悪夢
書いた当時は意識していませんでしたが、友人の感想によると「BLちっく」だそうです。
私自身はそんなつもりはちっともありませんので、意識しなければ普通に読める……と思います。
気になる方だけご注意ください。
俺は、友人・大和の部屋で一人安らかに眠っていた。
大和の家族はみんな出払っていて、その家には俺と大和の二人だけだった。
というか、「家族がいないと怖くて眠れない」などとほざく幼馴染(高校二年生だ!)に俺が付き添う羽目になったというのが真相である。本当は放っておきたかったのだが、「うちに泊まってかないなら、オレが漣の家に行ってもいい?」などと言うからしかたなく……我が家にあいつを招きいれたら最後、何を仕掛けられるかわからない。盗聴器? トラップ? 隠しカメラ? ……せめて自宅くらいは心安らげる場所であって欲しい。
そういうわけで俺は幼馴染の部屋に泊まることになったのだが、その、大和自身はどうしたかといえば、おそらくこの家の地下(あるのだ、見た目は現代日本にありふれた一軒家なのに)で一人、恐ろしすぎて何をしているのか訊く気にもなれないことをやっているのだろう。一人じゃ怖かったんじゃなかったのか?(もちろん判っているとも。大和が暗闇を怖がるということ自体が何かの冗談なのだろう)。まあ、おかげで俺は床に雑魚寝などせずに、大和のベッドを占領していられるわけだが。
今回の大和の、本人曰くところの『純然たる好奇心☆』の犠牲者たる誰かに、俺は心からの弔意と感謝をささげつつ、安らかに……本当に、涙が出るくらい安らかに眠っていたのだ。
ところが、ふ、と真夜中、不自然に目を覚ました俺の目に入ったものそのイチ。
かわいらしいフランス人形。
何でそんなものが男の部屋にあるのか、とは大和に聞いてくれ。
とりあえず、大和はその人形を二、三週間ほど前から持っていて、自分の部屋の、一つっきりのベッドの横にある棚の上においてあったので、それが俺の目に飛び込んでくることは、なにもおかしいことはない。もちろん、文字通りの意味で飛び込んできたら、おかしいどころか恐ろしいことこの上ないが。
その夜、そのフランス人形は、カーテンの隙間から漏れ入る月光に照らされて俺を見ていた。
硝子製の目は、妖しい緑色。カールした明るい茶色はきらきらと輝き、長い睫毛が綺麗な扇状に広がっている。唇はもちろん触っても硬いばかりだろうが、職人技とは素晴らしい、本物の子どものようにふっくらとして見える。青のビロードのドレスはつやりとして……いや待て。
そこまでじっくり見てから、ようやく寝ぼけていた俺も気づいた。いくら月の光が明るいからって、ここまではっきり見えるなんておかしい、と。
本能と理性が、同時に警告した。
本能・コレハオカシイ。異常事態。
理性・あいつだ、あいつ―――大和がまたなにかやったに違いない。
その二つの警告に従い、俺が人形から目を逸らそうとした瞬間、
その人形は首を傾げて笑った。
―――結論・今夜の犠牲者は 俺 だ。
「うわああああああああああああああああぁぁぁぁっっっっっ!!!」
ご近所中に響き渡るような大声で俺は叫んだ。同時にベッドから跳ね起き、床の上に乱雑に置いてある大和の私物を蹴散らしながら、開けっ放しのドアに向かって猛突進。
ところが、有り得ないことがおきた。
ドアまであと十歩というところで、ドアが閉まりかけた。勢いよく、と形容してもいいほどの速さだ。俺は必死で手を伸ばした。
「いってぇ!!」
情けない悲鳴が漏れる。
十歩分の距離を一気に跳躍し、俺の伸ばした手はドアと壁の間に挟まった。それだけでも十分すぎるほど痛いというのに、ドアは尚も閉まろうと、ぐいぐい俺の手を挟みつけてくる。
(これも、人形の呪いか――!?)
人形――というよりは、人形に何かおぞましい細工をしたに違いない、大和の呪いか。
「くっ……」
こんなところで、あんな不気味な人形と二人っきり(一人と一つっきり)なんて、絶対にごめんだ。俺は渾身の力をこめてドアをこじ開けた。
ドアのほうもものすごい力だったが、力比べではどうにか俺の勝ちだったらしい。ゆっくりと、ドアと壁の隙間は大きくなっていく。
ようやく人が通れるほどの大きさになって、俺は半身をその隙間に滑り込ませた。その瞬間、俺はちらっと人形に目を遣った。
人形は立ち上がり、棚から降りていた。
そして、また俺と目を合わせ、にこ、と笑った。硝子製の瞳は虚ろ。不気味に月光を反射して輝いていた。
俺はそのままドアの隙間からから薄暗い廊下へと走り出した。叫びながら。
「大和ぉっ!!! どこにいやがる出てこい叩っ殺すっっ!!」
一瞬振り向くと、ドアは開いたままだった。さっき俺を外に出すのを拒もうとしていたことなんて、知りませんよ、とでも言っているかのように。ごくごく普通のドアのように開けっ放しになっていた。
(なら、人形はドアまで歩いてきたらそのまま出られるのか)
ぞっとして前に向き直ろうとしたとき、ちょうどそのドアから人形が顔を出した。
にこりと笑って。硝子製の緑の瞳をすっと細めて。広いつばの青い帽子についた黒いリボンがひらひらと揺れていた。
その、桃色の、作り物の唇が、音もなく動いた。
みぃつけた
そして、俺に向かって、ものすごい速さで走りだした!
いや、普通の人が走る程度の速度だ、ということに、俺はすぐに気づいた。
だが、30cmにも満たない人形サイズの足でそれだけ走ることができれば、それだけですごいんじゃないか。そして俺も全力で走らなければ追いつかれるのではないか。
そういうことを、俺は階段から転げ落ちながら、ではなく転げ落ちるように走り降りながら考えた。
言っておくが、大和の家は日本ならどこでも見かけることのできる、普通の二階建ての一軒家だ。そんな中、二階にある大和の部屋から一階に逃げても、大して逃げ回る余裕はない。
俺は即座に、大和の篭っているだろう、地下室に逃げ込むことに決めた。できるならあんな不気味な部屋、近づきたくもないところなんだが、あいつならこの怪異をどうにかしてくれるだろう。っていうか、多分あいつのせいだから4・5発殴ってどうにかさせる。
俺は必死で走り、地下室に通じる引き戸式の扉にまでたどり着いた。人形はその小さなサイズから、床に大量に置いてある障害物を、乗り越えたり迂回したりするのに意外と苦労していた。おかげで、俺はまだ捕まっていない。こんなときだけ、大和とやつの家族の乱雑癖に感謝した。
必死で走ったので荒い息を整えながら、俺はその扉を引いた。
開かない。
愕然とした。そんなはずはない、この扉に鍵はついていないはずだ。引けば開くようになっている。
いや、それともさっきのドアのように……。
俺はぎこちなく首を巡らして、人形に顔を向けた。その人形は、乗り越えようとしていた本の山の上に手をついたまま見上げ、また笑った。にっこりと。
にがさないよ
声を発しないまま、唇が動いて言葉を形作る。
そしてまた障害物競走に取り掛かった。
俺は地下室への扉を必死で揺すって叫んだ。
「開けっ、開けよぉっ!」
黒い扉はがたがたと音を立てて揺れるのだが、どうしても開いてくれない。
そうこうするうちに、人形はすぐそこまで迫ってきていた。そのあまりの距離の無さに俺が絶望しかけたとき、扉がいきなり開いた。
扉に手をかけていた俺は、バランスを崩して扉の向こうにあった階段を転げ落ちた。今回は、文字通りだった。
だだだだだだだだだどんっっ
階段の一番下で、乱暴な地響きを立ててようやく俺は止まった。
「漣、こっちだ!」
大和の声が俺の名を呼ぶのが聞こえた。俺は不覚にも涙ぐんだ。人間に出会えて安心したためで、決して奴に会えたのが嬉しかったわけではない。
だが奴は何をトチ狂ったのか、階段の一番下で痛みにうめいている俺に、こともあろうが抱きついた。
「あぁよかった漣! 無事だったんだね!!」
鈍い音とともに、俺の肘が大和の腹部に鋭く入った。
「っぐ……」
腹を抱えてうめく大和をよそに、俺は階段の上を見上げた。いつのまにか、扉は閉まっている。
「ひ……ひどいよぉ、漣。せっかく助けてあげたのにさぁ」
「そもそもの元凶はおまえだろうがっ!!」
平たい音をたてて俺の平手が、涙目で尚も俺に抱きつこうとする大和のぼさぼさ頭を叩く。遠慮なしに、思いっきり……というわけには、平和主義な常識人の俺にはさすがにできないので、軽くはたいた程度だが。さっきの肘鉄は、非常事態だったので例外だ。
当の大和は首をかしげていた。
「オレ? オレはなーんにもしてないよ。ちょっと変な“気”を感じたから、ちょっと扉に結界を張っただけー」
「気……? 結界……?」
とは、なんか魔法とかなんか使うやつが張るシールドのことか?
……RPGではあるまいし、別次元の話はやめてくれ。
「上で無防備に寝ている漣のことも気になったんだけど、やっぱり自分の身が一番大切だからさ。そんで、結界のせいで扉が開かなくなっちゃったわけ。ごめんねー、漣、怖かったでしょ」
あぁ、そのとおりだよ……なんて口が裂けても言うもんか、こいつにだけは。俺を見捨てて自分の安全を取った、こんな危険なやつに弱みを見せるなんて、とてもできない。
大和はにっこり笑ってわしゃわしゃと俺の頭をかき回した。撫でているつもり、らしい。
「オレがいるからもう怖くないよ。だから、泣かないでね」
かちん、ときた。
誰のせいだと思っている。誰のせいだと。
今度は、平和主義だの常識だのはあっけなく星の彼方へふっとんだ。
「誰が泣いている!」
何かが砕ける異音がした。鼻の骨かな、と俺は痛む拳をさすりつつ、床に突っ伏す大和を無表情に見下ろした。血の匂いがしたが、どうせこの場所―――地下室ではそれが普通だ。
俺は、一年と半年前以降初めて入ったその地下室を見回した。そして、やっぱり見なければよかったと後悔した。
簡単に説明させてもらえば、マッドサイエンティストの実験室、マジカル風味だ。気持ち悪いものをほんの一瞬で、もう一生にこれだけでたくさんというほど見せ付けられた。前よりも、得体の知れない薬物が増えている。以前は、小動物や爬虫類、魚類の標本や剥製、内臓などが多かったのだが。あちこちにわけのわからない模様がかかれている。ああいうので結界を張るんだろうか。
そう、これが俺の十年来の『親友』・坂下大和のいわゆる「趣味」だ。やつはオカルトオタク、というのだろうか、自宅の地下室で、黒魔術とやらをやっている。俺の知る限り、小学四年生の時にはもうすでに、かなりの知識を備えていた。もはや、極めている、としか言いようがない。
俺は、基本的にはそういう、魔法、というものを信じない。だが、大和の黒魔術は別だ。大和と俺は、小学校に入学して以来、かれこれ十年の付き合いだ。その中で、大和をいじめた奴らが「実験体」と呼ばれ、いろいろ科学的に説明不可能なはめに合うのを、この目で見てきた。実際、俺も大和の「実験体」になったことがある。そのたびに、あの世を垣間見ることとなり、普通なら滅多にできない体験が、俺にとっては日常になり、あの世はもはやお馴染みの場所だ。三途の川まで行ったこともある。嘘ではない。普通ならめったにできない体験と言っても、体験できてもまったく嬉しくない。
そんな目に遭いながら、俺はこいつの友達でありつづけている。別に友情や哀れみからではない。ただ単に、脅されているからというシンプルな理由からだ。小学校卒業とともに、大和には内緒で、奴とは違う私立中学に入ろうとした俺の家を、ある日奴は訪ねてきた。そして、突然の来訪を訝しむ俺に向かってこう宣言した。
「六年間親友やってきた俺を見捨てたら、毎日朝夕しっかり呪ってあげるよ」
と。
親友とは、お前にとって呪う対象なのか。
――――たとえ奴の傍にいることでどんな目で見られようとも、奴の黒魔術の制裁を毎日受けるよりはマシだ。
そんな大和は、ここのところ、毎晩のように地下室に入り浸り、怪しげなことをやらかしていた。何をしていたのかは知らないが、あのフランス人形が俺を襲うことになった原因はこいつに違いない。
とりあえず俺は、その気色悪い割には、「目に悪いから」という意味でやたら明るい部屋から目をそらした(大和は雰囲気を追求する気はないらしい。おかげで気味悪いものも細部までしっかりと見えた)。となれば必然的に、目が行くのは階段の向こうにある先ほどの扉、ということになる。
そして、
「うぉあぁっっ!!」
「う゛っ」
俺は思わず飛び退った。その拍子に、大和を踏んづけて転びかけたが、何とか転ばすにすんだ。妙な声を出した大和のことは気にしない。起き上がってこなくても、気にしない。
その間にも、俺の目は扉から一瞬も離れなかった。
――――扉が開いている。
そして、その向こうには、扉に手をかけ、暗い笑顔を半分だけ覗かせた――
「――なにやってんですか、御影先輩」
そこに立っていたのは、どうやって入ったものやら、俺たちの学校の先輩、御影朔夜先輩だった。別に、差別するわけじゃないが、生物学上れっきとした男でありながら、制服も男物ながら、私服では女装して、オネェ言葉でしゃべる、いわゆるオカマである。そして、やたら妄想を突っ走らせる人で、それだけなら問題も、ないとは言い切れないが、少ないのだが、先輩は己の妄想そのままに暴走する厄介な人だ。はっきりいって、あまり会いたくない人物だ。
しかも、こんな夜に。
つか、大和の家で何してんだ、この人は。別に招かれていたわけではないよな?
この人が、大和の所属する、「呪術同好会」という、なんとも怪しさ危なさ満点の、謎の同好会の会長なので、さらに会いたくない。
御影先輩は、20cmほど開いた扉から病的に白い顔を覗かせ、うっすらと不気味な笑みを浮かべていた。手入れが悪く、ばっさばさに長い黒髪のせいもあろう、陰気な雰囲気だ。
「今晩は、尾田くん。夏休み開始以来ね」
「……そうですね」
「もう二週間以上会ってないのね」
「……そうですね」
「別に、その二週間、あなたに会いたかったわけでは、決してないのだけれども」
「……そうですか」
何が言いたいのかさっぱりわからん。
誰か、この訳わからん人物に対する対応方法を教えてくれ。ていうか本当にどうやって入ったんだ?
混乱する俺の目線の先で、御影先輩はさらにいっそう笑みを深くした―――俺はなぜかその笑みを見て悪寒を感じた。
「ところで、あなたは、こんな時間のこんなところで、坂下くんと何をやっていたのかしら?」
「は?」
なにをいきなり。こんなところって言われても、大和の家ってだけだし。
家に泊まってるのは、大和の宿題を半分写させてもらうためだし。ちなみに大和は残りの半分の宿題は俺のを写す。素敵なギブアンドテイク。ここだけは普通の友人ぽいな。
困惑する俺をよそに、先輩はくゎっと目を開いて叫んだ。
「まさか、尾田くんっ……あなた、坂下くんがやわっちくて非力なのをいいことに、あーんなことやこーんなことを! なんて酷い!!」
「どんなことだああぁっっ!!!」
……どうやらこの人はまたもや妄想に突っ走ったらしい。つっこみたくもないが、なんとなくその誤解は気分が悪いので、あえてつっこんでおく。あぁ、何故か嫌な予感がする。俺に予知能力や第六感なんぞなかったはずなんだが。それともこれは、経験からくる警告か。
―――どちらでもいい、早く逃げたい。
だが、俺は今、地下室にいて、唯一の逃げ道は、先輩の立っている扉のみだ。逃げようがない。いや、しかし、逃げようはなくとも、逃げなければ身に危険が及ぶ。何とかしなければ。
そんなことを考えて焦っていた俺は、先輩がいつのまにか扉の内側に身を滑り込ませていたことに気づかなかった。気づいたときには、先輩の顔は、手を伸ばして届きそうで届かない、ぎりぎりの距離までに近づいてきていた。驚いた俺の体は、金縛りに遭ったように硬直した。御影先輩の薄い唇から、絶え間ない笑い声が漏れる。
「ふふ、私の坂下君に手を出した報いよ、ふふふ……」
出してないってのに。
てゆか、『私の』発言はいけないだろ。
先輩はアブナイ発言をすると不気味に笑い、背中の後ろに隠していた右手を高く掲げた。その手には、こんな場合の定番、藁人形。
――ちょっと期待してたのに。
「……もうちょっとオリジナリティに富んだものは出せなかったんですか」
「うるさいわね、なんだったら、悪魔との契約の生贄にしてあげてもいいのよ」
「……それはそれで嫌ですが、やっぱり独創性のない発想じゃないのでは……?」
俺の呟きは黙殺された。
にやり、と唇の端を持ち上げるようにして笑うと、先輩はぼそぼそと、ご丁寧にも解説を始めてくれた。
「本来なら、神社にて七日間、もっとも効果的なのは満月の晩がその最後の七日目にあたるようにするのだけれど、いろいろ装束とかもあるのだけれど、ちょっとそんな手ごろな神社も暇も、衣装も無いし、……まぁ、いいわ」
先輩の目が空ろに光った。
声が、出せない。
「折しも今は、丑の刻」
その台詞とともに、この家の柱時計が鳴った。
一回、二回、三回。
「そういえば、オリジナリティに富んだものをだしてほしい、とのリクエストだったわね」
「べっ、べつにリクエストなんかしてません! してませんとも!」
やっとの思いでそう答えた俺の声は、我ながら情けないほどに震えていた。
先輩は笑みをいっそう深くしたのみで、後ろを向くとごそごそと、なにやら始めた。
「いろいろと、多種多様の文化を取り混ぜた呪いを開発してみて差し上げてよ、ふふふふ……」
何をしているのかは知らないが、どうやら新種の呪いを発明しようとしているらしい。
その間に、俺はようやく金縛りから解放され、そろそろと後退った。そして、俺が殴り、踏んづけたときのまま横たわっている大和の上腕を引っつかみ、地下室の奥のほうへと走った。大和を引きずりながら。
物音に気づいて振り向いた先輩が何か叫んだが、これ以上この人に構っていると、面倒くさいことになりそうだったので無視した。
「……ちなさい、尾田くんっ、待たないとのろ―――」
耳に入ってきた声は、強制的に遮断した。
地下室はそれほど広くは無い。だが、気味の悪いものが陳列されている部屋の最奥に、ドアがある。一年半ぶりだが、勝手知ったる他人の家、それを開ければ、そこは埃っぽい小さな物置。俺の知る限り、今まで利用されたことはなく、多分これからもない。要するに、空っぽだ。
とりあえず、大和をそこに放り込み、俺自身も中に飛び込むと、ドアを閉める。ありがたいことに、鍵がついていたので、しっかりとかける。
そして俺はへたり込んだ。
(怖かった……)
思わず目じりに涙が浮かび、俺はそれをそっと拭った。
と、後ろから呻き声が聞こえた。振り向くと、大和がゆっくりと上半身を起こしていた。ぼんやりした目で俺を見つめた後、ぽつん、と。
「なにがどうなってんの?」
それは俺も知りたい。切実に。
俺が自分の身に起こったことをすべて話すと、大和は興味深そうに聞き入ったあと、納得したように頷いた。
「そういうことかぁ……」
「どういうことだ? もっとわかりやすく説明しろ。ありがたいことに、俺はおまえと違って凡人なんだ」
「ん〜? だから、言っただろ? 変な“気”を感じたから、結界を張ったって。その“気”のもとが、そのフランス人形だったんだよ」
「なんであんなもんが男のおまえの部屋にあるんだ。いくらなんでも、ありゃ悪趣味だ」
「もらいものだよ、僕の趣味じゃない」
「じゃあ誰の趣味だよ」
「それは……ええと……あれ?」
大和は首を傾げた。忘れたらしい。あれ? いや、違う、あれ? と、何度か呟いていたが、結局思い出せなかったらしい。
「もういいや、それは……それより、あの人形はどうなったんだ?」
「あー、あれね。多分、もうただの人形に戻ってるはずだよ。その“気”のもとの人が、呪いか何かかけて操っていただけだろうし」
「そうか……よかった」
俺は安堵の息をついた。大和は、自分の部屋の中の物が他人に利用されるのを気づけなかったなんて、魔術師失格だ、恥だっ、とかしきりに悔しがっていたが、その辺は一般人の俺の感覚の範疇を超えているので、無視。
代わりに、俺は尋ねた。
「で、誰なんだ、その人形を操って動かしてた奴は」
「ん〜、と、多分“気”の気配から、今近くにいる人物だと思うんだけど」
それだけで、俺には犯人がわかった。大和にも、先ほどの話をしたはずだからわかったはずだ。だが、大和はまったくわかっていなかったらしく、にっこりと笑って言った。
「ちょっと見てみようか」
「は?」
何をどう見るのかよくわからず、聞き返した。大和は、立ち上がって、
こともあろうに、
ドアの鍵を開けた。
「どアホ―――っっ!!! てめえのその頭は飾りもんかあああ!!?」
俺の渾身の叫びと共に、ドアが凄まじい勢いで開いた。禍々しいオーラを放つ物体が、三畳半ほどの狭い物置に飛び込んでくる。物体の正体は、もちろん御影先輩――――じゃ、ない?
「ぎゃあああああぁぁぁぁっっっっ!!!!!」
「れ、漣!?」
物体の正体を視認。そして、大和の狼狽した声を耳に聞きながら、俺は自分に飛びついてくる物体を全力で避けた。物体のほうは、遮るもののない美しい放物線を描きながら、硬質な鈍い音とともにドアの反対側の壁にぶつかり、再び同じような音を立ててそのまま床に落ちる。俺としては、そのまま壊れて動かなくなってでもくれたら万々歳だったのだが、そんな都合よく世界は動いてくれない。青いビロードをまとった物体は無事だった。
例のおぞましきフランス人形は震える短い腕をつき、なんとか立ち上がった。そして、硝子の目の焦点を俺に合わせ、無い声帯から声を出した。
にがさないって、いったでしょ
いやいやいや、そんな心の狭いこと仰らずにですね、お願いですから逃がしてください。
俺は恥も外聞も危機感もかなぐり捨てて、大和の背後に隠れた。不本意だが、正直、あとで恩を五十倍にして返さなければいけないことを抜きにしたら、最高の盾に違いない。
大和のほうはなぜか嬉しそうに、
「やっぱり漣はオレに頼ってくれるんだね」
などとほざいていた。
「おまえだろうと誰だろうと、俺にとっては、あのフランス人形をどうにかしてくれた奴だけが頼りだ」
「その言葉、忘れないでよ」
できるだけフランス人形と俺の間に大和を置こうと努力する俺を横目で見て、大和は、なぜか、唇を歪めて楽しそうに笑うとフランス人形に向き直った。
「いいかげんに諦めることだね、ラシェル」
「ラシェル?」
「その人形の名前だよ。元の持ち主がつけたんだ」
怪訝に思って聞き返した俺の言葉に、背中を向けたまま答えながら、大和は右手を前に出した。その右手に握られているのは―――
「ライター……?」
おそらく百円均一。
青いケースのそれに、かちりと音を立てて火を点す。フランス人形―――ラシェルがびくりと身を振るわせた。……人形の癖に器用な。
「ねぇ、ラシェル。君は、自分が何でできているか知っているかい?」
むしろお前が悪役だろと言いたくなる酷薄そうな笑みを浮かべ、大和が問う。その声を聞いて、俺は冷たいものが背筋を這うのを感じた。
怖い。
――今更だが。
ライターを少し持ち上げて、大和はことさらゆっくりと、だがすらすらと暗唱した。
「セルロイド。セルロースの硝酸エステルである硝酸セルロース約75%に樟脳約25%を加え練ってつくったプラスチック。玩具・文房具・フィルム・眼鏡枠など日常生活に広く利用されたが、引 火 し や す い の で、現在は他の合成樹脂にとって代わられた、アレね。」
何でそんなこと暗記してんだよ。
背中を壁に押し付けて、進退窮まったラシェルという名のフランス人形は、ふい、と顔を上げた。
その硝子の双眸が、俺を捕らえた。なぜか、その硝子の瞳の虚ろな輝きが、悲しげに見えた。
桃色の唇が、ゆっくりと動く。
たすけて
……助ける義理など皆無だ。むしろ、俺は被害にあっているのだ。なのに、同情を覚えたのはなぜだろう。大和の腕を掴んで、止めようとしてしまったのは、なぜなのだろう。
「なあ、大和……なにも、燃やすことはないんじゃないか?」
「……正気なの、漣」
振り返った大和は俺を見つめる。その表情は、厳しい。
「自分がこの人形に祟り殺されそうになっていたのに。 この人形が動いていたのは、間違いなく君に害を与えるためだっていうのに」
「でも……」
それでも、俺は人形を庇おうと試みた。
「それはこいつの意思じゃ……」
「人形に心や意思なんてない。あるとしたら、それは人間に作られたもの。漣、この人形には、君を害そうと思う心しかないんだよ」
その言葉に、俺は人形に目を向けた。人形は、首を左右に振る。音のない言葉が、空を伝わる。
ちがう ちがうの
わたしは
その必死な様子に、俺は大和の言っていることが信じられなかった。
「なにかの、間違いじゃな……」
「それとも、漣」
急に大和の様子が一変した。眉間に皺が寄り、不快そうな表情。点火したままのライターの火が、ゆらりと揺れて、大和の顔に落ちた影が、不気味に踊る。
「君、まさかそういう趣味なわけ?」
「へ?」
どういう趣味だ?
「まさか、このオレよりもあの人形をとるつもり?」
「は? ……はあああああぁぁぁっっっっ!?」
そういう“趣味”か!
「そっ……んなわけないだろう! 俺はただ、その人形がかわいそうだと思って、助けてあげたいと思っただけだっての!」
「人形なんて人間の造ったもの! 哀れむ必要なんかないっ!」
言い切り、大和はさあ退けとばかりに俺を押しのけた。俺はよろめいて、狭い物置の壁にぶつかった――と思ったら、後ろはドアだった。ラシェルが飛び込んできたときのまま、開けっ放しの。
バランスを崩し、倒れる――――――!
と思ったら(二度目)、何か柔らかめのものに、ぼす、と受け止められた。
「な、に……?」
「ふふふ……」
戸惑って動けずにいると、俺の耳元で気味の悪い笑い声が。
「みっ御影先輩!?」
「おっと」
背筋に悪寒が走り、慌てて離れようとした俺を、御影先輩は羽交い絞めにして抱きとめた。
「つ・か・ま・え・た♪」
「何すんですか、放してください!」
「イヤ☆ これから尾田くんに呪いを試してみるんだもーん☆」
「『イヤ☆』じゃなくて放してください俺に呪いをかけるのもやめてくださいそして気持ち悪いからぶりっ子語尾もやめてください!」
「まー、失礼な子ね」
む、と御影先輩は唇を尖らせた。ようやく俺の危機的状況に気づいたらしい大和が声を上げた。
「漣! 御影先輩!?」
「大和! どうにかしろ、この人!」
「え、ちょ、ちょっと待って、まずラシェル……って、あ!」
「どうした!?」
急に大和が大声を上げた。何か攻撃でも受けたのかと、俺は御影先輩の腕の中でもがいて大和を窺おうとした。
「そーいえば……」
「そういえば? どうした?」
「……ラシェルって」
どうにか俺の視界に納めることに成功した大和は、間抜け面をしていた。
「御影先輩からもらったんでしたっけ?」
一拍の静寂。
「忘れてたのっ!?」
酷く衝撃を受けたらしい御影先輩が叫んだ。大和は悪びれもしなかった。
「忘れてました」
「そんな……」
御影先輩はぐらりとよろめいたが、俺を捕まえていた腕の力は緩まなかった。
「せっかく、坂下くんのために、全力を持って造ったのに……」
「っておいこら大和! じゃあ今回のラシェルの暴走に御影先輩が絡んでるってことは」
「大いにありうるっていうかたぶんこの人のせいだ」
冷たく御影先輩を見据える大和の背後で、ラシェルが怯えているように縮こまっているのが見えた。なんだか哀れだ。大和は、ラシェル本体より、先輩をどうにかすればいいと判断したのか、ライターを消した。
「この人が、ラシェルに何か仕組んだんだ」
「そんな!」
御影先輩はがばりと顔を上げ、大和を見つめた。目じりには涙、瞳には星が宿っている。
……泣いてもいいですか。
「私は何もしていないわ! ちょっとばかり呪力が篭もった硝子玉を目にはめ込んだのは確かだけど」
「しっかり何かしてんじゃねえか!」
「呪力は勝手に篭もってたのよ、私は何もしていないわ!」
「詭弁だ! 屁理屈だ!」
俺は怒鳴ったが、御影先輩はそれを無視して、一般人である俺には理解不能な世界の話を進めていく。
「呪力の篭もった硝子玉は、恋の力を宿しているの」
KO I?
その場の雰囲気には場違いにも感じられる言葉に思わず目が点になった。
「いつの時代の少女マンガの設定ですか」
「やっだー高校生男子のくせに少女マンガなんか読んでるの尾田くんキッモーい」
「今時少女マンガくらい読むでしょう。だいたいそんな口調で喋るあんたにだけは言われたくねえ」
「……で、話を戻して?」
「さすが坂下くん、司会者の素質があるわ」
手放しで大和を褒める御影先輩。その言には首を傾げざるを得ない。
「それで、ビーナスの御加護を受けたその硝子玉は由来をたどれば十二世紀末、地中海沿岸の……」
略。
「……というわけで、硝子玉は、恋愛成就の力を宿すようになったの」
「なるほど」
大和は大きく頷いたが、俺は聞いていなかったので、何がどういうわけだかまったくわからない。だがたぶんこれから俺が生きていくには関係ないので、かまわない。
「それで、なんで先輩はそれをラシェルの瞳に入れて、オレに?」
大和が本題に入ったが、俺はもう答えが予想できた。
「そ、それは……」
予想通り、御影先輩は顔を赤らめ俯き、上目遣いに大和を見つめる。俺の頭の上で。
……気絶してもいいですか。
「それはもうわかったからいい」
「わかったの、漣!? 凄い、さっすが、オレの親友!」
「わからないお前がどうにかしてんだ!」
『親友』部分は否定すると呪われます。
「とにかく、それでなんでラシェルが動き出すんですか。変な力使ったり」
最初のドアが閉まっていたら、俺はラシェルと閉じ込められるところだった。
「んー」
御影先輩は、頬に両手を当てて首を傾げた。ぶりっ子はやめてくれと頼んだのに。とりあえずその動きで俺は自由になったので、そのことに気づかれぬうちにそっと先輩から離れ、この場にいる人間(+それ以外)の中では辛うじて一番マシといえる大和に近づく。
「それはたぶん、ラシェルがあなたに恋をしたのではないかしら」
……あなたにって、
「誰に」
「尾田くんに」
ざわ、と急に大和の目の色が変わった。大和は180度回転、物置の隅で縮こまっていたラシェルに向き直り、再びライターを灯す。
「ラシェル……」
低い声は、地を這うかのようにおどろおどろしかった。ラシェルは救いを求めるかのように、俺を見た。俺は、幼馴染が発するどす黒いオーラに圧倒され、立ちすくんでいた。
「人形の分際で、漣に片思いだって……?」
何かを訴えようと、ラシェルの桃色の唇が、作り物の唇が、音もなく動いて、言葉の形をなぞる。
某国の女神像の如くライターを高く掲げ、大和は叫んだ。
「成敗っ!」
ラシェルが
泣いているような気がしたんだ
「どけっ!」
俺は大和を突き飛ばした。
「んぎゃっ」
大和がどこかへ転倒したが、俺は無視した。物置に飛び込んで、ラシェルに向かって走る。ラシェルは観念したかのように、壁の前に直立して微動だにしなかった。俺は慣性をそのまま利用して、ラシェルを、その頭を蹴りつけた。
壁と足の裏の間で人形が砕けた。
朝が来た。
まさか、それを昇り来る朝日を眺めながら実感することになろうとは、昨日の就寝時には思わなかった。窓から差し込む真新しい陽光が目に沁みる。
坂下家一階居間。
ソファーに座りながら、俺はぼうっと太陽の光を顔に受けていた。
「……大和よ」
「なにー?」
「俺は今日、前々からの決意を新たにした」
「どんなー?」
「二度とあの地下室には入らない」
「漣、それ言うの三度目」
……そういえば、中学入学のときも言った気がする。二年半で敗れたが。高校入学時に言ったのは、今日――いや昨日までの一年半しかもたなかった。周期が短くなっているような……だがそれもこれで終わりだ。
「いや、俺はここに誓う。ぜってーに二度と入らない」
「はいはい。足下がってるよ、上げて」
「……」
俺は言われるままに足を上げた。その足に、大和が手際良く包帯を巻いていく。
ラシェルを蹴ったときに、足に怪我をしたのだ。裸足だったので。
「なんで裸足で蹴るかなー」
「んなこと言われても、真夏に靴下なんか履いてねーよ。その直前まで寝てたし、ベッドも慌てて飛び出したから、スリッパ履く余裕無かったし」
「だったら蹴らなければいいのに。セルロイドってのは、プラスチックだって言っただろー」
そりゃそうなんだが。
「お前にまともなこと言われるとムカつくな……」
「なんでー?」
「なんでだろうな」
適当にはぐらかした。素直に答えて怒らせることもない。
庭で御影先輩が焚き火をしている。人形の欠片を燃やしているのだ。先輩曰く、「念を消すには炎が一番」らしい。硝子破片は普通にゴミに捨てていたが。それが呪力の源じゃなかったのか?
「……漣はさ、優しいんだよね」
「は?」
何だ、唐突に。
大和は手を止め、包帯を巻いた俺の足を持って、じっと見つめている。
「たかが人形に感情移入しちゃって……最初はあんなに怖がってたくせに」
「そりゃあ、突然だったから」
大和は俺の足から手を放した。
「その優しいところが、漣のいいところなんだろうけどさ。オレはそういうところが好きなんだけどさ――きっといつか、その優しさは災いするよ」
「……そう?」
「うん」
そして大和は俺を真っ直ぐに見た。
「でも大丈夫!」
「さっきと言ってることが逆転しているが、その根拠は?」
「オレが守るから!」
……むしろお前と一緒にいると、御影先輩やら何やら、変なものばかり来る気がするんだが。特にお前。特にお前。
けれども、大和のきらきらした目を見て、俺はなんとなく、微笑んだ。
「……ああ、そうだな」
大和も、微笑んだ。
「……だから、そういうところが優しいんだってば」
「ん? 何か言ったか?」
「別にー?」
大和は立ち上がった。
「じゃあ、オレ、これ片付けてくる」
「おう」
大和は救急箱を抱えて、居間を出ていった。
太陽の光が目に沁みる。目を閉じると、桃色の唇が見えた。ゆっくりと動いて言葉を形作る。
ながらえたいとはおもわないの
せめて
せめて あなたにこわされたいの
窓から顔を背けて目を開くと、ちょうど視界に庭が入った。
薄くてよく見えないほどの煙がゆっくりと昇っていた。