②今宵
不覚にも屋台のおじさんを目が合ってしまい、声をかけられる。
「あ、えっと……」
「良かったら、食べていかないかい?」
ニッと笑うおじさんを見て、私はつられて頷いてしまった。
促されるままに屋台の前の安っぽい椅子に座る。
「おでんはどれにします?」
「……じゃあ、厚揚げと玉子を一つずつ」
おじさんがお皿によそってくれている間、私はその様子をぼーっと見ていた。
「お嬢さんは何の帰りだい?」
「塾です。塾で、自習を」
「へぇ、何年生?」
「高三です」
「あぁ、それは大変だ。どこの大学を目指してるの?」
「いえ、特に決まってなくて」
あまり受験のことは考えたくなくて、ついそっけなく答えてしまう。
私の気持ちが伝わったのか、おじさんは「そうか」と言うと、それ以上きいてこなかった。
猫舌のため、箸で玉子を切った後、何度も息で冷まそうとする。
それでもまだ熱くて、一人で玉子と格闘していると、不意に後ろから足音が聞こえた。
「ここ、隣良いですか?」
見上げると、そこには若い男性が立っていた。
「あ、どうぞ……」
「いらっしゃい。お客さんは何にします?」
「そうだな、ちくわとはんぺんを一つ」
私は少しだけ椅子をずらし、自分の手元に視線を落とす。
「そういえばお客さん、前にも来たことがあります?確か、漫画家さんでしたっけ」
「おお、よく覚えていますね! まあ、まだ漫画家と呼ぶには未熟者ですが」
二人の和やかな会話を聞き流しながら、箸で厚揚げをつつく。
「厳密には、漫画のアシスタントをさせてもらっているだけですから。自分でも漫画を描いていますが、編集者さんに認めてもらえるような作品は何も」
「いやいや、それでも凄いですよ。ねえ、お嬢さん?」
「あっ、はい」
慌てて顔を上げて、頷く。
そんな様子を見て、男性はクスクスと笑った。
「お嬢さんは漫画とか、読むのかな?」
「いえ、今は全く……」
「今は受験勉強が忙しいんですよ。この子、高三なんだって」
「あっ、なるほど。大学受験かぁ、懐かしいな」
「お客さんも受験勉強は大変でした?」
「う~ん、僕はどうだろう……。最後までちゃんとやってないから、何とも言えませんね」
「え?」
含みのある言い方に、思わず男性の顔を見ると、彼は苦笑いして言った。
「いや、実は僕、途中で受験を止めてるんだよ」
少し迷ったが、「どうしてですか?」と尋ねる。
すると、彼は少し遠い目をして語り始めた。
「僕はね、昔はやりたいことも特に無くて、とりあえずどこかの大学に受かればいいかなぁって思ってたんだ。僕の地元はここから電車で何時間もかかるような田舎で、僕はその頃、地元ではかなり優秀な学校に通わせてもらってた。だから、当然親や親戚にも期待されていたし、僕もそれなりに良い学校に行かなくちゃって思ってたんだ。だから、頑張って勉強していたんだけど、志望校とか決めるときに、どうしても偏差値以外で学校を判断することができなかったんだよね。学部とかも、良い大学の一番入りやすい学部を手当たり次第に志望校に入れて……。もちろん、大学受験での戦法としてはそれも正しいと思うし、正直高校生の段階で将来の道を一つ選べって言われても、僕以外にも困る人はいっぱいいるだろうし。でもさ、ただ単にみんなに期待されているからってだけじゃ、良い大学に入れるくらい努力するっていうのは無理だったんだよ。高三の始めくらいかな? あと一年ってなった時に、急にやる気が無くなっちゃって。休日に図書館に行くって嘘ついて、近所を散歩してたんだ。そうしたら、書店で中学生の頃好きだった漫画を見つけてさ……。それがね、久しぶりに読んだら面白くって! やっぱり、好きだなぁって思ったんだ。その時にね、あ、僕はこれを目指したいんだ、って気づいてね。そうしたら居ても立っても居られなくて、勉強そっちのけで絵の練習を始めちゃってさ」
男性はそこで一呼吸をおくと、私の方を見た。
「それからは色々と運が良くって、今はアシスタントとして働かせてもらっているけど、正直両親には本当に申し訳ないと思っているよ。あれだけお金をかけてもらったのに、結局選んだのはこんな不安定な道で。でもね、もし自分の幸せを求めるなら、僕はこれを選んで本当に良かったと思うよ」
「……」
何も答えることができずに視線を落とすと、お皿に残ったおでんのつゆに、無表情な自分の顔が映っている。
「あ、でも大学受験はした方が良いからね? 漫画家とか変なのを目指さない限り、やっぱり学歴は大事だし……。それに、漫画家とかでも学歴あったって損は無いから!」
黙っている私に不安になったのか、男性は焦ったように付け足す。
その時、電話の着信音が鳴って、男性が鞄からスマホを取り出した。
「はい、もしもし。……え、先生、そのネームは」
男性は荷物を置いたまま立ち上がり、屋台から少し離れる。
しばらくして電話を切ると、彼はおじさんにお金を渡して言った。
「先生から呼び出しがかかっちゃいました」
「お客さんも大変ですねぇ」
「ほんとですよ」
そう答えながらも、彼の笑顔は楽しそうだった。
「さっきは一人語りしてごめんね。では」
男性は私にも会釈すると、足早に屋台を去っていった。
私とおじさんの間に、沈黙が流れる。
「……あの、はんぺんももらっても良いですか?」
「もちろん」
おじさんのお皿を渡しながら考える。
私には、あの人みたいに夢中になれるくらい好きなことは無い。
本当に、大学受験なんて乗り越えられればそれで良い。
でも、このまま何となく過ごしていくのは……。
「はい、どうぞ」
再び暖かいお皿が戻ってくる。
はんぺんを小さく切り分けながら、私はそういえば、と思い出した。
昔は、ちゃんと目指したい夢があったっけ。
その時、後ろから高いヒールの音が聞こえた。
「お隣、良いでしょうか?」




