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黄昏時は死にたくなる。溶け落ちる果実のように鮮やかな橙の光に包まれる時間が、物心ついた頃から真並新の苦手なものだった。
“夕方 死にたくなる”で検索すれば、日が沈んで暗くなるからとか一日が終わることに感傷的になるせいだとか色々言われていて、自分の他にもそういう人は案外いるものらしい。自分だけが特別おかしいわけでもないことには安心するが、浮き沈みする感情に左右される時間を心底めんどくさく思う。
死にたくなるトリガーは黄昏の橙色だ。燃えるような真っ赤な夕焼けや曇り空の夕刻には、とくに何の感傷もない。橙に暮れなずむ空の色を見てしまった時だけ、どうにもおかしくなる。
ビルの向こうに今まさに沈みゆこうとするオレンジの夕日をうっかり目にした途端、足がふらふらと引き寄せられる。まだ信号の変わらない、車の行き交う横断歩道へと。一歩二歩、三歩目を踏み出す前に肩にぐっと力がかかって引き留められる。
「シン」
よく聞き知った声に仕方なく振り返れば、予想通りにクラスメイトの藍川がにやにやと笑顔を浮かべていた。
「あと一分待てねーのかよ」
「うるさい」
マンションで隣同士なせいで、小学生からの腐れ縁みたいな奴だ。こいつがシンと呼ぶから、新の名前を覚えられる前にシンで定着してしまう。
藍川は茶髪に明るい目の色をした見た目も中身も派手な陽キャで、根本的に属性が違う人間だった。藍川とは惰性で連んでいるようなものだが、気づくと隣にいたりするので周囲からニコイチ扱いされがちだ。
地味顔、話し下手、成績も中ぐらい、運動神経は並以下の新とは本当に何もかも違っていて、藍川が新と連む理由は分からない。ろくに親しい友人のいない──つくれやしない──新を憐んでのことだとしたら、腹が立つ。なのでこれまで藍川の真意を確かめたことはない。かれこれ十年ほどの付き合いになるが、いつも飄々としていて掴みどころがない奴だ。
──放課後に教室で駄弁ることも、部活で学校に残ることも、誰かと一緒に帰ることもしたがらない新と、特別に親しくなろうとする奇特な人間なんて普通はいない。藍川零以外には、いなかった。
「なあ、それよりジェネシスのアプリ入れた? 昨日からだよな」
今さっき車道に飛び込み自殺を図ろうとした同級生と、それを間一髪で食い止めた人間のする会話ではない。ないけれど、新はそのまま藍川の振ってきた話に乗る。いつものことだ。
「まだ。ダウンロード待ってて寝落ちた」
ジェネシスは、新と藍川が小学生の頃に流行った大作RPGだった。それがリメイクされてスマホ版としてリリースされたのだ。藍川とはゲームや漫画の趣味だけは妙に合う。
「帰ったらやる」
「じゃ、後で行くわ。一緒に進めようぜ」
「来なくていい」
新より少し背の高い藍川が車道側を歩く。くだらない話の合間にいちいち藍川の顔を見る必要もないので、ビルの影から時折覗く橙の光ごと視界から追い出した。
家に帰る頃には日はすっかり沈んで暗くなっていた。夕方を過ぎれば死にたい気持ちはひとまず治まる。けれど夕刻に衝動的な行動に出てしまう頻度も、その内容も、年々ひどくなっている気がする。
(俺が死ぬのと、死にたくなくなるのと、どっちが先かな……)
もし本当に死んでしまえばきっと家族は悲しむし、親類から責められるようなこともあるかもしれない。自殺に選んだ場所によっては誰かを巻き込んだり、大きな迷惑をかけるかもしれない。そういうことを嫌だと今の新は思えるのに、黄昏の光を目にしてしまうと全部頭から抜け落ちて、ただ死にたい、今すぐ死ななければ、という思いに駆られる。
(……今は考えるのはやめよう)
いくら考えたって、これまでずっと新自身にもどうにもできなかったことだ。気が滅入る物思いは頭から一旦追い出して、ジェネシスのアプリを開いた。
ジェネシスは新が小学生の頃に初めて買ってもらった思い入れのあるゲームだった。発売から十何年か過ぎて尚多くのプレイヤーに愛されている名作だ。オープニングムービーやスタート画面を感慨深く眺める。
物語は、主人公と幼馴染の村が魔物に襲われて壊滅する事件から始まる。それまでろくにゲームをしたことのなかった新は、その悲しくも鮮やかな黄昏のグラフィックにひどく胸を打たれた。黄昏時に死にたくなる理由はこれに影響を受けすぎたのかもしれない。けれど今改めて観ると、スマホの小さな画面のせいか最近の発展著しい映像技術の贅沢さに慣れ過ぎたか、記憶よりもだいぶ色褪せて感じる。
(こんなもんだったかなあ)
これは藍川が来る前に飽きてしまうかもしれない。来なくていいとは言ったが、多分きっと絶対に上がり込んでくる。よそごとを考えながら、おやつをつまみながらだらだらと進めて、最初の国の王都に辿り着いて。
(え────……)
王様から主人公の剣士が勇者になれと言われるお約束のシーン、のはずだった。そこにアニメーションムービーが新しく追加されている。
一面に広がる黄昏の光を背に、バルコニーに佇む王がいる。長い銀髪を揺らして振り返る。逆光で濃く影の落ちた顔に、空と同じ黄昏色の目が嵌っているのを見た気がした。
(なんで)
震える手がスマホを取り落とす。角から床に叩きつけられて画面が割れてしまっても、その奥に黄昏を幻視する。網膜に焼きついて離れない。
(こんなのおかしい、のに)
黄昏を観たのはただのゲーム画面のはずで、窓の外は暗い夜だ。夕方の、黄昏時はもうとっくに終わっている。分かっているのにベランダへ踏み出す足が止まらない。手すりにかける手が止められない。
(はやく)
死ななければ。
高くもない外壁を足があっさり越えて、夜の中に落ちていく。
「…………ぐっ、」
腹に全身の体重がかかって息が詰まる。──腕だ。腕が回されて、後ろから抱え込まれている。そう認識した一瞬後には背後の何かごと前へ倒れて、地面の砂利が頬を擦る。痛い、と思うが、マンションで二十階下に落ちておきながら五体満足で擦り傷の痛みを感じるなんて、ありえない。
「……本気で死ぬところだったな?」
覆い被さっていた重みが退いて、横に転がったのは、藍川だった。にやりと見慣れた薄ら笑いを浮かべているが、その顔はびっしょりと汗を掻いているくせに青褪めている。「バカ新」と咳き込みながら呟いた。
記憶にある限りで、“あらた”と正しく呼ばれたのはほとんど初めてだった。何回「シンはやめろ」と言っても聞かなかったのに、今になって。
「藍……川……?」
相手の背に揺れた蝙蝠の皮膜のような黒い羽が信じがたくて、ただ名前を呼ぶ。明るい茶髪も明るい色の瞳も、整った顔立ちのくせにいつもどこか皮肉げに笑う薄い口元も、よく見知った幼馴染のものであるのに。天を仰いだままの横顔はひどく大人びていて、別人のように思えた。地面に力なく広がっていた羽は風に攫われて消えていく。
「……あーあ。まったく、めんどくさいやつに育ったもんだ……」
ようやく喋ったかと思えば心底面倒くさそうにぼやくものだから、異様な状況も忘れてつい「お前に育てられた覚えないけど」と言い返す。新が立ち上がっても藍川は大の字に寝転がったままだ。
「……お前、助けてくれたのか」
その羽?で。聞く前に、ざざ、とひどい音が走る。風の音などではない。頭の中で直接擦れるようなノイズに鳥肌が立つ。
『……観測者、……アインとシンを捕捉。接続──強制解除』
更にはアナウンスめいた音声までも途切れ途切れに聞こえてくる。
「…………あーあぁ」
ゲームオーバーを嘆くのと同じ調子で、藍川がもう一度ため息をついた。
「見つかっちまった」
口の端を歪める。何も面白くないくせに形だけ笑ってみせる藍川の悪い癖だと、新は知っている。
「なあ。……死ぬなよ」
藍川にそう言われたのはこれが初めてだった。
黄昏のせいで死にたくなるだなんて話は親にも誰にも、藍川にもしたことはない。自分にだって理解できない。黄昏のたびに衝動的に死のうとする新を、藍川はいつも行動で止めてきた。理由を訊かれることも、言葉でやめろと言われたこともなかった。言葉にできない、新自身にもままならない衝動を、もっと早く言葉で咎められていたら、藍川のことを遠慮なく嫌えていた。遠ざけていた。けれど強制する響きではなく、願う声だった。ただ祈る言葉だった。
耳鳴りがひどくなって、視界にも砂嵐が走り始める。ぶつんと何かが、意識が切断された。