悲哀を救う天使。
「――え?」
(ゴミとして、捨てられた――?
誰が…………?)
ヌッラの言葉に困惑するヒガヤ。
バキッ
心にあるファング家の忠誠心の鏡に罅が入る音がした。
彼の心境を、空気を、“静の闘気”を介して知るヌッラは同情の眼差しを送る。
「ひどく動揺してるようだな。
同情しよう。ライヒ皇家はファング家の在り方をひどく毛嫌いしている。
だからこそ、ファング家の全容が明るみに出れば、ファング家の敷地、権利を丸ごと押収して、自分らの利権にしようと密かに企んでるという噂が流れた」
「…………ハッ?」
(皇家……ティア、副委員長が…………?)
まだ子供のヒガヤには大人じみた政治に頭が追いつかない。
瓦礫に横たわってたメリナはなんとか立てる段階まで回復する。回復するもヒガヤの心境が、心の内が嫌でも分からされる。
何しろ、メリナは“聖霊機関”の諜報員。ファング家がどのような一家なのか、耳に蛸ができるほどに教え込まれてる。
ファング家は“ライヒ大帝国”を、ライヒ皇家を仇なす絶対悪。必ず、根絶やしにせよ、と命じられている。
だからこそ、皇家は“白銀の黄昏”にいるアルスらを強く警戒している。
幸い、その目論見はズィルバーの手によって改善されかけてるのが現状だ。
而して、ヒガヤだけは裏目に出てしまった。
ヌッラの口から語られた真実。その真実を前に、今まで培ってきた全てが砕け散ろうとしていた。
経験も、動機も、生きる理由も、復讐心も、なにもかもが跡形もなく砕け散っていく。
バキッ、バキッ…………――バキャーン…………!!
「――――――――」
ヒガヤの瞳から光が消える。
これまで培ってきた全てが跡形もなく砕け散り、悲哀の虚無に囚われてしまった。
立ち上がるだけの精神すらも粉々に砕け散った。これまで築きあげてきた努力すらもゴミのように捨て去られた。もはや、生きる理由すらも見いだせずにいる。
ペタンと座り込み、目尻から涙がこぼれ落ちる。それはまさに忘れ去られた感情が解き放たれたかのようだ。
涙を零すヒガヤに対し、ヌッラは剣を突き立てる。
「このまま死なせてやった方が、貴様にとっても救いとなろう。
悲しき虚無に支配された子供よ。
恨むならば、貴様の人生をメチャクチャにした奴を恨むんだな」
剣を掲げ、横薙ぎに首を飛ばそうとした。
剣で首を飛ばし、胴体と離ればなれにしようとした矢先――
ガキンッ
甲高い金属音が部屋中に木霊した。
「――ッ!?」
メリナが無骨な蛇腹剣を盾に掲げ、全身で支えるかのようにヌッラの剣閃を防いだ。
その行動にヌッラは意外な表情を浮かべる。
「意外だな、“聖霊機関”の諜報員ともあろう者が敵である“白銀の黄昏”を助けるとは――」
メリナが取る行動が些か腑に落ちない口ぶりと態度を示す。
「私とて、本来なら、したくありませんが……」
彼女も本来なら、敵である暗殺者を助けるなんて毛頭ない。ないのだが、心をへし折られた子供を死なせるのは忍びなかった。
しかも、自分と同じように家族を亡くし、闇社会を生きるほかなかった者として――。
「……ですが、ここで死なせるのは私としても後味が悪いのですよ。
特に、自分の将来も力の使い道も分かっていない子供にはね!」
メリナの叫びが、声が、ヒガヤの心の中に響き渡り、強く残る。
「……………………」
未だに瞳に光は灯らないが、心が反応したのは確かだ。背中越しとは言え、“静の闘気”を通して、彼の心はまだ生きてる。まだ立ち直れる兆しがあるのを感じとれた。
だが、メリナが感じられたのならば、ヌッラにも感じられるのも同義。
「なるほど」
彼は彼女の言い分をしかと受け止める。受け止めた上でヒガヤを始末しようと、剣を振るう力を強めるや否や、腹に強烈な膝蹴りを叩き込んで、ヒガヤ諸共、蹴り飛ばされた。
ドゴーン
蹴り飛ばされ、壁に衝突し、床に叩きつけられるメリナ。彼女諸共、蹴り飛ばされたヒガヤは壁にめり込んだまま、意気消沈していた。
立ち上がる気力も、戦える気力すらも出てこず、生きることすら失われていた。
ヌッラの蹴りで壁に叩きつけられ、めり込まれても、“動の闘気”を使用された痕跡がない。つまり、心が折れかけてる証拠でもあった。
それは同時に、彼の身体に甚大なダメージを負ったことになる。
床に叩きつけられたメリナは彼を守る形で立ち上がり、目線を後ろに見やる。未だ、ヒガヤが意識を取り戻さない様子を見るに失意の底に落ちてるのが見とれる。
さらに今の蹴りによるダメージも深刻に受け止めた。
(見たところ、全身を強打したせいで、骨に僅かな罅が入ってるかもしれない。
本来なら、安全な場所ににがすべきなんでしょうけど…………――。
そうもしてくれる相手とは思えない)
メリナは目線をヒガヤからヌッラに戻す。
ヌッラは未だに剣を構えることもなく、ぶら下げたまま、メリナを見据えていた。
「どうやら、貴様は無事なようだが……――。
あそこのガキは戦意喪失のようだな」
「自分が心を壊しておいて、よく言えたものね」
皮肉な言葉に皮肉で返すメリナ。ヌッラは皮肉返しに、気にもせず、淡々とした態度で答える。
「俺は見聞きしたことを知り、知ってることを口にしないと落ち着かない性分でな。
そのおかげか……盗賊団内でも“心殺し”と言われるようになった」
「“心殺し”…………相手の精神を壊す、ね」
(全く、厄介な敵ね。でも、その敵の術中にはめられた彼も彼で未熟者ね)
彼女は壁にめり込んだままのヒガヤを揶揄する。
而して、後輩を死なせるのは忍びない。だからこそ、彼女は敵に背中を晒し、隙を晒してまで、彼を助ける。
助ける際、メリナはヒガヤの耳元にボソボソと小声を漏らした。
「――――」
彼の微かな反応に彼女は見届けた後、背を向けて、ヌッラを見つめる。見つめると同時に無骨な蛇腹剣を構え、魔力で隠蔽させていた白き翼を見せびらかす。
「…………」
ヌッラは僅かばかりだが、目を見開いた。メリナが自分が如何様な種族であるかを見せるかのように翼を広げたのだ。
「そうか。
貴様、やはり、天使族だったのだな」
最初から確信していた口振りで言ってのける。
だが、メリナはこの程度のことで動じたりはしない。ここで動じたら、ヒガヤの二の舞になるからだ。故に彼女は動じることなく淡々と事実を告げた。
「はい。私は天使族。
この世でもっとも稀少な種族とされる天使族の生き残りです」
「確かに、天使族は、この世でもっとも稀少な種族。
実在するのかどうかも絵物語の中の種族判明されていないと聞いてたが、実際、目の当たりにすると、綺麗なものだな」
ヌッラにしてはメリナを綺麗と言わしめた。彼女もそれには僅かばかしの驚きを隠せずにいる。
「綺麗?
私が? 何を言ってるんですか? 天使族が綺麗だなんておかしな話です。私は“聖霊機関”の諜報員。既に綺麗も汚いも関係ないことなんですよ!」
白き翼を広げれば、羽がひらりひらりと落ちていく。
「さあ、行きますよ」
メリナは翼をはためかせ、床に沿って滑空し、ヌッラへ接近していく。
「来い!」
彼も彼で彼女との剣戟を再び、交えることを期待していた。
瓦礫にもたれ掛かる形で座り込んでるヒガヤ。その瞳に光がなく、意志すらも感じられなかった。而して、僅かに反応を示し、立ち戻れる兆しがあったのも立ち直れるだけの気力を見いだせていなかった。
なにより、ヒガヤは既に生きる希望を失ってしまった。これまでの努力も怒りも復讐心もなにかも醜い大人に利用され、切り捨てられた。
今まで磨いてきた力も覚悟もなにもなかったかのように粉々に砕け散った。
今まで頑張ってきた努力に対する報いすらももらえずに跡形もなく砕け散った。
(もう生きる理由もない。意味もない。
このまま息絶えても誰も悲しまない。俺のことなんか忘れて、皆、全うに生きてくれ。
父さん……母さん……皆…………今、そちらに行くよ)
心が病もうとしてるヒガヤは自らの意志で死出の旅に赴こうとしていた。
だが――。
そこに立ち止まる一筋の光が闇を明るく照らす。
(――――)
その光は彼にもう一度、生きる喜びを、生きる理由を見出そうとしてる。でも、彼には生きる理由がない。自分に残ってるものなんてないからだ。
ヒガヤは自分にはなにも残ってないと豪語するも、彼の精神に語りかけてくる声がそれを否定してくる。
『自分にはなにも残ってない? 笑わせないでください! 残ってないなら、また新しく作って残らせればいいだけの話じゃないですか!』
(え?)
その声は朗らかで、厳しくて、温もりがある。
縮こまり、耳を塞ぎたい彼に語りかける彼女の言葉が精神を揺さぶらせる。
ヒガヤは“教団”を潰し、残党を殺すために力を磨き、依頼で数多くの人間を殺した。
嘆きを見た。怒りを見た。哀しみを見た。怨嗟を見た。この世の不浄を見た。
いろんなものを見て、殺してきた自分は本来、罪があろうがなかろうが、生きてはいけない存在だったかもしれない。
誰もがそう口にした。誰の言葉も正しかった。ヒガヤという物体は彼が殺してきた人々のように無造作に道に捨てられた。
だからこそ、彼は暗い暗い死に埋没することができる。もう二度と浮上することなどないと思っていた。なのに、そんな彼を救おうとする人の声が木霊する。戦い続ける剣戟音が残響してくる。
その時、頭上に光が満ちる。
その光が彼を照らしてくれる。
(ぁ――――)
照らされる光を見ても、彼の心は暗がりに落ちていくだけ。だけなのに、声は残響する。連れ戻すまで残響し続けるのだろう。
それでもなお、新たに残せるものを残したとて、誰も気に止めずに置き去りにするだけだ。ならば、ここで死に絶えてもなんら問題ない。
『違う。残せるものはある。あなたが今まで頑張り続けた意志は誰かに受け継がれ、生き続ける。
あなたの頑張りは最初から無意味じゃないんです』
(それは違う)
とヒガヤは答える。自分の意志なんて欠片にも等しく、薄情にも等しいものだ。そのような意志を誰かが受け継ぐとは到底思えないからだ。
『それはあなたの行いが、あなたの目指すものが良いことではないからです。ですが、大いなる敵を前に屈することなく、歩み続ける背中と意志は受け継がれていきます。その生き様は誰かの心に残り続けるものだからです』
(ぁ……あ、あ……あぁ、あ――――)
みっともなく、グズグズと泣いている。
誰かのきつい叱責があまりにも的を射ていて。自分の愚かしさに胸が裂ける。
分かっている。分かっているのだ。復讐するために生き続けた。復讐するために力を追い求めてきた。
けれど、それすら許してもいいだろうか。復讐のために殺してきたヒガヤに誰かを守るために、その力を使っていいのか。良き行い、良き営みを送ってもいいのか、と。
(許されるわけがない)
嗚咽が止まらない。自らの醜さと弱さを思い知る。
もし、弾劾されるのならば、ヒガヤはこの世でもっとも醜い人族だと、穢れた生き物だと言いきれる自信がある。
なのに、その自信すらも救いの手が、光が揺らがせる。
『まだ子供なのに、どうして、そんなに死にたがるのですか?
あなたたちのリーダー……ズィルバー・R・ファーレンという男は、その程度の男だったのですか。あなたの将来を一番、案じてたのは誰よりもズィルバーだったことを忘れていませんか?』
(…………)
ヒガヤは今一度、振り返る。ズィルバーがヒガヤに言ったのは力の使い道、それだけだった。
学園に入学した理由も“白銀の黄昏”に入った理由さえも聞かなかった。
なにより、ヒガヤの将来を案じていた。どこはかとなく、上から目線だったけど――。どこはかとなく、自分こそが最強だと言い張るけど――。
それでも、友や部下の将来を案じてくれる頼れる先輩だったのを今更になって振り返った。
(我ながら、俺……今の今まで、委員長から信頼されてたんだな。
信頼されてなかったら、俺をあんな役職に就かせないよ。その想いを、俺は……)
ヒガヤは今になって、死にたいと思ってしまった自分が恥ずかしくなってしまった。
復讐はもうできなくても、今まで得てきた力は誰かを守るために使うべきだ。
この世にはどうしようもない人族が異種族がごまんといる。その中でも、ヒガヤは道を踏み外すことのない光を持ってる。
彼が持つ光は道を踏み外そうとしてる同輩や後輩、先輩を明るく照らせる太陽そのものだ。
ようやくとなって、自分の愚かさを悟るヒガヤ。道を踏み外そうとした歩みを止め、暗がりから光ある道へ連れ戻してくれた、たった一人の少女。たった一人の救いの天使。この世でもっとも慈しむべき天使族を見つけた気がした。
引き戻してくれた彼女は再び、戦場へと戻り、今なお戦い続けてる。
ヒガヤの背後から、闇の中から差し述べてくる魔の手が語りかけてくる。
『なんという見当違いな信頼? いや、それは愛か、いや、それは恋というもの。初めから信頼されていた?
何を言うか、ズィルバーという男は俺たち自身が知ってたはずだ。彼は上から目線で、自分の方が強いと分かってたじゃないか。ならば、そんな奴が挫折を、地獄を味わったことがない。そのような奴の言葉を聞く価値もないのだ』
嗚咽を止める。
鉛にまで落ちていた鈍い身体に血を巡らせる。
「う――、ぐっ――!」
痛い。ものすごく痛い。数えきれないぐらい人を殺してきたけど、この痛みだけはなんど味わっても我慢できない。
(ホントに俺は“八王”の中で、いや、“白銀の黄昏”の中で一番の恥さらしだ。皆の顔に泥を塗ってるようなものだ!)
自らを恥じ入るも立ち上がろうと懲りずに付き合って欲しいと願う。
『俺たちは元からそういった生き物。“教団”に家族を殺されたのは契機に過ぎない。いつの日にかは周囲との軋轢が生まれてた。
それが、あのような形になっただけだ。俺はどうあれ、きっと、多くの罪を犯していた。多くの人間に石を投げられる運命だ』
「こ、の――!」
力尽くで、バリバリと背中の皮を剥がす。
暗闇に癒着しかけてた背中を無理やり引き剥がした。これぐらいはどうってことはない。
だって、ほら、今も、遠くから近くから音が聞こえる。今もなお、皆が戦い続けてる。自分だけ逃げていい理由なんてない。そんなの単なる自己満足の我が儘にすぎない。ならば、ヒガヤがすべきことは自己満足ではなく、皆からの信頼を応えなくてはならない。
その信頼に応えるためなら、皮はおろか、骨まで剥がされてしまってもいい、と覚悟を決めた。
『――なぜ、まだ希望を見る。絶望に身を堕とさない?』
癒着しかけてた暗がりを無理やり引き剥がしては痛みに苦しみ続けるヒガヤ。
(……そう、俺は確かに絶望という名の暗がりに堕ちても構わない。だが、奇蹟を見た。たったいま、なにより尊いものを見た。
彼女は本来、敵対関係、“聖霊機関”とは相対してはいけないと口酸っぱく、耳に蛸ができるくらいに言われた。
それでも、綺麗と思ってしまった。美しいと思ってしまった。魅入られてしまった)
『――――そう』
(ぁ――、く、あ――……!)
暗闇を明るく照らす光に手を伸ばし始める少年。
身体に力は戻らない。心は今も弱いままだ。自分はずっと、こんな迷いを抱き続ける。
それでも立たないと。
この命は過去を嘆くためではなく、もう一度――。
「ああ、あ、あ――!」
いや、幾たび倒れようと、祈りあるかぎり、戦うために与えられたんだから――。
視界が光に包まれていく中、耳に入ってきたのは
『…………この、偽善者』
であった。
ガキンッ! ガキンッ!
甲高い金属音が木霊する。
無骨な蛇腹剣と長剣が刃を交え、斬り結ぶ。
純白の翼をはためかせて、二次元的な動きから三次元的な動きで展開するメリナ。
その攻撃をもってしても、ヌッラは守勢は、体勢は切り崩せない。
「チッ――」
(もう、全然攻撃が当たらない!
こっちの攻撃が完全に見切られてる。“静の闘気”のレベルが高すぎる。
私の攻撃が見切られてるなら、見切られない攻撃が必要だって言うのに――)
苛立ちを滲ませていた。
「苛立ってるな、剣戟が僅かにブレ始めてる」
「――!?」
心を見透かされる口ぶりにメリナの精神が大きく揺れた。
「そうして、心が揺れたら、俺に隙を見せるだけだ。
貴様は“聖霊機関”の諜報員。ここで欠員が出れば、“ライヒ大帝国”とて大きな損害を被るだろ。
ここいらで永久退場をしてもらおうか」
鋒をメリナの心臓めがけて突き立て、刺し貫こうとした矢先、横合いから放たれた鉄拳によって弾かれた。
「――!」
体勢を大きく崩し、腕が僅かに痺れたヌッラ。
それをしたのは間違えなく――
「「――!!」」
メリナは驚きから、ヌッラは動揺から目を向ける。
放たれた拳の射線を追う。
彼はデコボコする床に立っていた。
毅然と悪魔を見据える瞳。
それは悪夢から自らの意志で生還した、ヒガヤの姿だった。




