悪役令嬢の心が叫びたがってるんだ
性懲りも無く連載版始めました↓
『【超連載版】されど悪役令嬢はタヌキに愚痴る』
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「アルシェラ・アルタミラーナ公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄させてもらう!」
居並んだ令息・令嬢たちがどよめいた。
卒業パーティの席上。
王太子であるロランはそう宣言した。
一方――婚約破棄を宣言されたアルシェラは、静かにその宣言を聞いていた。
突然のことに狼狽するでもなく。
何故、と慟哭するでもなく。
その目は王太子の灰色の瞳を静かに見つめていた。
その超然とした態度が気に食わなかったのだろう。
ロラン王子は更に言った。
「アルシェラ、貴様がここにいるフィオナ・サリバンを階段から突き落として大怪我させた罪、私が然とこの目で見ていたのだ!」
会場にあからさまな動揺が走った。
まさか、とか、信じられない、という観客の声がアルシェラの耳にも聞こえてくる。
卒業パーティのひと月前。
フィオナが階段から転落し、大怪我を負ったのは事実である。
だが、アルシェラが彼女を突き落としたという事実はない。
フィオナは勝手に階段から落ちた、それが真実である。
アルシェラは、たまたま同じ現場に居合わせた人間の一人と言うだけだ。
だがそれを故意の事故に仕立て上げ、その罪をアルシェラに被せるとは――これは確かに、少しだけ予想外のことであった。
この学院にいた二年間。
どう考えても二人の間にかわされた婚約は形骸化していた。
理由はたったひとつ、この学院でロラン王子が別の女性に惹かれ始めたからだ。
フィオナ・サリバン。
非常に稀な時の魔法の才を見込まれ、特例でこの学院に入学してきた平民の少女。
ゆくゆくは時の聖女として、王都に招聘されるべき力を持った少女だった。
世間ずれしていない田舎少女の初々しさは、ロラン王子の歓心を殊更に買っていたらしい。
王子と彼女が互いに過ごす時間が増えれば増えるほど。
王子は露骨にアルシェラを邪険に扱い始めた。
そしてこのパーティの席上で、そのフィオナの肩を抱きながらの婚約破棄。
そこからの、でっちあげの罪での断罪。
自分の意にそぐわなくなった人間を体よく切り捨てるための茶番劇。
如何にもロラン王子らしい、狡知のシナリオだった。
「貴様のような悪女がこの私の妃などとは笑わせてくれる。貴様は今日限りで国外追放とする! 私の新たな婚約者は、ここにいるフィオナ・サリバンだ!」
アルシェラは何か反論しようとした。
だが、この空間では、何故か自分は一言も発することが出来ない。
酸欠の金魚のように口を開けては見るが、あ、とも、お、とも発音することが出来ない。
白い目の集中砲火。
王子の語る、あの迫力ある階段落ち事故の「真実」には、妙な説得力があったのも事実だろう。
あのアルシェラが。
あのアルタミラーナの令嬢が。
平民の少女を妬んで大怪我を負わせた。
真実か虚実かは一顧だにされず。
それはスキャンダラスな響きを持って各人に理解される。
かたやこの国最大の有力貴族であるアルタミラーナの令嬢。
かたや誰からも愛された、無力で罪のない平民の少女――。
もはや何を抗弁しても、他ならぬ王子の断罪である。
この場に自分の味方になってくれる人間などいないだろう。
何故声を上げられないの――。
怒りと悲しみで堪らず、アルシェラは、会場を後にする一歩を踏み出した。
待て! という恫喝の声が聞こえてきたが、もう相手にするつもりはなかった。
本当に、なんで自分はあんな男と婚約などしたのか――。
莫大な疲労感と、反論も抗弁も出来ぬ悔しさだけを胸に、アルシェラは式場のドアに手を掛け、一息に開け放った。
◆
はっ、と、アルシェラは目を開けた。
「またあの夢……?」
そうひとりごちてみると、声が出た。
どうやら自分は現実に戻ってきたらしい。
否、アルシェラは、命からがら現実世界に逃げ帰ったのだ。
思わず額に手をやると、冷や汗に濡れていた。
この夢を見るようになってから、もう一月にもなろうか。
毎夜毎夜繰り返される夢の舞台は学園の卒業式だ。
そこでアルシェラは婚約者であるロラン王子から婚約破棄を告げられ、そして覚えのない罪で断罪される――。
反論しようと声を出そうとするが、まるで声帯に封印を掛けられたように、声が出ない。
反論できぬこちらを見て、ロラン王子はますます調子に乗り、こちらを国外追放にすると宣言する。
筋書きはいつも変わらない。
自分が、婚約者に裏切られる未来である。
否――。
これは果たして夢なのだろうか。
頬に感じる人混みの空気も、音も、匂いも。
全てがあまりにもリアルすぎる。
まるで寝ている間だけ、自分の意識が未来のその瞬間に飛ばされているかのようだ。
アルシェラは、ベッドの上で壁に欠けた暦を見た。
学院の卒業パーティは一週間後の8月31日だ。
「私、ロラン王子に裏切られるのね――」
アルシェラは再びひとりごちた。
夢などではない。
これはおそらく――自分の未来なのだ。
だが、どうしてこんな夢を見る?
誰が見せている夢だ?
この夢を見せている何者かは何故、夢の中で私に反論を赦さない?
アルシェラはため息をついた。
◆
「アルシェラ・アルタミラーナ公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄させてもらう!」
アルシェラは顔を上げた。
そこにあったのは、やはりいつもと変わらない、王子の冷たい視線だった。
相変わらず同じトーンで聞こえてくる観客のざわめきも。
きらびやかに飾り付けられた卒業パーティの会場も。
シャンデリアに照らし出されて床に伸びる自分の影さえも。
前回と、全く一緒だった。
一応、声を出そうとしてみるが、やはりどんなに気張っても声は出ない。
ほう、と、アルシェラは嘆息した。
運命の神は、どうやっても私を手放す気がないらしい。
「アルシェラ、貴様がここにいるフィオナ・サリバンを階段から突き落として大怪我させた罪、私が然とこの目で見ていたのだ!」
だが――。
アルシェラはロラン王子の顔を見た。
一言も反論しないまま、終わるつもりはない。
婚約者を捨てて新たに婚約する人でなしに、このまま一方的に断罪されるつもりはなかった。
(もう、アンタの好きにはさせない――)
もはや王子の言葉には関心を示さず、アルシェラは固唾を呑んで事態を見守っているギャラリーを見渡した。
この中の誰かが時間を巻き戻しているのか?
それとも全く関係ない誰かの差し金なのか?
とにかく、それを確かめる必要があった。
「貴様――! どこを見ている!? 私を無視するつもりか!」
ロラン王子が顔を真っ赤にして怒鳴った。
その様を見ても、ロラン王子がこれを夢の中の光景だと気づいている様子はない。
となれば、ロラン王子はとりあえず無視していてもいい存在ということになる。
こちらを注視する全員が、あまりに不遜なアルシェラの態度に戸惑いの目を隠さない。
仮にも相手は王子なのに……と咎める視線をまるきり無視して探していると、アルシェラの目がある男子生徒に留まった。
これは一体どういうことだ?
何故こんな事になっている?
いったい自分はどうしてしまったのだろう――?
顔を青くし、おろおろと虚空を泳ぐ視線。
先程のアルシェラと同じように、動揺を隠さないその挙動不審さ。
如何にも気弱そうな顔つきと、背が低くてやせっぽちな金髪頭。
そして小脇に抱えられた、大判の帳面。
(彼は確か――)
アルシェラはしばらく頭の中の人物ファイルを検索した。
あれは確か――ギュンター・アイスバインだ。
南の小さな島を治める貧乏子爵の倅で、背伸びに背伸びをしてこの学園に入学してきた田舎貴族である。
如何にこの学園内では身分の上下を口にすることが厳禁であっても、そこは血筋がすべてを決める貴族社会の縮図である。
畢竟、そこまで露骨ではないものの、必然的に彼が他の男子学生の子分というか、パシリ的な扱いをされていたことは知っていた。
当然、この国最大の有力貴族・アルタミラーナ家令嬢であるアルシェラと接点はなく、会話したこともない、うだつの上がらない令息である。
彼が頼りなさげに見えるのは、もうひとつ理由があった。
彼は言葉を発する事ができない――。
アルシェラはその噂を聞いていた。
何でも、昔のとある事故がきっかけで、ギュンターは人に心を閉ざしてしまったという。
それ以来、彼は生活に必要な会話を、全て筆談でやっているという話は聞いていた。
雄弁であることがすなわち有能さの指標である貴族の男子にとって、筆談しかできないという困難――。
それはアルシェラにも容易に想像がついた。
(なんだか、一番頼りなさそうな人間がヒットしたわね――)
アルシェラは心中で嘆いたが、味方は一人でも多いほうがいい。
アルシェラが咳払いをすると、はっとギュンターがこちらを見た。
どういう風にしようか迷ってから、結局、アルシェラはウインクしてみせた。
あなたも気づいてるんでしょう?
そう指摘したつもりの、全身全霊のウインクであった。
面白いぐらいにギュンターが反応を見せた。
あ、とギュンターは口をまん丸く開け、小さく震え出した。
君もか。
ギュンターの目がそう言っていた。
これさえわかれば、後は仕掛けるだけだ。
アルシェラはツカツカと会場の出口へと向かった。
このドアから出ればこの夢は醒めるのだ。
「アルシェラ……! 貴様、どこへ行く!」
完全に無視されたロラン王子は地団駄を踏みそうなほどに怒り狂っている。
ちら、と、アルシェラは目だけでロラン王子を振り返った。
――ロラン王子、あなたの茶番劇がいつまでも続くと思わないで。
その意志が伝わったのか、そうでないのか。
ぎょっ――と、ロラン王子が目を見開いたように見えた。
反撃開始よ――。
アルシェラは会場の出口を一息に開け放った。
◆
「ギュンター様、今ちょっとお時間いいかしら?」
卒業式を三日後に控えた放課後。
人気のない学院の廊下でアルシェラが話しかけると、ぎょっとギュンターが振り返った。
その顔が、まるで亡霊を見たかのような表情になった。
あ、あう、と、あえぐように声を上げ、ギュンターはスケッチブックを開いた。
そして震える手で、何かをさらさらと書き始めた。
『僕は言葉を話すことが出来ません』
小さく、震えた文字だった。
アルシェラは頷いた。
「知ってるわ。ギュンター様。私は貴方と話したい――先に訊いておきますが、なにについてのことかわかりますか?」
そう言うと、ギュンターの顔が怯えたよう下を向いた。
ギュンターは再びスケッチブックにペンを押し付けた。
随分迷ったような仕草の後。
示されたスケッチブックにはこう書かれた。
『夢のことですか?』
やはり、私以外にもあの夢を見ている人がいたのか――。
アルシェラが大きく頷くと、ギュンターは安心したような驚いたような、複雑な表情を浮かべた。
◆
「お願いよ、ギュンター。私に協力して」
学院の裏庭にあるベンチに座りながら、アルシェラは潜めた声でギュンターと会話した。
「ギュンター、あなたもあの夢を見ていた――ううん、あなたも同じ空間にいたのよ。私が三日後の卒業パーティで婚約を破棄される、あの空間によ」
ギュンターは俯きがちに頷いた。
とりあえず、彼もあれが夢などではないとわかっていたらしい。
僕は何をすればいい?
ギュンターの目が問うてきた。
アルシェラは言った。
「私とあなたで、ロラン王子の顔を潰すのよ。もう二度と盛り上がらないぐらい、完璧にね」
その一言に、ギュンターはぶんぶんと首を振った。
そんなことできるはずがない、その表情が全力でそう主張していた。
「落ち着いてギュンター。何もあいつの顔を蹴っ飛ばせって言いたいわけじゃないわ。私の名誉を回復して、アイツが嘘をついてるって証明するの」
アルシェラは言った。
「あなたも夢の中で王子の話を聞いてたんでしょう? でも私、フィオナを階段から突き落としたりしてないわ。確かに同じ場には居合わせた。ただ、それは偶然よ。天に誓って私はそんなことはしてないわ」
その声に、ギュンターが顔色を変えた。
その視線がどこかへと泳いで、ギュンターはまるで死にかけの病人のように浅い呼吸を繰り返した。
アルシェラはギュンターの服の裾を掴み、必死に説得した。
「お願いギュンター、信じて! あいつ、さっき私を国外追放にするって言ったのよ! 最悪私だけが国外追放になるだけだったらまだいいわ、でも他の貴族の前で面目を潰されたアルタミラーナ公爵家と王家は深刻に対立する! 下手すれば内戦になりかねないのよ!」
そう言っても、ギュンターの視線は虚空を見たままだ。
アルシェラは必死に懇願した。
「私を信じて! 頼れるのはあなただけなの! 私はフィオナを――!」
その時だった。
ギュンターの目が、アルシェラを見た。
待ってくれ、その目がそう言っていた。
アルシェラはギュンターの袖から手を離した。
ギュンターがスケッチブックを取り上げ、さらさらと書いて示した。
『知っています。貴方はフィオナに何もしていない。僕も見ました』
えっ? とアルシェラは声を上げた。
ギュンターは脂汗をかきながら、スケッチブックの一点を睨んでいる。
「知ってる、って――」
『僕もあの場所にいました。貴方は階段の下にいました』
「え、えぇ。そうよ。私は彼女を突き落とせるわけがない。じゃあ一体誰が?」
ペン先を紙面に押し付けたままのギュンターの手が震えた。
ギュンターは、ああ、とか、うう、という、迷ったような唸り声を上げた。
随分迷った素振りを見せた挙げ句、ギュンターは驚愕の一言を走り書きした。
『フィオナを階段から突き落としたのはロラン王子です』
その一言に、アルシェラは目を見開いた。
ギュンターは青い顔でアルシェラに頷いた。
『あの日、ロラン王子はフィオナと口論していました。僕には、ロラン王子が一方的にフィオナをなじっているように見えました』
ごくっ、と、アルシェラは唾を飲み込んだ。
『激高したロラン王子が思い切りフィオナを突き飛ばしました。フィオナは階段から落ちて、大怪我を負いました』
ギュンターは歯を食いしばりながらペンを走らせる。
まるでそれを止められなかった自分を恥じるように。
『王子は、今起こったことを誰かに喋ってみろ、どうなるかわかるな、と僕に言いました』
アルシェラは絶句した。
あのクズ、どこまで人でなしなんだ――。
アルシェラは怒りを通り越して、王子の本性に寒気すら覚えた。
しかも相手は時の魔力を持つ少女である。
その力はこの王国によって手厚く庇護されるべき力なのだ。
それを階段から突き落とすなど――考えられもしないことだ。
単なる殺人未遂であるだけでなく、それはこの国のあり方の根幹を揺るがしかねない、重大な国家反逆行為であるはずだった。
「それで、あなたはそれを黙っていたの? 何故?」
アルシェラが咎めるように言うと、汗だくのギュンターがアルシェラを見た。
その瞳に、激しい怒りと深い失望が渦巻いていた。
あっ、とアルシェラが息を呑むと、ギュンターはまた文字を書いた。
『僕は言葉を話すことが出来ないから』
その一文に、アルシェラは軽率にギュンターを責めた自分を恥じた。
声を上げられない――それが彼にとってどれだけ苦痛なのか。
雄弁が一種のステータスである貴族社会にとって、それがどれだけ悔しく、息苦しいことか。
アルシェラにもそれは痛いほどわかっていたはずなのに。
『僕の家は貧乏です。王子に睨まれれば僕の両親も只では済まない。黙っているしかありませんでした』
しばし、アルシェラはギュンターの置かれた立場に深く同情した。
真実を知っていても、それを声に出せない弱さ。
強いものに一方的にねじ伏せられる悔しさ。
弱いものが一方的に搾取され、踏み潰される悲しさ。
立場の違いはあれど、ギュンターとアルシェラの置かれた立場は一緒だった。
アルシェラは、ギュンターの手に自分の手を添えた。
ギュンターが不思議そうにアルシェラを見た。
「ギュンター、私、やっぱり許せないわ」
アルシェラは決然と言った。
「あの王子、自分は王子だから何をやってもいいって思ってる。それが当然だって、自分より弱いものはどうしたって構わないって思ってる。でも私――そんなの絶対に認めない」
アルシェラはぎゅっとギュンターの手を握った。
「お願い、声を上げてちょうだい。私たちだってやられっぱなしじゃないんだぞって、そう言わなきゃダメよ。私は無実だって、この国の王子が時の聖女を殺そうとしたって、卒業パーティでそう証言して!」
身体を揺さぶりながらアルシェラが言うと、ギュンターは激しく頭を振った。
うう、うう、と、その喉から絞り出される唸り声が激しい拒絶の色を帯びた。
そんなことできない。
できるはずがない。
見ていて気の毒なほどに、ギュンターは全力でアルシェラの説得を拒絶した。
「ギュンター……!」
ギュンターは逃げるように立ち上がり、走り出した。
その背中を、アルシェラは絶望の視線で追いかけるしかなかった。
◆
激しく燃える炎の輻射熱が頬を焼いた。
我に返ったアルシェラは驚愕した。
なんだ、ここは――一体どこだ?
慌てて周囲を見ると、自分は燃え盛る業火の中にいた。
炎は既に天井まで焦がし始め、周囲の形あるものはほとんど全てに火の手が回っている。
(どういうこと? 今日は卒業パーティの夢じゃないの?)
アルシェラがそう思ったときだった。
メリメリ……という音とともに、柱が火の粉を巻き上げて目の前に倒れ込んだ。
その火の熱さと、巻き上がる煙に顔を背けた。
とにかく、ここから出なければ。
アルシェラが床を這い始めた、その時だった。
「助けて! 誰か助けて!」
不意に――。
少年の声が聞こえて、アルシェラは声のした方を見た。
「誰か――僕の妹を助けて! お願いだよ! 誰か来て!」
五歳くらいの少年だった。
少年は倒れてきた本棚の隙間に両手を差し込み、必死になって持ち上げようとしている。
その本棚の下敷きになり、額から血を流して失神しているのは――どうやら彼の妹らしかった。
「ナミラ、頑張れ! お兄ちゃんが助けてやるぞ!」
その癖の強い金髪と、青い瞳に見覚えがあった。
ギュンター――?
声をかけようとしたが、やはり声が出なかった。
煤に塗れた頬に涙を流しながら。
幼いギュンターは魂が張り裂けそうな悲鳴を上げた。
「お願いだよ! 誰か――僕の妹を助けて! 僕は死んでもいいんだ! ナミラを助けてよっ! 誰か僕の頼みを聞いて! 誰か――誰か来て!」
聞くに堪えない悲鳴だった。
思わずアルシェラは立ち上がり、少年の肩を抱いた。
はっ、と、ギュンターがアルシェラを見た。
大丈夫よ、と表情だけで伝えながら、アルシェラは本棚を持ち上げようとした。
だが、本棚はまるで床に張り付いているかのように持ち上がることはなかった。
如何に女の力といえど、この程度の家具を動かせぬはずがないのに。
何度全身に力を込めても、少女を押しつぶしたままの本棚は少しも持ち上がる気配がない。
やがてアルシェラの見ている目の前で、本棚そのものに火が周り始めた。
「ナミラ! ナミラ、あぁ――!」
ギュンターが悲鳴を上げた。
アルシェラは半狂乱で本棚に組み付いた。
本棚に回った火が、アルシェラの両手を焦がし始める。
その痛みも苦痛も無視して、アルシェラは声なき声で絶叫した。
どうして、どうしていつも結末が変わらない!?
これはきっと過去のこと、ギュンターの記憶なんだろう。
過去は変えることが出来ない、それぐらい私にもわかる。
でも、これは夢だ。夢なら結末は変わるはずなんだ。
私にしつこくこんな夢を見せているんだ、少しはいい夢に変えてよ……!
アルシェラはこの夢を見せている何者かを痛罵した。
だが、その願いが聞き届けられることは――遂になかった。
本棚は、その下敷きになった少女ごと、アルシェラの目の前で炎に包まれていった。
もうどうしようもなかった。
アルシェラは本棚から手を離し、暴れるギュンターを本棚から引き剥がした。
ギュンターを抱き締め、その光景を見せないようにするしかなった。
バリバリ! と、一際の轟音が鳴って、天井が崩れた。
凄まじい量の火の粉を巻き上げながら。
本棚は燃え盛る大量の瓦礫の下敷きになった。
「ナミラ! ナミラ――――――――――――――――――っ!!」
ギュンターの悲鳴が耳をつんざいた。
◆
はっ、と、アルシェラは目を開けた。
ここは現実だ――また、戻ってきたのか。
ギュンターが声を失った原因。
その理由の全てを――今の夢で見た気がした。
寝間着のまま、アルシェラはベッドから跳ね起きた。
自分は、一体なんてことを――。
あんなに壮絶な体験をしたギュンターに、自分は一体何を頼ろうとしていたのか。
ギュンターは自らの声とともに、あのつらい過去をも封印していたのだ。
あろうことか、自分はその記憶を突き、抉り、声を上げろと言ってしまった。
謝らなければ――。
後先考えず、アルシェラは慌てて自室のドアを開け放った。
開け放ったそこに――。
誰かが立っていた。
思わず後ずさってから、アルシェラは呆然と呟いた。
「ギュンター……?」
やはり寝間着姿で、裸足のギュンターが、そこに立っていた。
ギュンターは下を向いたまま、スケッチブックを両手で握り締め、肩を震わせていた。
やはり、彼も――。
今の辛い記憶の夢を見たのだ。
「ギュンター……ごめんなさい。私、あなたのことを何も知らなかった。それなのにあんな事を言って……私は……」
アルシェラがそう言うと、ギュンターは強く頭を振った。
そんな事が言いたいわけじゃない。
真っ赤になった瞳がそう言っていた。
戸惑う視線で応じると、ギュンターがスケッチブックに文字を書いた。
『君はナミラを助けようとしてくれました』
アルシェラは絶句した。
ギュンターはスケッチブックをめくり、また文字を書いた。
『僕はあのとき、人生で一番聞いて欲しかった声を、誰にも聞いてもらうことが出来ませんでした』
小さく、震えた文字。
彼の心に刻まれた傷を思わせる文字だった。
思わず、アルシェラの視界が白くぼやけた。
『僕のあのときの声が初めて誰かに届いた気がしました』
あまりに孤独で、あまりに壮絶な一言だった。
アルシェラは声を震わせてギュンターに語りかけた。
「大丈夫、貴方の声は私が聞いてる。私には届いたわ」
ギュンターが、静かに嗚咽を漏らし始めた。
どれだけ時間が経っただろう。
ギュンターは服の袖で乱暴に顔を拭い、スケッチブックに大きく文字を書いた。
『卒業パーティで僕は声を上げます。君と一緒なら、僕は声を上げることが出来ます。僕もロラン王子と戦います』
◆
「アルシェラ・アルタミラーナ公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄させてもらう!」
居並んだ令息・令嬢たちがどよめいた。
アルシェラはロラン王子の顔を無言で見つめた。
ロランは更に言った。
「アルシェラ、貴様がここにいる時の聖女フィオナ・サリバンを階段から突き落として大怪我させた罪、私が然とこの目で見ていたのだ!」
会場にあからさまに衝撃が走った。
白い目の集中砲火に晒されても、アルシェラは逸らさないと決めた目でロランを睨み続けた。
ざわめきが治まりかけても、アルシェラは無言だった。
なんの反応もせずにいるアルシェラの態度をどう捉えたのか、ロランは明らかに勝ち誇ったような顔で言った。
「ふん、ぐうの音も出ないか、悪女め。やはり貴様は私に相応しい女ではなかったようだな? ゆくゆくは私もあのように階段から突き落とすつもりだったのか?」
本当に、私は、なんでこんな男と――。
ハァ、とため息をついて、アルシェラは両手で自分の肘を抱き、最初のカードを切った。
「ロラン王子、今おっしゃったことは本心からの言葉ですね?」
その言葉に、ロランは片眉を上げた。
「私の言葉を疑うのか? 他ならぬ、私が見ていたのだ。貴様の罪が冤罪であるとでも?」
自信満々の声だった。
自分が黒といえば白いものも黒になる、そう疑ってもいない声だった。
アルシェラは次に、ロランに肩を抱かれているフィオナを見た。
「フィオナ・サリバン。もちろん、あなたも真実は知っているのよね?」
その一言に、フィオナの顔が引きつった。
だがその動揺はすぐに消え、代わりに唇を真一文字に引き、視線を下に落とした。
その表情に見えたのは、意外にも恐怖の感情だった。
決して感づかれてはいけない、という恐怖。
自分だけが我慢していればいい、という諦念。
その重圧が肩に伸し掛かっているかのような――どこにも幸せなどなさそうな表情。
なるほど、そういうことか――。
女の勘が働き、アルシェラは眉をひそめた。
彼女も――被害者なのか。
ロラン王子は、さも当然というようにフィオナの肩を抱いたままだ。
優しさでも、愛情でもない。
白手袋を嵌めたロラン王子の手は、ただただ歪んだ支配欲だけを主張して、がっちりとフィオナの肩に食い込んでいる。
キッ、と王子を睨みつけ、アルシェラは低い声で面罵した。
「本当にあなたって――この世のどこ探しても見つけられないぐらいの、最ッ低の男よ!」
会場内の空気が凍りついた。
如何に有力貴族と言えど、王子に向かって吐いていい罵倒ではなかった。
案の定、ロラン王子の顔は赤黒くなるほど紅潮した。
「貴様ァ――! 黙って言わせておけば、この悪女めが! 私の言うことが訊けないのか!」
「そう、それは貴方の本性よ。あなたはそう言って誰でも支配してきたんでしょう?」
アルシェラは冷徹に言い放った。
「そうやって、誰彼構わず利用して、支配して、使い捨てて――。言ってやるわ、アンタみたいなクズに、金輪際従うやつなんかいないってことをね」
「何をバカなことを――!」
王子はフィオナを突き飛ばすように腕を離し、怒りに震えてアルシェラを見た。
「もう許さないぞ、アルシェラ! 国外追放程度で赦してやろうとしたが、取り消しだ! 国家反逆罪で断頭台に送ってやる! 覚悟はよいか!」
「私が国家反逆? その罪で断頭台に送られるのは誰かしらね――ギュンター!」
アルシェラが鋭く叫ぶと、会場が水を打ったように静かになった。
おずおずと集団から進み出てきたギュンターが、ぐっ、と青い顔で唸った。
脂汗にしとどに濡れた顔のまま。
ギュンターの喉仏が、嘔吐を我慢しているかのようにせわしなく上下する。
進み出てきたギュンターを睥睨して、ロラン王子が呆れたような笑みを浮かべた。
「誰が出てくるかと思えば――」
鼻白むように言って、ロラン王子は言った。
「貴様はアイスバイン子爵の令息だな? 貴様などお呼びでないぞ、下がれ」
威圧的な言葉ととともに、ロランの視線が冷たさを増した。
ギュンターは、震える手でスケッチブックをめくった。
太いペン先が、紙面とこすれる音がやけに大きく聞こえた気がした。
しばらくして、ギュンターはスケッチブックを高く掲げた。
『証言します。僕はロラン王子がフィオナを階段から突き落とすところを見ました』
その時に聞こえた、嘲るようなため息――。
それはアルシェラの予想を裏切る反応だった。
一体何を言い出すのだ? というような、白けた視線がギュンターに集中した。
場の空気が圧倒的に有利になったのを察したのだろう。
ロラン王子がからからと大勝した。
「なんだそれは? 私が、彼女を階段から突き落とした? 面白い、続けてみろ、できるものならな?」
挑みかかるようなその一言と共に、ギュンターの顔がますます引きつった。
爪が食い込むほどに握り締められた拳が震える。
その視線から逃げるように、ギュンターはスケッチブックをめくって。
ギュンターは、紙面にペン先を押し付けたまま沈黙した。
ニ、三度、酸欠の金魚のように口が開いたものの、その口から言葉が発せられることはなかった。
――お願いよギュンター、声を上げて!
懇願の視線を送るアルシェラを見て、ロラン王子は低く嘲笑した。
「アルシェラ、貴様はよくよく無様な人間だな。弁明に事欠いてそんな木偶の坊を引っ張ってくるとはな――恥を知れ、としか言いようがないぞ」
ロラン王子は実に愉快そうに笑った。
「もうよい、下がれ、アイスバイン卿。今の行為はなかったことにしてやる――その代わりアルシェラ、貴様の罪はまた重くなった」
笑みを引っ込めて、ロラン王子はギュンターを顎でしゃくった。
「こんな情けない男をどうやって籠絡したんだ、ん? その手練手管には脱帽する他無いが――それにしても人選を誤ったとは思わなかったか? 証人として連れてくるならせめて声あるものにせよ。そんな唖者の妄言など、誰に届くというのだ」
アルシェラはロラン王子を睨みつけた。
人でなしにギュンターをバカにされる謂れはない。
アンタのでまかせや嘘がたとえ百万人に届いたとしても。
私だけは彼の声を聞いている。
アンタの百億万の嘘よりも、ギュンターの声のほうが絶対に人の心に届く。
この断罪の場で、絶対にそれをわからせてやる――!
「……悪魔め」
その、瞬間だった。
会場に誰かの声が聞こえて、アルシェラだけでなく、ロラン王子も虚空を見上げた。
「ん? 誰だ――? 誰が言った!?」
ロラン王子が眉間に皺を寄せて声を上げた、その瞬間だった。
「彼女を――アルシェラをバカにするな、この悪魔めっ!!」
突如、凄まじい声でギュンターが叫んだ。
居並んだ観客たちどころか、アルシェラさえ息を呑む声量だった。
「な、貴様――!?」
ロラン王子が顔をひきつらせた。
ギュンターはスケッチブックを床に叩きつけた。
怒りの塊になったギュンターが、一歩後ずさったロラン王子をギリリと睨みつけた。
「ぼ――僕は、僕は見ていたぞ! ロラン王子! お前が、お前がフィオナを階段から突き落とした! 彼女をなじって、殴って、思い切り突き飛ばして――アルシェラじゃない、お前がフィオナを殺そうとしたんだ!」
「な、何を……!」
ロラン王子の動揺は、動かぬ証拠を突きつけられたことによるものだけではなかっただろう。
ロラン王子は――間違いなくギュンターの上げた声の気迫に気圧されていた。
「この人殺し! それからお前は僕に言ったんだ! 今のことを喋ればどうなるかわかるよな、お前がアイスバイン家を滅ぼすことになるぞって――! お前は悪魔だ! 人の皮を被った悪魔だっ!」
その一言に、会場にいた令息令嬢たちが息を呑んだ。
どよめく衆目が一斉にロラン王子を見た。
その視線に気圧されるようにして王子がまた後ずさった時。
ギュンターがその背後に立っているフィオナに言った。
「フィオナ! 本当のことを言えっ!」
既に涙すら流しながら、ギュンターはフィオナを思い切り恫喝した。
「僕は何回も見たぞ! 君がロラン王子に殴られているところを! あんなに気絶するほどに殴られて、蹴られて……! 本当はここにいるみんなが見ていたはずだ! なのに、なのに僕たちは、声を上げなかった……!」
ギュンターの悔悟の言葉に、事態を見守っていた観客たちの何人かが下を向いた。
彼らも――声を上げずにいた人間なのか。
ギュンターの突然の反証に、ロラン王子はあからさまに狼狽しだした。
「貴様……! 王子に向かってこれ以上の狼藉は……!」
「アルシェラは悪女なんかじゃない! 僕の手を取って、悔しくないのかって、声を上げろって、そう言ってくれたぞ! フィオナ、今度は君の番だ! 声を上げるんだ! 僕が、僕たちが聞いてやるッ! 今ここですべてを言うんだ!」
階段の上で、フィオナがはっきりと震え出した。
口に両手を当て、まるでそこから出てきそうな言葉を押し留めようとするかのように。
「フィオナ……!?」
ロラン王子が、明らかに動揺したような表情で振り返った。
「フィオナ……君は僕を裏切らない、そうだろう?」
奇妙な一言だった。
ロラン王子が、フィオナの両肩を抱いた。
まるで上から見えない蓋を押し付けるように。
「フィオナ! あなたはどうしたいの!」
アルシェラはフィオナに言った。
「あなた、本当は誰かに助けてほしかったんじゃないの!? だから私たちにあんな夢を見せていた、そうでしょう!?」
その言葉に、ギュンターがはっとこちらを向いた。
答えはそれしかない。
アルシェラは確信していた。
アルシェラとギュンターだけが同じ夢を見続けていた、その理由。
フィオナが持つ時空操作の魔法。
時間を早めたり、巻き戻したりする、その想像を絶する力――。
それが全ての始まりだったとしたら。
声が上げられない彼女が、それでも上げようとした無意識の悲鳴が、あの夢なら。
「さぁ、ギュンターも、私も声を上げたのよ! 今度はあなたの番! 勇気を出して言いなさい!」
アルシェラが、そう言った瞬間だった。
フィオナが、自身の両肩に置かれたロラン王子の手を振り払った。
「フィオナ――?」
フィオナは、無言でドレスの袖を捲くり上げた。
痣、痣、痣、痣――。
無数の青黒い痣が、フィオナの右腕を変色させていた。
そのあまりの痛ましさに、会場の令嬢たちの何人かが悲鳴を上げた。
その想像を絶する苦痛の証拠に――アルシェラは思わず目を背けた。
「こんな身体だから――裾の長いドレスで誤魔化すしかなかった」
フィオナが涙を浮かべてロラン王子を睨んだ。
「あんたが母の治療費を出してくれるっていうから、殴られてやってた。あんたが欲しかったのは時の力を持つ女を妃にしたっていう名声でしょう? でも、それは間違いだった。私がいくら殴られても――母は喜ばない」
「フィオナ――!」
「あんたみたいな悪魔の婚約者になんか――誰がなるもんですか」
涙にかすれた声で。
だがはっきりと、フィオナが言った。
その一言がきっかけだった。
ロラン王子の顔から、すっ――と、すべての感情が抜け落ちたように見えた。
「そうか――」
たった一言だけ、ロラン王子が言った。
次の瞬間だった。
肉を打つ音と共に、フィオナが壁まで吹き飛んだ。
強かに打ち据えられたフィオナの鼻から信じられない勢いで鮮血が吹きこぼれ、白いドレスにぼたぼたと滴った。
「ならば、もう顔を殴ってもいいんだな?」
なんてやつ――! アルシェラは瞠目した。
「衛兵、王子は乱心よ! 取り押さえて!」
アルシェラのその声に、今まで行く末を見守っていた衛兵たちが弾かれたように走り出した。
「フィオナ、逃げなさい!」
その声に、フィオナが床を這いつくばって逃げ出した。
大股で歩み寄りながら、ロラン王子がその顔に向かって鋭い蹴りを放つ。
頭を下げ、既のところでそれを躱したフィオナに、ロラン王子が言った。
「全く、平民の分際で王子に恥をかかせるとはな。もういい――反抗できなくなるまで躾けてやろう」
一切の感情が抜け落ちた、蝋人形のような顔と声だった。
ロラン王子が右拳を振り上げた、その途端だった。
「うわああああああッ!!」
いつの間に階段を駆け上がったのか。
怒声と共に、ギュンターがロラン王子に飛びかかった。
振り上げた拳に両手で抱きつき、必死になってロランに組み付いた。
「きっ、貴様! 下郎の分際で――!」
「フィオナ、逃げろ! こいつは僕が押さえる!」
フィオナは這いつくばって、ロラン王子から逃げ始めた。
ロラン王子が力任せにギュンターを振りほどいた。
「退け、小者が!」
ロラン王子が右手でギュンターを殴りつけた。
ギュンターは両手に持ったスケッチブックでそれを受け止めた。
次々と繰り出される攻撃を受け止め続け、スケッチブックは瞬く間にボロボロに千切れていった。
だが、ギュンターは岩のように立ちふさがって行かせまいとする。
左の拳が叩きつけられ、スケッチブックを持つギュンターの手が滑った。
衝撃を躱しきれず、思わず後ろに弾かれたギュンターの腹部に、ロラン王子の右膝がめり込んだ。
「ぐふっ……!」
くぐもった声とともに、ギュンターが地面に崩れ落ちた。
それを足で転がしながら、ロラン王子は這い逃げるフィオナに追いすがる。
ギュンターがその後ろ足にすがりつき、思い切りロラン王子を引きずり倒した。
もんどり打って倒れた背中を踏みつけて、ギュンターはフィオナを庇い護るように抱きかかえた。
大百足を踏みつけたような、ヤカンが鋭く沸騰するような。
奇妙に甲高い怒声を上げて、ロラン王子が立ち上がった。
「王子を踏みつけにするとは……! 許さんぞ、アイスバインの小倅め!」
その表情は、既に人間の顔ではなかった。
顔一面が醜く紅潮し、濁った黄色い目。
真実、悪魔のそれになった顔で、ロラン王子はギュンターを睨んだ。
あああああああああ! と、発狂したような声を上げて、王子は右足を振り抜いた。
湿った音を立てて、ギュンターの顔が何回も揺れた。
めちゃくちゃに繰り出される蹴りが何発も外れて、バルコニーの手すりを蹴りつけた。
足からおびただしい血を流しているというのに。
ロラン王子は奇妙な声を上げながらギュンターへの攻撃をやめない。
そのあまりにも異常な剣幕に、衛兵たちですら王子に近づけないでいる。
咄嗟に、アルシェラは走り出した。
途中にあった花瓶を掴み、棒立ちになっている衛兵を掻き分けて、階段を駆け上がった。
「ロラン王子っ!」
その一言に、ロラン王子が振り返った瞬間、アルシェラはその頭に思い切り花瓶を叩きつけた。
物凄い音が発し、花瓶が粉々に砕け散った。
「断頭台に送られるのは――貴方よ、このクズ男っ!」
その啖呵に、頭から血を流したロラン王子が顔を上げた。
「こ、こ、この、阿婆擦れがァ……!」
血まみれになって、数倍恐ろしくなった表情に、思わず足がすくんだ。
ロラン王子が両手を上げて飛びかかってきた。
今ここで自分がバルコニーから突き落とされても。
絶対に逸らさないと決めた目で、アルシェラはロラン王子を睨みつけた。
まるでスローモーションのように、世界がゆっくり展開した。
血だらけで自分に覆いかぶさってくる悪魔。
自分は本当に、何故こんなやつと――。
一瞬だけ、アルシェラは深い後悔を覚えた。
私は彼の本性に気づかなかったのか。
いや――そんなはずはない。
実に7年間も、彼とは婚約者だったのだ。
この人はどこかおかしい、それを感じていないはずがなかった。
彼を社会から隔離しねばならないと誰にも言えなかった。
彼の婚約者だったから、ではない。
自分も多分、ロラン王子の異常性を恐れていたのだ。
私もまた――声を上げなかった一人なのだ。
全てを理解した、それと同時だった。
後ずさろうとした足が引っかかり、アルシェラの脚がもつれた。
ゆっくりと、自分の身体がバランスを失って、後ろに倒れていく。
ロラン王子の両腕が虚空を行き過ぎた。
両腕が、後ろに傾いだアルシェラを掴むことなく。
そのまま、ロラン王子はバルコニーの手すりにぶち当たった。
ミシッ、という音が発した。
王子がさっきまでめちゃくちゃに蹴りつけていた、木製の手すりが上げた悲鳴だった。
狂を発したロラン王子の突進を受け止めきれるだけの力を発揮できず――。
手すりは音を立てて折れた。
「あ――」
虚空に投げ出されたロラン王子の顔から、狂気が消えた。
その目が驚愕に見開かれたまま、アルシェラを見た。
アルシェラが見ている眼の前で。
ロラン王子は大理石の床に墜落した。
グシャッ! という、身の毛もよだつ音が発した。
慌てて、アルシェラは階下を見た。
首が奇妙な方向に曲がったロラン王子が、そこにいた。
大きく両手両足を投げ出し。
驚愕の表情を浮かべたまま。
ロラン王子は虚空を見上げたまま――絶命していた。
会場が、水を打ったように静かになった。
衆目が、一斉にアルシェラに集まる。
ややあってその視線に気づいたアルシェラが何かを言おうとした、その時だった。
「――ロラン王子が落ちた!」
不意に――。
泣きじゃくるフィオナを抱えたまま、顔中を腫らしたギュンターが大声で言った。
「ロラン王子は時の聖女を殺そうとした――聖女を救おうとしたアルシェラも殺そうとした彼は、誤ってバルコニーから落ちて死んだ! そうだろう、みんな!」
その声に、弾かれたように頭を上げた数人がいた。
「そうだ――ロラン王子は勝手に落ちて死んだ!」
「これは事故よ! そうよね、皆様!」
「そうだ! 王子は人殺しの悪魔だった!」
「僕たちは見たんだ! ロラン王子がフィオナを殴るのを見た!」
「アルシェラ様やギュンター様が時の聖女を救ったわ!」
声は次々に上がった。
誰もが大声を上げ、口々にギュンターとアルシェラの名を呼んだ。
ほっとため息をついたアルシェラは、よろよろとギュンターに歩み寄った。
「ありがとう、ギュンター。声、出せるようになったのね」
そう言って微笑みかけると、ギュンターが照れたように笑った。
「あぁ、フィオナのお陰だよ」
アルシェラが初めて聞くギュンターの穏やかな声は、思った通りの優しい声だった。
泣きじゃくっているフィオナが、ごめんなさい、と繰り返した。
「私、怖かったんです。あの男に殴られて、気絶するまで痛めつけられても、それでも声を上げられなかった――誰か気づいて、誰か助けてって、いつもいつも無意識に――!」
その先は、言葉にならないようだった。
彼女が夢を見せ、助けを求めたのが、何故声を発することが出来ないギュンターだったのか。
それは同じく声を上げられぬことに苦しんでいたからだったのか――。
今の彼女の告白は、そんな確信をアルシェラに抱かせた。
ギュンターがフィオナを抱きしめる腕の力を強くした。
「大丈夫、何もかも、もう終わった。君が僕を救ってくれた。君があの夢を見せてくれたからだ。ありがとうフィオナ。僕のあのときの声は――君のおかげでやっと誰かに届いたんだよ」
ギュンターの胸に顔を押し付けて、フィオナが一層激しく嗚咽した。
彼は今やっと、妹を救えた――。
よく見ればどことなくその面影のあるフィオナの顔をひと撫でしてやってから、アルシェラは立ち上がった。
「あらあら、このスケッチブック、ボロボロになっちゃったのね……」
そう言って、アルシェラはギュンターのスケッチブックを取り上げた。
それはロラン王子の蹴りを受け止め続けて、既にぐちゃぐちゃになっていた。
今までギュンターの声、自分たちの心の交流そのものだった帳面。
それが失われてしまうのは、なんだか嬉しいような寂しいような、複雑な感情をアルシェラに抱かせた。
アルシェラがパラパラとスケッチブックを捲ると、ギュンターがぎょっと目を見開いた。
「あ、あ、ちょ……ダメだよ! 中身は見ないで――!」
もう遅い――。
スケッチブックの後半のページに、びっしりと書かれたモノ。
まるで模様のようなその長文を一読して、アルシェラは思わず目を丸くしてしまっていた。
◆
『親愛なるアルシェラへ。
どうか僕の話を聞いてください。
君は僕の声を聞こうとしてくれました。
そのことが僕にとって、どんなに嬉しかったかわかりません。
僕は5歳の時に火事で妹を失いました。
僕は本棚の下敷きになった妹のナミラを救い出すことができませんでした。
あの時から、僕の心は鎖されてしまいました。
僕が声を上げても、その声は誰にも届かない。
そう思うと、不思議と声を出すことができなくなったのです。
両親は僕を心配していました。
これ以上両親に心配をかけたくなくて、僕は学院にやってきました。
筆談で話す僕を、みんなは遠巻きにしました。
虐められたり、小突かれたり、殴られたりもしました。
あの時声を上げられなかったのだから当然のことだと僕は思いました。
僕は繰り返し自分を罰していました。
僕はあの時のことを責め続けていました。
でも君は、僕の手を取って、声を上げてと言ってくれました。
声のない僕を、事情はあれども対等に扱ってくれました。
そしてあの夢の中で、必死になって僕の妹を助けようとしてくれました。
僕の感じた嬉しさは、きっと伝えても伝えきれないでしょう。
ここからは僕の勝手なお願いです。
もし、今日の卒業パーティで、夢のとおりにロラン王子と君との婚約が破棄されたら。
そうしたら、僕にも君の婚約者になるチャンスがあるでしょうか。
正直に言って、僕の家は貧乏です。
僕はチビで、やせっぽちで、頼りがいもありません。
アルタミラーナ公爵の令嬢である君とは、何もかも釣り合わないのもわかっています。
でも、僕は少しのチャンスでもあれば、君に言いたいのです。
僕の婚約者になってくれと。
僕はずっとずっと君の声を聞いていたいと。
一度でいい、君を好きだと大声で言ってみたいのです。
きっと君は困るでしょう。
迷惑だと怒るでしょう。
気持ち悪いとさえ思われるかもしれません。
でも、僕は僕の声を引き出して、聞いてくれた美しい人の声を、そのすぐ側で聞いて生きていきたいのです。
どうか、この事を伝えることだけはお許しください。
貴女を愛する者より。
ギュンター・アイスバイン』
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
思わず知らずめちゃくちゃ長くなってしまいました。
もしお気に召しましたら、評価・ブックマーク等よろしくお願いいたします。
【VS】
もしお時間ありましたら、この連載作品を強力によろしくお願いいたします↓
どうかお願いです。こちらを読んでやってください。
『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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