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婚約を解消した私に、無口な伯爵がダンスの練習を申し込みました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/24

「君との結婚生活は、退屈そうだ」


 二年間の婚約が終わる理由は、それだった。

 茶器の向こうで、ノルベルト様は窓の外を見ていた。

 私は今朝、彼の好きな菓子が届くように、侍女に頼んでいた。菓子は一枚しか減っていない。


「先日の夜会でも、君はずっと壁際にいたね」

「あの日は、お話の途中でいらっしゃったので」

「待っていなくていいんだよ。自分でも人付き合いを広げないと」


 でも、勝手に離れたら、いつも不機嫌になるではないですか。

 言いかけて、やめた。

 次の夜会のために用意した扇が、部屋の引き出しに入っている。彼に地味だと言われないように選んだ、私には少し華やかすぎる扇だった。


「分かりました。父には私から話します」


 私が答えると、ノルベルト様はようやくこちらを見た。


「君なら、分かってくれると思っていた」


 その顔が晴れやかだったので、私は膝の上で手を握った。


 両家の話し合いは、その週のうちに済んだ。

 先方が望んだ解消であることを文書に残し、贈り物を返した。

 婚約の証の結晶も、小箱へ戻した。二年前、署名を終えた私たちが、両家の封蝋の間へ魔力を通して作ったものだった。箱を閉じ、ほかの返却品と一緒に侍女へ渡した。

 母は最後まで、あの菓子を食べさせるのではなかったと言っていた。

 私が十八歳になったばかりなのを心配して、父はしばらく領地へ戻ろうかと尋ねた。

 私は首を振った。

 隠れるように帰ったら、今よりもっと惨めになりそうだった。


 ◇


 婚約解消から一週間後、ユリウス・ローデン伯爵が訪ねてきた。

 母の施術を受ける日ではない。それなのに、いつも通される小さな治療室ではなく、客間で待っているという。


「私も?」

「あなたに、お話があるそうよ」


 母は私の髪に引っかかっていた糸くずを取り、先に客間へ向かった。

 私は鏡で襟元を確かめてから、あとを追った。


 ローデン伯爵は、二十三歳。父君を亡くし、帰還後に爵位を継いだ。

 半年前に北の戦地から戻り、今は王都で呪いの治療を受けながら、領地との書簡をやり取りしている。

 左脚に残った呪いは、筋や骨を傷つけるものではない。体を動かす魔力の道を、ときどき締めつける。

 神殿の治療師が少しずつ呪印をほどき、母はその合間に、乱れた魔力の流れを整えていた。

 私たちヴァンネ子爵家に伝わる、小さな術だった。

 ほかの人の魔力を一方的に流しこむと、呪印はそれを絡め取ってしまう。母は自分の魔力を伯爵のものと一度、手元で輪につなぎ、整えてから返す。術者だけでなく、受ける側にも、異なる魔力を通す練習が必要だった。

 呪いを消す力はない。けれど施術のあと、伯爵が杖を軽く持ち直すのを見ると、私まで嬉しくなる。


 伯爵は長椅子から立ち上がろうとした。

 母が、どうぞそのままで、と手を添える。


「こんにちは、ローデン伯爵」

「こんにちは。リディア嬢」


 彼の膝の上には、一通の封筒があった。

 王家の紋章が見える。


「来月の、帰還者を迎える舞踏会です」


 封筒を卓上へ置き、伯爵は続けた。


「出席できると、治療師から許可が出ました。短い曲なら、踊る練習をしてもよいそうです」

「それは、よかったですね」


 思わず声が弾んだ。

 伯爵は私を見て、一度うなずいた。


「そこで、練習のお相手をお願いできないかと」


 母を見ると、私に答えるよう、穏やかに顎を引いた。


「私で、お役に立てますか」

「はい。あなたに、お願いしたい」


 伯爵の手は大きかった。

 母が術の具合を確かめるため、私にも彼の魔力に触れさせてくれたことがある。あのときは手首に指を添えただけだった。

 踊るとなれば、手を取り、肩に触れる。

 私は膝の上の両手を、きちんと揃えた。


「母が見ていてくれるのでしたら」

「もちろん。治療師から届いた指示も、確認します」


 母の声に、伯爵は封筒とは別の書付を差し出した。

 私は少し安心して、それから少し恥ずかしくなった。彼は当然、体に無理のない練習の話をしている。


「舞踏会で、踊っていただきたい方がいるんです」


 伯爵が言った。

 私は揃えた手を、もう一度握った。


「……承知しました。練習の日は、いつからにいたしましょう」


 私は母の方へ向き、予定を尋ねた。伯爵も手帳を出す。

 誰と踊るのですか、とは聞けなかった。彼のお相手になれる方が、羨ましかった。


 ◇


 練習は週に三度、午後のお茶の前に行うことになった。

 母と、私のダンス教師のベルト夫人がつく。

 初日は、手を取り合って立つところからだった。


「リディア様。肩が上がっています」

「はい」

「伯爵様もです」


 同じ指摘を受け、私たちは目を合わせた。

 伯爵は咳払いをした。


 最初の八歩は、補助をせずに進んだ。

 九歩目で、彼の左手に少し力が入る。


「止まりましょう」


 夫人がすぐに言った。

 母が彼の魔力を確かめ、その日の練習はそこで休憩になった。

 椅子へ戻った伯爵は、私に詫びた。


「せっかく、支度をしていただいたのに」

「私も、八歩では間違えずに済みました」


 夫人に、余計なことを言わない、とたしなめられた。

 伯爵が顔を伏せる。笑っているのだと分かって、私も口元を押さえた。


 私は彼が笑うところを、もっと見たかった。

 施術のあとのお茶で、私が庭の犬の話をすると、彼はときどきこんな顔をする。

 大きな犬小屋を建てたのに、うちの犬は空の植木鉢に丸くなる。伯爵はそれを聞いて、次の訪問で、犬はまだ鉢に、と尋ねた。

 私は嬉しくなって、今度は鉢を横倒しにして眠っていたと話した。

 ノルベルト様には、こういう話をしなくなっていた。犬の話を始めると、またかと言われたことがあった。


「次は、リディアに補助をさせてみましょう」


 母の声に、私は顔を上げた。


「少しだけよ。まず、お二人で輪を作って。整えるのは、それから」


 私の術は、まだ母ほど安定しない。

 母が呪印に触れる施術をする一方で、私は締めつけの弱いところへ、細く魔力を添えるだけだった。

 最初は伯爵の魔力を通すのに精いっぱいで、自分のものを返すのが遅れた。母に言われ、踊り出さずにもう一度試す。

 私から細く通した魔力が、彼のものに混じって手元へ戻った。温度の違う水が、同じ水路を流れるようだった。


「今、つながりましたね」


 伯爵の声に、私はうなずいた。彼にも分かるのだ。

 母が流れを確かめてから、二人で一歩を踏み出した。さっき硬くなったところで、左脚が止まらなかった。


「今の、痛みませんでしたか」

「ええ」


 伯爵は足元を見ていた。


「もう一度、お願いしても?」


 今度は、私も笑ってうなずけた。


 二回目の練習のあと、母が治療の記録をつけている間に、私は伯爵へ尋ねた。


「舞踏会のお相手にも、途中でお休みになる目安を、お伝えした方がよいでしょうか」


 伯爵が、紅茶のカップを置いた。


「お相手?」

「踊りたい方がいらっしゃると。術を使えなくても、脚がこわばる前に休憩をお勧めすることは、できますから……」

「あなたです」


 言葉が止まった。


「踊っていただきたいのは、リディア嬢です」


 母のペンの音が止まり、すぐに再開した。

 私はそれを聞きながら、膝の上で指を重ねた。


「でも、おっしゃいませんでした」

「はい。申し訳ありません」


 伯爵は逃げずに、私を見ていた。


「あなたがまだ、おつらい時期だと思って。まず、踊っていただく約束をしようと考えたのですが」

「練習の?」

「……その先まで、言うべきでした」


 私は紅茶を一口飲もうとして、カップを持つのをやめた。

 手が震えそうだった。


「では、ほかの方はいらっしゃらないんですね」

「いません」


 返事があまりにきっぱりしていたので、次の言葉が出てしまった。


「よかった」


 母のペンが、今度こそ止まった。

 伯爵は私の返事を聞き直したりしなかった。ただ、背筋を伸ばし、改めて舞踏会への同行を申し込んだ。

 私は母を見てから、自分で答えた。


「喜んで、お受けします」


 ◇


 それからの練習は、前より難しくなった。

 足ではなく、顔を見てしまう。

 彼がこちらを見ていると分かると、数えていた拍子が抜ける。


「伯爵様。今のは脚のせいではございませんね」

「はい」

「リディア様も、間違いにお付き合いなさらないで」


 私は返事をする代わりに、口を結んだ。

 練習を重ねると、互いの魔力を通すのも早くなった。けれど顔が近くなるのには、なかなか慣れなかった。

 一度、手元が温かいのを意識しすぎて、私は思わず魔力を引いた。輪がほどけたので、二人とも足を止める。


「ごめんなさい。私が、切ってしまいました」

「つなぎ直しても?」


 伯爵は手を取ったまま待っていた。私はうなずき、自分から細い流れを返した。


 ただ、一つ気にかかることがあった。

 彼は、私の補助で踊れると、とても嬉しそうだった。

 それを嬉しいと思うのと同じくらい、不安にもなった。

 もし、私にこの術がなかったら。

 そんな考えが浮かぶ自分が嫌で、ある日、休憩のお茶を注ぎすぎた。


「リディア嬢」


 伯爵の声で手を止める。カップの縁まで、あと少しだった。


「すみません」

「大丈夫です。ポットを、置いてください」


 伯爵は卓上を少し空けてくれた。

 母は今日の施術を終え、ベルト夫人と隣室で予定を相談している。開いた扉の向こうに声が聞こえた。


「何か、気になることが?」


 私はポットの柄から手を離した。

 黙っていても、彼には分からない。ほかの女性と踊るのだと思っていたときのことを、思い出した。


「私が、母の術を使えなかったとしても。お誘いくださったでしょうか」


 言ってから、彼の顔を見るのが怖くなった。

 けれど伯爵は、不快そうにはしなかった。


「はい」


 すぐに答え、それから少し考えた。


「ただ、その場合は、ダンスを口実にはできなかったと思います」


 私は顔を上げた。


「術がなかったら、ですから。たぶん、庭を見せていただきたいと、お願いしたでしょう」

「庭を?」

「あなたに、案内してほしくて」


 伯爵はカップを手に取り、飲まずに置き直した。


「以前、次は薔薇が咲くと話してくださったのを覚えていますか」

「はい」

「咲いた頃に、足の具合を聞いてくださった。庭へ出られそうなら、ご案内しますと」


 まだ、彼が来るたび杖を強くついていた頃だった。

 私は急に、あの日のことを思い出した。

 庭へお誘いした私に、ノルベルト様との約束はないのかと伯爵が尋ねた。次に婚約者が来る日を告げると、彼は、ではその日はお二人で、と話を終えたのだった。


「歩けるようになったら、あなたと見たいと思っていました。けれど、その約束をしてよい立場ではなかった」


 私は、自分のカップを見た。

 あの頃から、と尋ねたい。尋ねたら、私もあの頃からだったと伝えてしまいそうだった。


「庭の薔薇は、もう終わってしまいました」

「ええ」

「今は、何も珍しいものがありません」

「犬が、鉢に入っているのでは」


 私はとうとう笑ってしまった。


「もう入りません。植え替えてしまったので」

「それは、惜しいことをしました」


 彼があまり真剣に言うので、笑いが止まらなかった。

 隣室から母が顔を出したが、何も言わず戻っていった。


 次の訪問では、最初から庭へ出た。

 施術は前日に済んでいる。練習も休みだった。

 杖をついてゆっくり歩く伯爵に、犬が使っていた鉢を見せた。今は小さな花が植わっている。その隣には、庭師が片づける途中の別の空鉢があった。

 犬はどちらにも入らず、伯爵の靴の匂いを嗅ぎ、その足元に座りこんだ。

 伯爵はベンチへ腰を下ろすと、困ったように私を見た。


「動けなくなりました」

「今日は、練習をしませんから」


 私は隣へ座った。

 犬が彼の靴の上に顎を乗せる。伯爵はしばらく、その重みを動かさずにいた。


 ◇


 舞踏会が近づくにつれ、神殿の治療が一段階進んだ。

 呪印はまだ残っている。けれど、母の補助を受けない日にも、歩調が乱れにくくなった。

 伯爵は治療師から許された範囲で、屋敷の教師とも練習していた。


「こちらだけでは、回数が足りませんでしたか」


 私が尋ねると、彼は首を振った。


「あなたがずっと、私の魔力を気にしていては、楽しめないでしょう」


 私は少し黙った。

 確かに、最近は彼の顔より、手のひらを通る流れに注意している時間が長かった。

 役に立ちたいと思うあまり、練習のあと、術のことばかり尋ねていた。


「一曲全部、補助なしで踊るつもりですか」

「できれば」

「でも、無理はしないでください」


 伯爵は、はい、と答えた。

 私は念を押した。


「私、途中でやめても嫌ではありません。あとで痛かったと聞く方が、困ります」


 彼は私の顔を見て、少し間を置いた。


「分かりました。では、痛んだらお伝えします」

「はい。魔力の補助が欲しいときも」


 その日の最後は、半曲だけ踊った。

 補助はしなかった。彼は途中で休みたいと言い、私は手を離して、隣の椅子へ腰を下ろした。

 ベルト夫人が譜面を閉じる。

 伯爵は左脚を楽な位置へ伸ばすと、私の靴先を見た。


「今日は、踏まずに済みました」

「まだ半曲ですから」


 夫人が咳をした。

 私たちは、それ以上ふざけるのをやめた。


 舞踏会の前日、母が私の髪飾りを確かめに来た。

 卓上には、ノルベルト様のために買った扇と、以前から使っている白い扇を並べてある。


「どちらにするの?」

「こちらに」


 白い方を取ると、母はうなずいた。


「伯爵様から、お父様へお話があったのよ」


 私は扇を開きかけて止まった。


「あなたが望むなら、正式に求婚したいそうです。まだ解消したばかりだから、返事を急がせないでほしいとも」

「……父は、何と?」

「まず本人と話してください、と」


 母は私の髪に、真珠の飾りを当てた。


「舞踏会で何か言わなければと、気負わなくていいのよ」


 私は鏡の中で、母と目を合わせた。

 今まで、伯爵が帰ったあと、次の訪問までの日数ばかり数えていた。

 練習が終わったら、何を理由に会えるだろうと考えていた。


「母様。私から、お伝えしたいことがあります」


 母は、私の肩へ手を置いた。


「ええ。それなら、明日、きちんと聞いていただきなさい」


 ◇


 宮廷の大広間は、思っていたより明るかった。

 天井に浮かぶ灯火石が、楽師の奏でる音に合わせ、ゆっくり金色から白へ変わる。

 伯爵は父への挨拶を終えると、私の前へ来た。

 杖は、すぐ脇に控える従者が預かっていた。


「リディア嬢。一曲、お相手をお願いできますか」


 私は扇を母に渡した。


「喜んで」


 差し出された手に、自分の手を重ねる。

 手袋越しにも、彼の魔力は分かった。練習のときより、少し速い。


「緊張していらっしゃいますか」

「とても」

「私もです」


 伯爵は私を広間の端へ導き、短い曲が始まるのを待った。

 私は魔力を流さず、彼の最初の一歩に合わせた。

 八歩を数える必要はなかった。

 顔を上げると、彼も私を見ていた。


「今日は、こちらを見ていても、叱られませんね」


 伯爵が言った。

 私は笑いそうになり、拍子を一つ取り損ねた。


「今のは、伯爵様のせいです」

「申し訳ない」


 広間を一周する前に、彼の歩幅が小さくなった。

 私は尋ねるより先に、彼が口を開くのを待った。


「少し、脚が張ります。ここで休んでも?」

「はい」


 二人で足を止め、曲の途中で輪を離れた。

 従者が杖を渡しに来る。私はそばで待ち、一緒に壁際の椅子へ向かった。

 一曲全部は、踊れなかった。

 けれど伯爵は椅子に腰を下ろしてから、気まずそうな顔をしなかった。


「水をいただいてから、庭へ行きませんか」

「寒くはありませんか」

「少しだけ。お話ししたいことがあります」


 父と母へ声をかけ、庭に面した回廊へ出た。

 扉から数歩のベンチへ伯爵が座ると、母は少し離れたところで知人と話し始めた。

 広間の楽の音が、ここまで聞こえてくる。


「お父様には、お話ししました」


 伯爵が言った。


「あなたへ、正式に求婚するお許しをいただきたいと」

「母から、聞きました」


 伯爵はうなずき、私に向き直った。


「リディア嬢。私と結婚していただけませんか」


 私は、練習のない日に彼を庭へ誘ったことを思い出した。

 犬が動かなくて、ずっとベンチにいた。二人で何を話したか、全部は覚えていない。

 それでも、彼が帰る時刻になったら、もう一杯お茶をいかがですかと引き止めた。


「私も、お伝えしたいことがあるんです」


 伯爵が静かに待つ。


「練習の日が、楽しみでした。まだお帰りになっていないのに、次はいついらっしゃるか、考えていました」


 白い扇を母に預けてよかった。手元にあれば、顔を隠してしまったと思う。


「好きです、ユリウス様。私でよければ、お受けします」


 彼は、すぐには答えなかった。

 私が少し心配になった頃、長く息を吐いた。


「嬉しいです」


 彼の手がこちらへ向き、途中で止まった。


「手を、取っても?」


 私は自分から、その手に触れた。

 魔力の流れを探らず、ただ握る。ユリウス様の親指が、手袋の上を一度だけ動いた。


 母が話を終えて戻ってきた。

 私たちの手を見てから、顔を確かめる。


「お父様を呼んできても、よろしいかしら」


 私はうなずいた。

 そのあとで、小さな声で頼んだ。


「もう少ししてから、お願いします」


 母は私たちから目をそらし、分かりました、と答えた。


 ◇


 婚約の書類を交わしたのは、舞踏会から十日後だった。

 両家の署名を終え、婚約の証を作るための封蝋が並べられた。

 父が手順を説明する前に、私はユリウス様へ手を差し出した。


「練習どおりで、よいのですね」

「ええ。今日は、踊りませんが」


 彼の魔力が私の手へ入り、私のものと一緒に戻っていく。何度も繰り返した流れを、今度は二人で封蝋の間へ導いた。

 淡い琥珀色の結晶ができると、父がほっと息をついた。

 母はそれを窓に透かし、「綺麗にできましたね」と私たちに見せた。

 ユリウス様の脚には、まだ呪印が残っている。治療はこれからも続くし、母の施術にも通う。

 けれど、私を訪ねてくる日には、もう練習の予定を入れなくてよくなった。


 その午後、私はお茶の卓に、彼の好きな焼き菓子を並べた。

 ユリウス様は二枚目を取り、窓の外へ目を向ける。

 庭では犬が、前に見た別の空鉢を嗅いでいた。庭師が、犬のために残してくれたものだった。


「入るでしょうか」

「昨日は、入りました」

「それは、見たかった」


 ユリウス様が腰を浮かせたので、私は慌てて止めた。


「お茶が冷めてしまいます。犬は、まだしばらくそこにいますから」


 彼は椅子へ座り直し、菓子をかじった。

 私は自分のカップを持ち上げる。


「来週も、いらっしゃいますか」

「はい。あなたがよければ」

「では、次はこの菓子を、もう少し多く頼んでおきます」


 ユリウス様が手元の皿を見た。


「もう一枚、いただいても?」


 私は皿を、彼の方へ寄せた。


~完~

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


一曲を踊り切ることよりも、途中で「休みたい」と言えること。

役に立てるからではなく、その人と一緒にいたいと思えること。


そんな二人の恋を、楽しんでいただけたら嬉しいです。


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