↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

帰り道の向こう

作者: ゆーきb
掲載日:2026/11/02

午前四時四十三分。


目覚ましが鳴るより先に、航平は目を開けた。


洗濯物は乾いていた。流しには、昨夜コーヒーを飲んだマグカップがひとつ。寝室の扉は閉まっている。


顔を洗い、作業着に袖を通す。玄関で靴を履いていると、廊下の奥から妻の声がした。


「今日も遅い?」


「いつもくらい」


「そう」


十五年も繰り返せば、それで用は足りた。


三十八歳になった航平には、役職がなかった。小さな会社のサービス業で、朝から晩まで体を動かした。欠ければ誰かが困るが、代わりがいないわけではない。その程度の場所を、自分の居場所として受け入れていた。


職場までは、およそ五十キロ。


その距離だけが、彼のものだった。


車に乗り、ドアを閉める。


最後の半ドアの音が、家とも会社とも違う空間を完成させる。誰も呼ばない。何も頼まれない。足の動きにエンジンが応え、手の動きに世界が向きを変える。


自分の判断と、その結果が、これほど正確につながるものはほかになかった。


人影のない道を、航平は飛ばした。


速度計の針は、他人に見せられる位置にはなかった。それでも事故は起こさず、取り締まりにも遭わなかった。十五年間、ただの一度も。


自分にはできる。


その確信だけは、誰にも削られていなかった。


職場に着く前に、実家へ寄る。足の悪い祖母のために灯油を運び、母がまとめたごみを出す。


「ちゃんと寝てるの」


「寝てるよ」


母は、嘘と知っている顔で弁当を渡した。


それから仕事をした。


挨拶をし、頭を下げ、物を運び、汚れを落とし、また頭を下げた。時計が二十二時を回ってから、ようやく自分の車の鍵を握った。


帰宅は日付の変わる頃になることもあった。


妻は起きていた。娘はもう眠っていた。


シャワーを浴び、洗濯機を回し、コーヒーをいれる。向かいに座った妻とは、明日の天気や洗剤の残りについて話した。話さない夜もあった。


洗濯物を干して、少し横になる。


そうしてまた、四時四十三分が来た。


*


最初におかしくなったのは、コンビニのコーヒーだった。


五時十二分のレシートを受け取り、カップを車内に置いた。そこから実家までは、どんなに急いでも二十分はかかる。


実家の台所の時計は、五時十九分を指していた。


「これ、遅れてない?」


「昨日、電池替えたばかりよ」


スマートフォンも五時十九分だった。


航平はまだ熱すぎるコーヒーを飲み、道が空いていたのだと思った。


翌週には、仕事の時間が足りなくなった。


いつもなら閉店までに終わる片付けが、少しだけ残った。床の半分。伝票が三枚。洗い終えた道具を棚へ戻す、その程度のことだった。


「珍しいですね」


後輩に言われ、航平は笑った。


「歳かな」


まだ、笑えるほどのずれだった。


ただ、十一時に始めた作業を終えて時計を見ると、十四時になっていることがあった。昼食を取った記憶はあったが、何を食べたのか思い出せなかった。


寝不足だろう、と誰もが言った。


航平もそう思った。


秋の朝、街路樹の葉が色づき始めていた。


その夜、同じ道を帰ると、枝はほとんど裸になっていた。


清掃車でも入ったのだろうか。


信号待ちで見上げた枝の先に、ひとつだけ残った葉が震えていた。


翌朝には、その枝に薄い雪が積もっていた。


*


「昨日じゃないよ」


娘が言った。


ダイニングテーブルに、卒業証書の筒が置いてあった。


「卒業式、昨日だったか」


「先週」


娘の制服には、もうリボンがなかった。


航平は妻を見た。妻は食器を洗っていた。水を止めてから、ゆっくり振り返った。


「何度も連絡したよ」


スマートフォンには、不在着信が並んでいた。


知らない日付が、その間に挟まっていた。


それからは、確かめるようになった。


出発時刻と到着時刻をノートに書いた。車の時計を合わせた。携帯電話を買い替えた。病院へ行き、検査も受けた。


頭の写真を見せられたが、そこに失った時間は写っていなかった。


ある夜、車内で録音を始めてから帰路についた。


四十二分間の録音が残った。


エンジン音。ウインカー。自分の咳。


帰宅すると、六日が過ぎていた。


妻は玄関に立っていた。


怒るより先に、航平の腕を両手でつかんだ。


「どこにいたの」


「帰ってた」


自分でもひどい答えだと思った。


「ずっと、帰ってたんだよ」


妻はその腕を離さなかった。


その晩は、久しぶりに長い話をした。


何を話しても、六日間だけは埋まらなかった。


*


一度、車に乗るのをやめた。


職場に事情を話し、実家から歩いて通った。妻には毎晩電話をした。


その一週間は、確かに七日あった。


朝が来て、夜が来た。昨日の続きを今日できた。


けれど、七日目の夜、母から娘の写真が送られてきた。


写真の娘は、航平の知らない髪型をしていた。


帰りたい、と思った。


車ならすぐだった。


電車はもう間に合わなかった。朝まで待てばよかった。妻に迎えを頼むこともできた。


それでも、駐車場まで歩いた。


シートに体を沈めると、七日間ずっと胸の中で鳴っていた音が止んだ。


少しだけ目を閉じた。


ここでは、何も失敗していない気がした。


帰宅したとき、玄関の鍵が変わっていた。


*


異変は、航平だけの秘密ではなくなった。


家族も、会社の人間も、彼の話を頭から否定しなくなった。説明のつかない不在と、変わらない顔を、いつまでも見間違いにはできなかった。


それでも、信じることと、待てることは別だった。


入社したばかりだった後輩が、店を任されるようになった。彼は航平を「先輩」と呼び続けたが、仕事の指示は以前よりも丁寧になった。


「この機械、替わったんですよ」


「いつ?」


後輩は少し黙った。


「もう、だいぶ前です」


航平のほうが若く見えるようになってから、その呼び方もなくなった。


実家の祖母の椅子が空いた。


次に、母の弁当がなくなった。


冷蔵庫に貼られた葬儀の礼状を、航平は立ったまま読んだ。自分の名前も、そこにあった。


電話をかけた相手は、最初に安心した声を出し、それから困った声になった。


誰も、責めるために待っていたわけではなかった。


ただ、待っている間にも、しなければならないことがあった。


娘は結婚した。


妻の眼鏡が変わった。髪の分け目に白いものが増え、やがて染めなくなった。


航平の作業着だけが、同じ場所で擦り切れていた。


ある日、会社へ行くと、見知らぬ若い社員に来訪の目的を尋ねられた。


自分の名前を言うと、奥から昔の後輩が出てきた。


彼は白髪になっていた。


「連絡先だけでも、残しておいてくださいって、お願いしましたよね」


「仕事は」


相手は、口を結んだ。


航平はその表情を知っていた。


困った客に、これ以上は応じられないと伝えるときの顔だった。


*


娘が四十歳を迎えた年、航平はまだ四十歳になっていなかった。


その日、彼女は実家で、妻の通院の書類を整理していた。


航平は手土産を持っていた。


駅前で買った、娘の好きな菓子だった。


「それ、もう食べないよ」


娘は袋を見ずに言った。


「そうか」


「それ好きだったの、中学生の頃」


航平は袋を床に置いた。


妻は病院にいた。


そのことも、彼は着いてから知った。


「俺だって、何もしてなかったわけじゃない」


娘の手が止まった。


航平は続けた。


「ずっと働いてた。お前たちのために。朝から夜まで、毎日」


言いながら、それがいつの話なのか、自分にも分からなくなった。


娘は書類をそろえた。角を何度も、テーブルに当てた。


「お父さんには、毎日だったんだね」


静かな声だった。


「私たちには、何年もだったよ」


航平は何か言おうとした。


「車に乗るとそうなるって、分かってたんでしょう」


「でも」


「乗ったんでしょう」


娘の手の甲に、見覚えのないしみがあった。


自分より年上の女の手だった。


「お父さんはいいよね」


声が、そこで初めて揺れた。


「全部置いていけて。仕事も、おばあちゃんも、お母さんも、私も。自分の時間だけ生きていけて」


そんなつもりじゃなかった。


その言葉は、胸の中でははっきりしていた。


けれど口に出すには、あまりに遅かった。


「私も、一度くらい置いていきたかったよ」


航平は、床の菓子袋を見ていた。


帰り際、娘は彼を呼び止めかけた。


「お父さ——」


玄関の扉が閉まった。


*


車は、いつもの匂いがした。


古い布と、乾いたコーヒーの匂い。


航平はハンドルに手を置いた。


ここだけは変わっていなかった。


それが突然、ひどく恐ろしかった。


家族も、同僚も、同じ場所にとどまっていたのではない。病気をし、誰かを見送り、言いたくないことを言い、眠れない夜にも翌朝を迎えていた。


自分だけが、その続きを見なかった。


守っているつもりだった生活を、毎朝、毎晩、追い越していた。


エンジンをかけた。


行き先はなかった。


車は走った。


信号を過ぎるたびに、街の看板が変わった。更地に建物が立ち、明かりがともり、窓が割れた。見慣れた高架橋の向こうに、知らない道路が伸びていた。


航平はもう、速度計を見なかった。


フロントガラスを雨が打った。


次の瞬間には雪だった。


花びらかと思った白いものが、建物の粉塵に変わった。


昼と夜の区別が薄くなり、空は幾重もの色を重ねた。


やがて、道が先へ延びているのか、過ぎた道が自分へ流れ込んでいるのか、分からなくなった。


ハンドルを握る指の感覚が消えた。


体が消えたのか、体という狭さを感じなくなったのか、それさえ分からなかった。


最後まで残ったのは、曲がり角で後部座席に差し出した、左手の感触だった。


幼い娘が眠っているとき、体が傾かないように。


シートに届くはずもないのに、いつも伸ばしていた手だった。


*


捜索願を出したのは、娘だった。


車は複数の防犯カメラに映っていた。


最後に確認されたのは、海へ向かう道路でも、山中の道でもなかった。


昼間なら配送車の列ができる、ありふれた地下道だった。


入口に一台。


出口に一台。


間には分岐も駐車場もなく、保守用の扉は内側から施錠されていた。


入口の映像には、航平の車が映っていた。


出口の映像には、映っていなかった。


録画に欠落はなかった。後続車は、所要時間どおりに反対側へ出てきた。運転手は、前方に事故も停車車両もなかったと証言した。


地下道は調べられた。


壁も、排水溝も、天井も。


車一台がなくなる場所は、なかった。


妻は何度も、同じ映像を見た。


娘は入口の暗がりに目を凝らした。


そこで止めれば、父はまだこちら側にいた。


*


初めのうち、職場ではよく航平の話が出た。


真面目な人だった。


車が好きだった。


少し、無理をしすぎていた。


やがて新しい人が入り、航平を知らない人が半分を超えた。


誰かが彼の使っていた工具を見つけたが、名前の文字が薄れていて、そのまま共用の棚に戻した。


家では、妻がしばらく玄関の音に耳を澄ませた。


娘は、最後の会話を何度もやり直した。


あのとき声をかけていれば。


せめて菓子を受け取っていれば。


二年が過ぎ、三年が過ぎた。


毎日思い出すことはなくなった。


笑っている途中で、笑っている自分に気づき、胸が痛むことも減った。


玄関には別の靴が置かれた。


マグカップは食器棚の奥へ移った。


それらを、航平は知っていた。


見ている、というのとも違った。


遠い町の雨と、妻が引き出しを閉める音が、同じ近さにあった。誰かが彼の名前を言うと、散り散りになったものが一瞬だけ、人ひとりの形に寄った。


その機会は、少しずつ減っていった。


肉体がなくなったときには、まだ自分はいた。


誰も名前を呼ばなくなるにつれて、母の声や、自分の顔を、思い出せなくなった。


人が滅びるとは、こういうことなのかもしれない。


そう考えた意識も、やがてほかのものと混ざった。


土の中の冷たさ。


朝を待つ窓。


海へ押し出される空気。


もう、帰る場所がないという寂しささえ、ひとり分の形を保てなくなっていた。


*


娘がその岬を訪れたのは、五十歳を過ぎてからだった。


家族旅行の途中だった。


夫は駐車場に忘れ物を取りに戻り、娘はひとり、遊歩道を歩いていた。


昔も、ここへ来たことがある。


父が運転して、母が助手席で地図を広げていた。道を間違えて、母が笑い、父は少しだけ不機嫌なふりをした。


忙しかった父にも、そんな日があった。


展望台の手前で、娘は足を止めた。


この坂だっただろうか。


疲れて歩けないと言うと、父は背中を向けてしゃがんだ。


乗ると、思ったより高かった。


首に腕を回した。父のシャツは日なたの匂いがした。


どうして、こんなことを忘れていたのだろう。


不意に、背後から風が吹いた。


強いのに、冷たくなかった。


背中から肩を包み、前へ倒れそうになった体を、下から支えるように抜けていった。


娘は一歩踏み出し、それから立ち止まった。


「……お父さん」


返事はなかった。


草が波打っていた。


海の上を、光が動いていた。


父がここにいるという証拠は、何もなかった。


それでも、暗い海の底や、誰も来ない山の中に父を探し続けていた心が、初めて、別の場所へ向いた。


どこかにいる。


どこか一か所でなくても、いいのかもしれない。


娘は目を閉じた。


あの日の言葉を、取り消すことはできなかった。


待っていた年月も、母の寂しさも、なかったことにはできなかった。


ただ、あれが父に渡した最後の言葉でなくてもいいのだと、ふと思った。


「言いすぎたよ」


風が髪を頬へ運んだ。


娘はそれを耳にかけた。


「でも、会いたかったんだよ」


しばらく、そのままでいた。


背後から夫が名前を呼んだ。


娘は振り返り、手を上げた。


それから、もう一度だけ海を見た。


風はどこへでも行けた。


娘が歩き出すと、その背中を押しながら、坂の上までついてきた。


今度は、追い越さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。