0話.プロローグ
――壮大な冒険譚。広大な異世界。
そんな御伽噺に憧れを抱きつつも、
それを創作だとしてどこか諦めていた。
しかし、いま眼前に広がる景色はまさしく御伽噺のそれであった。
どこまでも広がる、白い光を湛えている何も無い部屋―――
そう形容したものの、それは「空間」と言うべきものであった。
そんな曖昧な場所に、妙に現実味を帯びたスーツ姿の人間が佇んでいた。
それはこちらに気がつくと微笑を湛え、
「おや、ようこそいらっしゃいました。」
そう言いつつ椅子から立ち上がり、軽く会釈をした。
眼前で起こっていることが未だ把握出来ず、呆然と座り込んでいると
それは言葉を続けた。
「驚くのも無理はありません。そちら側にはなかなか馴染みのないものですからね。」
――そちら側?
「ああ失礼、何でもありません。こちらの話です。」
まるで心を見透かしたかのようにそれは付け加える。
「……ここは?」
ようやく口をついて出た言葉は、随分と間抜けなものであった。
「ここは門。そうですね……
あなた方の言葉で言えば『異世界』への入口と言ったところでしょうか。」
創作のようなことを平然とした顔で言い放つ。
普通なら信じられないような話だが、冷静さを取り戻しつつある頭がかえって現実感を希薄にするのであった。
――椅子が無い。
先程までそれが腰掛けていたはずのものがない。
もはや「腰掛けていた」こと自体が嘘かのように、そこにあるべきものが
跡形もなく無くなっているのだ。
そして、もうひとつ。
「貌」だ。
先程から眼前の人物をそれと形容しているが、
それは「わからない」からである。
雌雄の区別がつかない。かといって中性的であるかと言われればそうではない。常に湛えている微笑も張り付けたようなものに見える。
美しい貌ではある。だがどこか機械的で、得体の知れない恐怖を感じる。
訝しんでいるのを悟ったのか、それは再び口を開く。
「驚くのも無理はありません。しかし|そちら側に貴方はもういないのです。」
その言葉が、希薄になっていた現実感を再び呼び戻すのであった。
――思い、出した。
迫る鉄の塊。歪む視界。どよめく人々。
血。 熱。 痛み。 喧騒。
それらが一度にフラッシュバックする。
ふいに喉の奥から熱が込み上げて――
「…………っ」
「失礼。嫌な事を思い出させてしまいましたか……。
しかし、これで理解して頂けましたでしょうか?」
芝居がかった仕草で悪びれるそれ。
申し訳なさそうにする表情もどこか機械的で、さながら道化のようにも見えた。
だが、それの言う通り理解した。
なぜ抜け落ちていたのか不思議な程に生々しい感覚。
今のは間違いなく自分自身が経験した事だ。
そんな心的外傷じみた現実を認識した途端、
眼前に映る御伽噺のような物事が現実感を帯びてくるとは皮肉なものである。
――いや、しかし待て。
この天井も床も曖昧な「空間」が現実だとするなら――
それの言ったことが現実だとするなら――
またも心を見透かしたように微笑を湛えつつ、それは言い放つ。
「そう。そちらで死んでしまったあなたをどこかの世界に『置き換える』。
そうですね……あなた方の言葉で言えば
『異世界転生』と言ったところでしょうか?」
――異世界転生。
現代に生きる平凡な少年少女らが
不慮の事故等で死亡した末に
まるで御伽噺のような世界で
第二の生活を歩む、という創作――
そう考えていた。が、皮肉にも現実味を帯びてきたこの状況が創作と類似してしまっている。
「そちら側にもう貴方は存在しません。
言い方はアレですが、│形骸化した《死んだ》貴方の魂を私が再利用させて頂く形になりました。」
淡々と物騒な事を告げるそれは、
相変わらず張り付いたような微笑を湛え、こちらを見据えている。
「まあ、貴方は深く考えずともよいのです。
単純に異世界で第二の人生とやらを謳歌して頂ければ結構です。
それに……こういうのはお好きではありませんか?」
またも心を見透かしたように言い放つ。
――図星である。
異世界。冒険。魔法。
そういった御伽噺の類に憧れを抱いているものの、
どこで「そんなものは有り得ない」と諦めていた。
しかし、その創作が現実だと認識させられた今、好奇心が懐疑心に勝った。
「……何をすればいいんだ?」
その言葉を聞いた途端、それは先程より表情に笑みを浮かべ、
「それは『異世界転生』を希望すると受け取っても
宜しいでしょうか?」
――首を縦に振ることで返す。
「おお、素晴らしい……懸命な判断かと思われます。」
大袈裟に、だが乾いた拍手をしてみせる。
一見丁寧なように見えて、人を食ったような態度。
やはり道化か何かなんじゃないだろうか。
「では、さっそく『転生』といきましょうか。
そちら側には『善は急げ』という言葉がありますからね。」
ぱちん、とそれが指を鳴らすと
いくらなんでも唐突過ぎないか、と思う暇もなく。
――視界が、歪む。
抗えぬ程の眠気。
心地よいのがかえって恐ろしいくらいの睡魔。
薄れゆく意識の中、それが口を開くのがわかった。
「ご安心ください。次に目覚めた時には『異世界』ですよ。」
再びこの「空間」に1人きりになったそれは、深く溜息をついた。
「やれやれ、あんな代物を押し付けてきて
『死なないように』とでも言いたいんですかねえ」
1人になっても芝居がかった仕草は止めない。寸劇でもしているかのようにそれは天を仰ぐ。
そして、まるで誰かに向けて話すような口調でこう言い放った。
「まあ……どうせあれも壊れてしまうと思いますがね」