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神のサイコロ

作者: みえない糸

 人生とは、神の盤上に置かれた一つの駒にすぎない。

 人は自らの意思を信じながら進んでいるつもりで、実のところは神が振るサイコロの目に従って動かされている。

 幸福も不幸も、努力も怠惰も、そのいずれもが盤の上で出た目の結果にすぎない。


 ——そのことを、浩志ひろしが知るのは、死のわずか手前だった。


 


 幼いころ、浩志は神童と呼ばれた。

 生まれつき耳がよく、ピアノの音を一度聴けば即座に再現できた。

 彼の指先は小さな生き物のように鍵盤を駆け、音は水のように空間を流れ、光を含んで部屋を満たした。


 教師は息を呑み、母は息を潜め、父は誇らしげに誰かへ電話をかけた。

 音は奇跡のように訪れ、誰もが彼の未来を信じた。


 だが、奇跡には終わりがある。


 


 中学二年の春、ある朝、右手の関節が固まった。

 痛みもなく、ただ指が硬直していた。

 湯をかけても、揉んでも、祈っても動かない。


 医師は「神経性の麻痺でしょう」と言ったが、その“時”は永遠に戻らなかった。

 浩志は楽譜の上で指を止め、沈黙を見つめた。

 あれほど親しかった音が、遠い星のように感じられた。


 


 それから、時間が音を失った。

 高校に入り、ピアノは埃を被り、家族はその話を避けた。

 彼は進学し、経済を学び、社会の歯車になった。


 ピアノの代わりに数字を扱い、旋律の代わりに報告書を書いた。

 会社の蛍光灯は無音の拍子を刻み、コピー機の動作音がメトロノームのように彼を支配した。


 周囲は彼を「真面目な社員」と呼び、彼も笑って頷いた。

 だが夜、指先が疼いた。


 布団の中で右手を見つめると、微かに震えていた。

 まるで“まだ終わっていない”と主張するように。


 夢の中では鍵盤が並び、彼はその前に立っていた。

 手は動かない。

 それでも心の中で旋律が流れた。

 音のない音楽。

 それが彼の唯一の慰めだった。


 


 三十五を過ぎたころ、浩志はリハビリを始めた。

 医師には「もう治る見込みはない」と言われていた。


 だが彼は医師の言葉より、自分の中の何かを信じた。

 信仰ではなく、執念に近い。


 努力は報われるという陳腐な言葉を信じたわけではない。

 ただ、動かし続けなければ、自分がこの世界に存在している理由を見失うと思った。


 朝は通勤前に指をほぐし、夜は鏡の前で鍵盤の形を空中に描いた。

 指は鈍く、思考より遅く、まるで時間の中に取り残されたようだった。


 汗が落ち、呼吸が荒くなり、痛みが血のように脈打った。

 けれど音は戻らなかった。

 鍵盤は沈黙し、空気は静止したままだった。


 


 ある日、リハビリの途中で彼は気づく。


 動かない指を動かそうとするその行為自体が、すでに誰かの意志に操られているような錯覚を生んでいることに。


 自分は自由だろうか。

 努力とは自由の証か、それとも服従の形か。


 もし神がこの行動を“努力”という目で記しているのなら、それもまた盤上の演目の一部にすぎないのではないか。


 彼は笑った。

 人は自由を信じる限り、最も巧妙に支配されているのだ。


 


 春の午後、会社帰りの電車で、浩志は胸の奥に鋭い痛みを覚えた。

 息を吸い、吐き、もう一度吸おうとした瞬間、世界が遠のいた。


 車内アナウンスが遠くで歪み、視界の端が白く溶けていく。

 音が消えた。

 時間が止まった。


 


 目を開けると、そこは無限に広がる盤上だった。

 駒が並び、無数の人間がその中にいた。


 誰かがサイコロを振り、駒を進めていた。

 笑い、泣き、倒れ、また立ち上がる。

 世界は無音のまま動いていた。


 


 その中心に神々がいた。

 彼らは表情を持たず、同じ仕草でサイコロを振り続けている。


 金属のような静寂が漂い、サイコロの転がる音だけがわずかに響いた。


 


 「……神なのか」


 浩志が呟くと、一人の神が振り向いた。

 その顔は、どこかで見たことがある気がした。


 若くも老いてもいない、人間的な顔。

 だが確かに“生きていた”何者かの顔だった。


 


 「驚くことはない。我々もかつては人だった。」


 神は静かに言った。


 「寿命を終えた者は、この盤に上がり、次の人間を駒として見下ろす。

 駒が寿命を終えると、同じようにここに座る。

 それがこの世界の仕組みだ。」


 


 浩志は立ち尽くした。


 神とは選ばれた存在ではなく、順番にすぎない。

 死んだ者の役割。

 盤の維持者。


 彼らもまた駒だった。


 


 さらにその上には、別の盤があり、その上にもまた神がいるという。

 神の上にも神がいて、どこまでも続く階層。

 終わりのない構造。

 誰も振ることをやめられない。


 


 「君の番だ。」


 神はサイコロを差し出した。

 透き通った六面体の中には、数字の代わりに無数の人影が浮かんでいた。


 泣く者、笑う者、抗う者、祈る者。

 その全てが、かつて人だった。


 


 浩志は手を伸ばした。

 指先はもう自由に動いていた。

 温かく、確かな感触があった。


 見下ろすと、盤上ではひとりの少年がピアノに向かっていた。

 小さな背中。

 指が軽やかに踊り、音が空気を染めていく。


 あのころの自分と同じ姿。

 浩志はサイコロを見つめた。


 抗うことも祈ることも、もう意味を持たなかった。

 ただ、静かに転がすしかない。


 サイコロは無音で転がり、止まった。


 


 盤上の少年がふと立ち止まり、空を見上げた。

 その視線の先に浩志の存在があるとは知らずに。


 浩志は胸の奥に微かな痛みを感じた。

 それが涙なのか、笑いなのか、自分でもわからなかった。


 だが確かにその瞬間、音が響いた。

 鍵盤の音ではない。

 もっと深く、世界の奥で鳴る音だった。


 


 浩志は知らない。

 さらに上の階層で、別の存在がこの盤を見下ろしていることを。


 神の上にも神があり、その神をも見下ろす影がある。

 盤は無限に重なり、サイコロは永遠に転がり続ける。


 


 ただ一つ違うのは、

 今、サイコロを見下ろす浩志の表情が、

 どこか人間らしい優しさを帯びていたことだった。


 


 神は今日もサイコロを振る。

 それが音を失ったピアノの響きと同じものであることを、

 この世界の誰も知らない。


【終】


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