に乗るのをやめた。
職場に事情を話し、実家から歩いて通った。妻には毎晩電話をした。
その一週間は、確かに七日あった。
朝が来て、夜が来た。昨日の続きを今日できた。
けれど、七日目の夜、母から娘の写真が送られてきた。
写真の娘は、航平の知らない髪型をしていた。
帰りたい、と思った。
車ならすぐだった。
電車はもう間に合わなかった。朝まで待てばよかった。妻に迎えを頼むこともできた。
それでも、駐車場まで歩いた。
シートに体を沈めると、七日間ずっと胸の中で鳴っていた音が止んだ。
少しだけ目を閉じた。
ここでは、何も失敗していない気がした。
帰宅したとき、玄関の鍵が変わっていた。
*
異変は、航平だけの秘密ではなくなった。
家族も、会社の人間も、彼の話を頭から否定しなくなった。説明のつかない不在と、変わらない顔を、いつまでも見間違いにはできなかった。
それでも、信じることと、待てることは別だった。
入社したばかりだった後輩が、店を任されるようになった。彼は航平を「先輩」と呼び続けたが、仕事の指示は以前よりも丁寧になった。
「この機械、替わったんですよ」
「いつ?」
後輩は少し黙った。
「もう、だいぶ前です」
航平のほうが若く見えるようになってから、その呼び方もなくなった。
実家の祖母の椅子が空いた。
次に、母の弁当がなくなった。
冷蔵庫に貼られた葬儀の礼状を、航平は立ったまま読んだ。自分の名前も、そこにあった。
電話をかけた相手は、最初に安心した声を出し、それから困った声になった。
誰も、責めるために待っていたわけではなかった。
ただ、待っている間にも、しなければならないことがあった。
娘は結婚した。
妻の眼鏡が変わった。髪の分け目に白いものが増え、やがて染めなくなった。
航平の作業着だけが、同じ場所で擦り切れていた。
ある日、会社へ行くと、見知らぬ若い社員に来訪の目的を尋ねられた。
自分の名前を言うと、奥から昔の後輩が出てきた。
彼は白髪になっていた。
「連絡先だけでも、残しておいてくださいって、お願いしましたよね」
「仕事は」
相手は、口を結んだ。
航平はその表情を知っていた。
困った客に、これ以上は応じられないと伝えるときの顔だった。
*
娘が四十歳を迎えた年、航平はまだ四十歳になっていなかった。
その日、彼女は実家で、妻の通院の書類を整理していた。
航平は手土産を持っていた。
駅前で買った、娘の好きな菓子だった。
「それ、もう食べないよ」
娘は袋を見ずに言った。
「そうか」
「それ好きだったの、中学生の頃」
航平は袋を床に置いた。
妻は病院にいた。
そのことも、彼は着いてから知った。
「俺だって、何もしてなかったわけじゃない」
娘の手が止まった。
航平は続けた。
「ずっと働いてた。お前たちのために。朝から夜まで、毎日」
言いながら、それがいつの話なのか、自分にも分からなくなった。
娘は書類をそろえた。角を何度も、テーブルに当てた。
「お父さんには、毎日だったんだね」
静かな声だった。
「私たちには、何年もだったよ」
航平は何か言おうとした。
「車に乗るとそうなるって、分かってたんでしょう」
「でも」
「乗ったんでしょう」
娘の手の甲に、見覚えのないしみがあった。
自分より年上の女の手だった。
「お父さんはいいよね」
声が、そこで初めて揺れた。
「全部置いていけて。仕事も、おばあちゃんも、お母さんも、私も。自分の時間だけ生きていけて」
そんなつもりじゃなかった。
その言葉は、胸の中でははっきりしていた。
けれど口に出すには、あまりに遅かった。
「私も、一度くらい置いていきたかったよ」
航平は、床の菓子袋を見ていた。
帰り際、娘は彼を呼び止めかけた。
「お父さ——」
玄関の扉が閉まった。
*
車は、いつもの匂いがした。
古い布と、乾いたコーヒーの匂い。
航平はハンドルに手を置いた。
ここだけは変わっていなかった。
それが突然、ひどく恐ろしかった。
家族も、同僚も、同じ場所にとどまっていたのではない。病気をし、誰かを見送り、言いたくないことを言い、眠れない夜にも翌朝を迎えていた。
自分だけが、その続きを見なかった。
守っているつもりだった生活を、毎朝、毎晩、追い越していた。
エンジンをかけた。
行き先はなかった。
車は走った。
信号を過ぎるたびに、街の看板が変わった。更地に建物が立ち、明かりがともり、窓が割れた。見慣れた高架橋の向こうに、知らない道路が伸びていた。
航平はもう、速度計を見なかった。
フロントガラスを雨が打った。
次の瞬間には雪だった。
花びらかと思った白いものが、建物の粉塵に変わった。
昼と夜の区別が薄くなり、空は幾重もの色を重ねた。
やがて、道が先へ延びているのか、過ぎた道が自分へ流れ込んでいるのか、分からなくなった。
ハンドルを握る指の感覚が消えた。
体が消えたのか、体という狭さを感じなくなったのか、それさえ分からなかった。
最後まで残ったのは、曲がり角で後部座席に差し出した、左手の感触だった。
幼い娘が眠っているとき、体が傾かないように。
シートに届くはずもないのに、いつも伸ばしていた手だった。
*
捜索願を出したのは、娘だった。
車は複数の防犯カメラに映っていた。
最後に確認されたのは、海へ向かう道路でも、山中の道でもなかった。
昼間なら配送車の列ができる、ありふれた地下道だった。
入口に一台。
出口に一台。
間には分岐も駐車場もなく、保守用の扉は内側から施錠されていた。
入口の映像には、航平の車が映っていた。
出口の映像には、映っていなかった。
録画に欠落はなかった。後続車は、所要時間どおりに反対側へ出てきた。運転手は、前方に事故も停車車両もなかったと証言した。
地下道は調べられた。
壁も、排水溝も、天井も。
車一台がなくなる場所は、なかった。
妻は何度も、同じ映像を見た。
娘は入口の暗がりに目を凝らした。
そこで止めれば、父はまだこちら側にいた。
*
初めのうち、職場ではよく航平の話が出た。
真面目な人だった。
車が好きだった。
少し、無理をしすぎていた。
やがて新しい人が入り、航平を知らない人が半分を超えた。
誰かが彼の使っていた工具を見つけたが、名前の文字が薄れていて、そのまま共用の棚に戻した。
家では、妻がしばらく玄関の音に耳を澄ませた。
娘は、最後の会話を何度もやり直した。
あのとき声をかけていれば。
せめて菓子を受け取っていれば。
二年が過ぎ、三年が過ぎた。
毎日思い出すことはなくなった。
笑っている途中で、笑っている自分に気づき、胸が痛むことも減った。
玄関には別の靴が置かれた。
マグカップは食器棚の奥へ移った。
それらを、航平は知っていた。
見ている、というのとも違った。
遠い町の雨と、妻が引き出しを閉める音が、同じ近さにあった。誰かが彼の名前を言うと、散り散りになったものが一瞬だけ、人ひとりの形に寄った。
その機会は、少しずつ減っていった。
肉体がなくなったときには、まだ自分はいた。
誰も名前を呼ばなくなるにつれて、母の声や、自分の顔を、思い出せなくなった。
人が滅びるとは、こういうことなのかもしれない。
そう考えた意識も、やがてほかのものと混ざった。
土の中の冷たさ。
朝を待つ窓。
海へ押し出される空気。
もう、帰る場所がないという寂しささえ、ひとり分の形を保てなくなっていた。
*
娘がその岬を訪れたのは、五十歳を過ぎてからだった。
家族旅行の途中だった。
夫は駐車場に忘れ物を取りに戻り、娘はひとり、遊歩道を歩いていた。
昔も、ここへ来たことがある。
父が運転して、母が助手席で地図を広げていた。道を間違えて、母が笑い、父は少しだけ不機嫌なふりをした。
忙しかった父にも、そんな日があった。
展望台の手前で、娘は足を止めた。
この坂だっただろうか。
疲れて歩けないと言うと、父は背中を向けてしゃがんだ。
乗ると、思ったより高かった。
首に腕を回した。父のシャツは日なたの匂いがした。
どうして、こんなことを忘れていたのだろう。
不意に、背後から風が吹いた。
強いのに、冷たくなかった。
背中から肩を包み、前へ倒れそうになった体を、下から支えるように抜けていった。
娘は一歩踏み出し、それから立ち止まった。
「……お父さん」
返事はなかった。
草が波打っていた。
海の上を、光が動いていた。
父がここにいるという証拠は、何もなかった。
それでも、暗い海の底や、誰も来ない山の中に父を探し続けていた心が、初めて、別の場所へ向いた。
どこかにいる。
どこか一か所でなくても、いいのかもしれない。
娘は目を閉じた。
あの日の言葉を、取り消すことはできなかった。
待っていた年月も、母の寂しさも、なかったことにはできなかった。
ただ、あれが父に渡した最後の言葉でなくてもいいのだと、ふと思った。
「言いすぎたよ」
風が髪を頬へ運んだ。
娘はそれを耳にかけた。
「でも、会いたかったんだよ」
しばらく、そのままでいた。
背後から夫が名前を呼んだ。
娘は振り返り、手を上げた。
それから、もう一度だけ海を見た。
風はどこへでも行けた。
娘が歩き出すと、その背中を押しながら、坂の上までついてきた。
今度は、追い越さなかった。




