4時44分の鏡(学校の七不思議)
高木先生が黒板に書こうとしたとき、チョークはするりと落ちて、教室の床に花火みたいに飛び散った。
真奈美の席のちょうど目の前だったので、いちばん被害を受けたのは真奈美だった。
「せんせーい、やめてよー!」
真奈美は悲鳴みたいな声をあげた。
チョークは細かく砕け散って、真奈美の上靴に白い点々をつけた。
「あ、ああ……真奈美、チョーク拾って」
先生は、半分すまなそうな顔をして、もう半分は当然みたいな顔をして真奈美に言う。
真奈美はいやいや、席の前に散らばるチョークの破片を拾った。
なんで私ばっかり。真奈美は思った。
だいたい、真奈美は高木先生があまり好きじゃなかった。
おじさんの先生だし、カッコよくないいし、最近は痩せてきたけど、ちょっと前までは太ってたし。
それに近ごろなにかと人に命令する。
あれをしろこれをしろってうるさい。
そのほとんどが、先生が自分でやればいいことなのに、わざわざクラスのみんなに命令するんだ。
真奈美はようやく、チョークの破片をすべて拾いおわった。
真奈美が教室のゴミ箱にチョークを捨てて席にもどったとき、高木先生は新しいチョークを出して、もう一度、黒板に書こうとした。
そのとき、するりとまたチョークは落ちて、同じように床に砕け散った。
「真奈美、拾って」
高木先生が命令した。
「もういや!」
放課後、真奈美は泣きそうだった。
親友のみず希に不満をぶちまける。
「高木先生って私ばっかいじめるの!」
「真奈美だけじゃないって。私もいやなことされたりさー」
「ほんと? みず希も?」
「こないだ先生の席に給食持ってったらさー、思いっきりセキかけられたしー」
「ホント?」
「さいてーだよー」
みず希は吐き捨てるように言った。
みず希が自分と同じ気持ちだとわかって、真奈美は少しうれしくなった。
「それにさー」みず希はまだ続ける。「先生、給食ひとくちも食べないの。だったら持ってこさせないでよねー」
「ホントだね。あ、もしかして先生、ダイエットしてるんじゃない?」
「あー、めっちゃ痩せてきたよね」
「でもさ」真奈美は言った。「先生、ダイエットしてもカッコよくならないよね」
ははは、とふたりで笑っていると――
「おい!」
と教室のドアから声がした。
見ると、高木先生がのぞいてる。
え? うそ?
真奈美とみず希は心の中で思った。
「真奈美、先生の机にあるみんなのノート、職員室まで持ってきて」
高木先生が、木の枝みたいな指で指した先……
たしかに、先生の机の上にはノートが山積みになっている。
授業で宿題を集めたから、このあと採点するんだ。
「みず希、お前は早く帰れよ!」
先生はそう言って廊下に消えた。
「うわー、最悪」
真奈美は思わず言った。
さっきの話、もしかしたら先生に聞かれてたかも。
真奈美はどんどんいやな気持ちになっていった。
「真奈美、手伝う?」
みず希が言ってくれた。
「ううん、大丈夫、私ひとりで持っていけるから。それよりもさ、さっき先生に言われたでしょ?」
「早く帰れ、って?」
「うん。私のこと手伝ってたら、また怒れるかもしれないから」
「そうねー……」
みず希はうーんと考えながら、顔を上にあげた。
考えごとするときの、みず希のクセだ。
「あっ!」みず希が言った。「もうすぐ4時44分だー」
みず希は教室の前にかかってる時計を見ていた。
時計の針は4時40分をまわってる。
「ホントだ!」
真奈美も時計を見た。ふたりはとつぜん、ぞくぞくした気分になった。幽霊に背中をそーっとなでられた感じ。
「あのウワサ……」
真奈美はみず希の顔を見た。
みず希も真奈美を見て言った。
「学校の七不思議……4時44分に、階段の踊り場にある鏡を見たら……」
「やめてよー」
真奈美が声をふるわせたけど、みず希はつづける。
「……自分の死ぬときの姿が見える」
言いおえたみず希の顔は、ちょうど夕陽が半分だけ照らして、もう半分は影になって、闇のように暗かった。
「私、帰るね!」
みず希はカバンを持って、あわてて教室から出ていった。
廊下から「あ、先生さようならー」とみず希の声がした。
「おい!」
高木先生がドアから顔を出した。先生がまた、廊下から真奈美を見ている。
「ノート、まだか?」
「あ、はい……」
真奈美は、あわてて机の上にある山積みのノートを両手で抱えるようにして持った。
そのままふらふらしながら、教室のドアまで歩いていく。
たくさんのノートで前が見えない。
真奈美が廊下に出ると、
「半分もってやるから」
と、高木先生が、真奈美の抱えたノートをごそっと半分とった。
だったら最初っからそうすればいいのに。
真奈美は心の中で先生に文句を言った。
ふたりは、ノートを抱えて廊下を歩く。
その先に階段があって、1つ上の3階に職員室がある。
真奈美と高木先生は、廊下を端まで歩いて階段まできた。
上にあがればいいんだ、と真奈美は思った。
それですこしは安心できた。
だって、七不思議の鏡は、1階と2階の間の踊り場にしかない。
3階に上がるから大丈夫だ。
そう思ったとき、真奈美の前を歩く高木先生がぐらりとゆれた。
さっきからあぶなっかしく、ふらふら歩いてたけど、階段の前で大きな波をかぶったみたいに、左に大きくゆれて先生は転んだ。
先生が持っていたノートの束が、階段にぶちまけられる。
ノートは飛べない鳥みたいに、白いページを羽ばたかせて、階段の下へ落ちていった。
真奈美が階段の下をのぞきこむと、窓のない階段の踊り場は、うす暗く、不気味だった。
2階と1階の間なのに、まるで地下に降りていくみたい。
その暗い踊り場に、たくさんのノートが、墜落した白い鳥みたいに横たわっている。
でも、ノートの数がさっきよりも多いみたいだ。
数が増えた? そんなわけない。
踊り場の、左の壁一面に、大きく古い鏡が見えた。
そうだ。鏡が、落ちたノートを映しだしてるんだ。
「ああ……まずいことした」
真奈美の横で、しぼり出すような声が聞こえた。
高木先生が、ひざに手をついて、なんとか立ちあがった。
「拾いにいかないと……」
高木先生は手すりに手をかけて、1段1段、慎重に階段を降りていく。
上から見ると、先生はまるで老人みたいだ。
どうしよう……。
真奈美は思った。
先生を手伝って、自分も拾いにいった方がいいのはわかってる。
だけどいま、何時何分?
さっき教室で時計を見たとき、4時40分をすぎていた。
あれから数分たったと思う。
じゃあ、いまは……。
もしノートを拾いにいって、鏡の前で4時44分になったら……。
自分の死ぬ姿が、鏡に映っていたら……。
ドタッと下で音がした。
見ると階段の踊り場で高木先生が倒れてる。
「先生!」
真奈美は階段を駆けおりていた。
踊り場まできて先生に手を貸す。
「ごめんな……」
先生が立ちあがって、弱く細い声を出したとき――
かちっ! なにかが鳴った。
もしかしたら、先生がはめてる腕時計の音かもしれない。
それか、教室の時計の針が、59秒から60秒になって、1分進んだ音かもしれない。
ふだんは聞こえるわけもない音が、真奈美には、はっきり聞こえた。
そして、思わず顔をあげた。
目の前には、踊り場の大きな鏡があった。
鏡は暗いはずなのに妙に明るくて、真奈美と、その横に立っている高木先生を映していた。
でも……左に立っている真奈美の姿は、鏡の中では老婆だった。
12歳の姿じゃなく、腰の曲がった、小さなおばあちゃんだった。
白い髪と、しわの刻まれた顔。
病院の入院患者のような、白い服を着ている。
信じられなかった。
真奈美は鏡に向かって、ゆっくり右手を挙げた。
鏡の中の老婆も、右手を挙げた。
私なんだ……。
真奈美は思った。
4時44分、踊り場の鏡で見てしまった。
これが、死ぬときの私……。
真奈美はさらに驚いた。
隣にいる高木先生も、やっぱり鏡に映っているけど、その姿は、いまとまったく同じだ。
歳をとってない。
おなじようにおじさんの顔で、おなじ髪型で、着てるスーツの色だけちがう。
先生も鏡を見ていた。自分の姿をはっきり見てる。
そうして、気づいたみたいだ。これが、自分の死ぬときの姿なんだと。
それは、あと何十年後でもなく、何年後でもなく、ほんとうに、もうすぐなんだと。
「先生……」
真奈美は思わず声を出した。
鏡の中の老婆も、おなじように口を開く。
鏡の中の先生が、老婆の方を見て言った。
「みんなには、ないしょにしてたけど、先生、病気で、もう長くないんだ」
真奈美は、横を見られなかった。
じっと、鏡の中の先生だけを見つめた。
「先生、死ぬまで、すこしでも長く、みんなといっしょにいたいんだけど……でも、こうやって鏡を見たら、もうすぐなんだな」
鏡の中の先生が、さびしそうに話してる。
「真奈美にも、迷惑かけたな。先生、疲れやすくなって、いろんなことができなくなって……だから手伝ってもらってたんだけど、真奈美、いやだったんだよな」
さっき、教室でみず希と話してたこと、やっぱり聞こえてたんだ。
真奈美は後悔した。
どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。先生のこと、なにも知らなかったくせに。
「先生、死なないで!」
真奈美は叫んだ。
「死にたくない。でも……」
鏡の中で、悲しい顔をしてる先生が、ふっと笑顔になった。
「でも、真奈美はおばあちゃんになるまで、長生きできるんだ。先生のぶんまで、長く生きて、ずっと、楽しくすごせるんだ」
真奈美の目から、涙がこぼれた。
鏡の中の、おばあちゃんの真奈美も泣いている。
「真奈美……」
鏡の中で、先生が言った。
「ちゃんと生きるんだぞ」
「はい……」
真奈美は、泣きながら返事をした。
涙でうるんだ視界の中で、真奈美は見た。
最後に、鏡の中の先生が、やさしく笑った。
―終―