10. 2
「……なあ。やっぱりこの家は残さないか」
芽美の肩にそっと手を回していた彼が唐突に言った。
「でもこの家と土地を売らないとマンションの頭金が」
隣にいる彼は芽美の婚約者であり、あの夏、病院の周りをともに歩いた人である。
二人が婚約した直後、芽美の母が電撃的に再婚した。訊けば、相手の人からは長い間アプローチされていたのだという。「子育てがひと段落ついたから」と再婚を決意した母は、長年住み続けていたこの家を手放すことを決意した。娘夫婦の新居の頭金にしてやりたいと言って。
母はすでに再婚相手の元へと移り住み、残る退去作業は芽美が引き受けたのだが――。
「確かにこの家よりもマンションの方がお互いの勤務先に近いし、新しい。でもさ、それってこの家やこの家に刻まれた思い出を護ることよりも大切なことか?」
実はずっと考えていたんだ、と彼が言った。
「芽美のお母さんが生前相続したいって強く望んでいたから言わないようにしていたけど、本当は芽美もこの家に住み続けたいんだろう?」
「でも」
でもでもと繰り返す芽美の額に、彼が額をこつんと合わせた。
「な、俺が前に言ったことを覚えてるか? 絶対に間違ったらいけないことを見誤ったらダメだって言ったよな、俺」
その言葉を引き金に、八年前のあの夏の光景を芽美は唐突に思い出していった。
容赦なく照りつく太陽。容赦ない現実。ひたすら歩き続けた毎日。ひたすら苦しみ続けた毎日。痛くて、痛くて、胸が張り裂けそうで。でも映美と違って体はすこぶる元気で、その違いにあらためて現実を突きつけられて。また胸が苦しくなって。
「……面倒なことは全部忘れて、まっさらな気持ちで自分に問いかけてみるんだ」
柔らかく紡がれる彼の言葉に、芽美は自然と目を閉じていた。
「頭金のこともお母さんのことも、通勤にかかる時間も何もかも頭から追い出せ。……よし、いいな。じゃあ訊くぞ。この家を手放しても本当にいいのか?」
そんなの――即答だ。




