花咲か爺さん
僕にできるのは一瞬の花を咲かせること。
そう思いつつ人生を生きてきた。だってそうだろう。僕がどんなに人を愛しても、どんなに愛する人といっしょにいたいと願っても、その愛する人がどうなるかという恐怖からは逃れることができない。ただ、その恐怖から目を背ける手段は、今その人と感じるその一瞬間の花が咲くそのときを黙って受け入れるしかないのだと思う。
雨のにおいがする。君のにおいもする。甘く柑橘類を思わさせるそのにおいは、六月の寂しい雨のにおいと相まって僕の郷愁を誘い出した。
「もう終わりだと思う…。」そう君は尋ねた。
「とりあえず行ってみようか。」雨の水たまりを避けながら、二人の傘がぶつからないようにお互いが水しぶきを飛ばさないようにそっと歩いていった。やっとコンクリートのにおいのするところまできた。
六月の町の景色は傘をさす人の姿ばかり目につき、その人たちの顔までは見えない。傘、傘、傘が、染み渡る雨の中を紫陽花の花でも見るがごとく咲いている。君と僕は小さい劇場に着いた。
「まだやっている。」開いた傘を閉じた。水しぶきが飛んだ。君もあとから傘を閉じる。
演目は『花咲かじいさん』。古典のではなく現代劇にアレンジしたものである。劇場の中の人々は静まり返って、足元は連れてきた雨水でひしめきあっていた。
「こっち。」君は僕の手をそっと引くと壁際の空いたスペースに僕を連れていった。
「すみません。」と君が立ち見のお客に対してペコリと会釈して僕の手を引いていく。たばこの煙のにおいがする劇場の中で、君の柑橘系のにおいがさっと僕の鼻先をかすめていく。
「山の奥は今はもう桜の花で満開です…。」劇の台詞が聞こえてくる。暗がりが静寂を噛みしめる中で、僕と君は片方の手を互いにつないだまま台詞を聞いていた。
「咲け咲け桜よ。舞え舞え花よ。」劇はクライマックスへと誘われる。
「あの暗がりの中をあの人の道しるべとなるように。明るく照らしてくれ。」
しばしの静寂が劇場を包んだ。
「楽しかったね。」劇場前の喫茶店の中で雨に濡れた傘を隣に立てかけながら、君と僕は甘くしたコーヒーの湯気を眺めながら会話した。君は劇の感想よりも僕と同じ時間を過ごしたことを最大限に尊重しながら言葉を紡いでいた。
喫茶店を出ても六月の雨は止まずにいた。二人は今度は隣同士に傘を互いに反対側へ傾けながら同じ方向へ歩んでいく。その手はお互いに固く握りしめられていた。