泣ける怖いはなし(七不思議、妖怪、怪談などの短編集)

引きずりこまれるプール！（学校の七不思議）

　夜が迫ってる。

　すぐそこまで。

　波かさを増した海の向こうに、太陽がおぼれていくのが見えた。

　浜に吹きよせる風が冷たくて、

「もう帰ろう」

　アキラに言った。

　アキラは仁王立ちしたままだ。沈んでいく夕陽を見つめてる。背中だけが大きく見える。

「もうギブアップかよ」

　ふり返ったアキラの顔は、ニヤリと不敵な笑みだ。

「俺はもうひと泳ぎするぜ。たくさん練習して、つぎの大会は俺の勝ちだな」

　言いながら、バシャバシャと海の中へ走っていく。

　これがアキラだ。強気で、勝ち気で、僕を挑発してくる。

「おい待てよ！」

　僕もあわててあとを追う。アキラになんか、負けるもんか。

　アキラはザブンと波の中へ飛びこんだ。僕もザブンと海の中へ。

　すぐに冷たい波が押し返してくる。すごい力で、浜にもどれと命令してくる。

　だけど、負けるもんか。

　二かき、三かき、四かき……海をかき分ける。ぐい、ぐい、ぐいと体が前へ進んでいく。

　泳ぐ僕は、誰にも負けない。海にも、アキラにも。

　前を見た。波の向こうにアキラが見える。スイスイと、すべるように泳いでいる。

　さすがアキラだ。水泳大会、去年の覇者。一位はアキラで、僕は二位。だけどその前の年は、僕が一位でアキラは二位だった。

　つまり僕たちは、毎年一位を競い合うライバルだ。

　今年。大会はすぐそこまで迫ってる。絶対、僕が一位になる。なるんだ！

　海を蹴った。スピードをあげる。ぐいぐいとアキラとの距離を縮め、ついに、抜き去った。

　どうだ！

　水泳大会は学校のプールで行われる。二五メートル一本勝負。僕たちはよきライバルとして、ずっといっしょに練習をつづけた。僕は短距離のスピードに自信があったけど、アキラはスタミナがあって、後半になってもスピードが落ちない。

　夕暮れの海を僕たちは泳ぎつづける。太陽が沈みきらないように、地平線をどこまでも、追いつづけるように。

　海はプールと違う。うねる波が体力を削る。冷たさが体温を奪っていく。

　僕はもうヘトヘトだった。いつの間にか、アキラは僕を追い抜いて、気がつくと、先へ先へと行ってしまってる。

　僕は泳ぐのをやめた。そのとたん、波が無慈悲に顔にあたってくる。

「アキラ！」

　僕は叫んだ。

「もうダメだ」

　波のあいだから、アキラの頭が見えた。

「俺の勝ちだな！　大会も俺がいただくぜ！」

　いつものように勝ち気な言葉。ムカつけど、あいつの体力には叶わない。

「た、大会は僕が勝つよ！　でも今日はもう帰る！」

「ちぇっ！　そんなんじゃ二位にもなれな――」

　ふいに、言葉が消えた。

　突然、波と風の音しかしなくなった。

　あれ？　と思って見たけれど、アキラの姿が消えている。どこにもない。

「アキラ！」

　返事がない。

　疲れてたけど、アキラのいたところまで泳いだ。だけど、いない。どこにもいない。

　見渡すかぎり、海だ。

「アキラ！」

　叫んだ。アキラが、どこにもいない。

　海の中に目をこらす。真っ暗で、自分の手足もよく見えない。

　暗く恐ろしい海の中を、ひとりもがきながら、アキラを探した。

　そのとき、足が引っぱられた。

　すごい力で海中に引きずりこまれる。

「うわああ」

　あわてて手をばたつかせる。足をふって引き剥がそうとする。だけどグイ！　グイ！　と引っぱられる。顔が海に沈んで、塩辛い海水が口に流れこんでくる。

　ゴボゴボ……おぼれかけたとき……

　足をつかんでいた力が、なくなった。

　自由になった。僕は手足を動かして、体勢を立て直す。

　危ないところだった。いまのはいったい！

　僕のすぐ横に、ゴボゴボと泡が浮かびあがってきたかと思うと、

　ドバッ！

　アキラが海から顔を出した。

「あははは！」

　笑ってる。

「驚いただろ！」

　あ、あきれた！　こいつのしわざだったんだ！

「おまえかよ！」

　ほっとしながら怒った。だけどアキラは悪びれない。濡れた顔を近づけてきて、

「おまえ、もうダメだっていいながら、ここまで泳げただろ？」

「た、たしかにそうだけど！」

「それが練習ってやつだぜ！　もうダメってとこからがホントの練習なんだ！　行くぞ！」

　アキラはまた泳ぎだそうとする。

「待って！」

「なんだよ」

「もう終わりにしようよ。だって――」

　太陽の姿は、もうない。置いてきぼりを食らったわずかな明かりだけが、空に少しだけ、残っていた。

「もう夜だよ。これ以上は本当に危ないよ」

「なんだよ、こっからがホントの練習なんだぜ」

　なぜか、アキラの顔がさみしそうに見えた。

　それでも僕は限界だった。歯がガチガチと音をたててるのを見て、アキラもわかったみたいだ。

「じゃあよ、そこにいろよ、俺はあそこの島まで行ってもどってくるからよ」

「でも――」

　僕がなにかを言い終わる前に、アキラはもうザブザブと、波をかきわけ進んでた。あっという間に姿が小さくなっていく。でも……

　僕には「島」なんか見えなかった。ここから先に陸地はなく、ただ海と、波と、迫りくる夜だけがあった。

　　　＊

　夜になっても捜索はつづけられた。

　浜はたくさんのライトで照らされ、昼間のように明るかった。いったいどこからやってきたんだ、っていうくらい、人が大勢いた。

　船が何艘も沖に出て、ダイバーが何人も潜った。

　生き物のように暗くうねる海面から、ダイバーが顔を出すたび、見つかったのか？　とみんなは息をのんだ。

　何度潜っても、何度ダイバーが顔を出しても、アキラの姿が現れることはなかった。

　僕は渡された毛布にくるまって、パトカーの中で事情を聞かれた。

「島まで行ったら、もどってくるって言ったんです……」

「島って、どの島？」

　僕には答えられなかった。

　警官が窓の外をながめた。

　僕も見た。

　浜から伸びるライトが、海を、その向こうを照らしていた。

　闇を。

　　　＊

　ギラギラと水面がゆれる。太陽を反射させて、プールが魔法のように輝いてる。

　その中で、一組から三組の児童が、身を浸す。熱い太陽と冷たいプール。楽しそうだ。

　僕はひとり、プールのそばに座ってる。静かに、体育座りをして。

　水面がまぶしい。みんな、輝いてる。

　見てられなくて、目をつぶる。

　暗くなったまぶたの向こうからも、光りがわかった。

「時間だ。一組あがれ」

　先生の声が聞こえた。ザブザブとプールからあがってくる音がする。僕の横にドサドサ腰かける音。冷たいしずくが腕にかかった。

　ずっとこうしていたら、眠ってると思われるだろうか。そうしたら、話しかけられなくて、すむかもしれない。先生に怒れるかもしれないけど、同級生にプールに入らない理由を聞かれるよりはマシだった。

　あの日から、僕は泳いでいない。水に入れない。

　アキラはまだもどってこない。行ったきり。

　水泳大会は、来週なのに。

　もう大会なんて、どうでもいい。できればこうして、目を閉じてる間に、過ぎ去ってほしい。勝手にみんなで泳いでほしい。僕や、アキラなんか関係なく。

「きゃあああ」

　突然、悲鳴があがった。

　驚いて目を開けた。

　声の方を見ると、プールの中で、女子が手をあげもがいてる。

　深くもないプールでおぼれてる。どうして？

　みんながいっせいに立ちあがり、生徒たちが一目散に駆け寄っていく。先生もプールに飛びこんだ。

　しぶきがあがって、あっという間だった。女子は救出された。

　プールサイドに寝かされてる。どうやら大丈夫だったみたいだ。みんなの中に、さーっと安心が広がっていく。

　僕の心の動揺も、ゆっくりだけど、徐々に消えていく。無意識に立ちあがろうとしてた。浮いた腰を、静かにおろす。熱いアスファルトの感触がした。

「七不思議だ！」

　ウワサ好きな太一の声がした。

　横を向くと、太一は僕じゃなく、クラスメイトたちに話してる。

「引きずりこまれるプール！　学校の七不思議だよ。足を引っぱられるってやつ！」

　きゃーと女子の、悲鳴のような笑い声があがった。怖い話を喜んでる。

　七不思議、バカらしい。

　そう思った。

　　　＊

　それから同じような事件が起こった。

　何人も、プールで足を引っぱられた。そこにはだれも、いないはずなのに。

　だれかのイタズラだとか、水の流れが足を引っぱったんだとか、いろんなことが言われたけど、真相はわからないままだった。

　僕は嫌だった。そんなウワサが広まっていくのが。

　七不思議の話を聞くたびに、アキラのことを思い出した。

　僕の足を引っぱって、ふざけていたアキラ。

　あの島まで行ってもどってくると言ったアキラ。

　そうして、もどらなかったアキラ。

　僕は泣かなかった。アキラがいなくなっても、どんなに大人たちに怒られても、じっとこらえた。アキラの友達に責めれた、近所の大人に陰口をたたかれた、それでも僕は、下を向いて目をつぶった。涙が出そうになったら、唇を噛んで痛みでごまかした。

　水泳大会は三日後に迫ってた。

　その日、放課後。僕は担任の先生に呼ばれた。

　プール学習を受けないままだと水泳大会に出られない、先生はそう言った。

　アキラの事故のことはわかるけど、と先生は言った。

　わかるもんか！

　心の中で怒鳴った。

　わかるもんか……。

　先生はずっとしゃべった。僕はだまって聞いていた。けっきょく、僕がひとことも話さないので、大会に出るかどうかは決まらなかった。

　学校の玄関を出たとき、赤い夕陽が溶けながら、地平線に落ちていくのが見えた。

　先生がひとり、僕の前を通りすぎて学校に入っていった。やって来た先を見ると、プールがあった。柵が、開いている。

　どうしてだろう。

　僕はプールまで歩いていった。

　プールサイドに立って、カバンを置く。

　水は張ってある。夕陽が反射して、赤い水だった。

　風もないおだやかな水面は、まるで歩けば渡れそうな、透明なガラスのようにも見える。

　だから、平気だ。

　大丈夫、怖くない。

　自分に言い聞かせて、僕は靴を脱ぎ、靴下を捨て、片足だけ、そうだ、つま先だけならきっと大丈夫、そう思ってそっと水につけた。

　冷たい感触が、しびれるように全身を走った。

　久しぶりの感覚だ。少し、うれしくなった。

　もうちょっと深く、足を水に入れたとき、

　引きずりこまれた。

　あっという間、すごい力だ。強烈に引っぱられて水の中へ落ちた。　

　もがく。手足をバタつかせ、懸命に浮きあがろうとした。

　ダメだ。どんなにあがいても、頭まで深く沈んでいく。ぐいぐいと水中で引っぱられる。

　息ができない……

　このままじゃ……僕も……

　アキラ……

　そう思ったとき、

「あははは！」

　声が聞こえた。笑ってる。

　僕は、水の中で目を開けた。

　アキラがいた。

　笑ってる。

「驚いただろ！」

　水の中なのに、どうしてだろう、声が聞こえる。アキラはふつうにしゃべってる。

　アキラはスイスイと、海の生き物のように軽やか動いて、僕に顔を近づけてきて、ニヤリと笑った。いつもの笑顔だ。

「おまえかよ！」

　思わず僕は叫んだ。

　まずい！　水の中で口を開けたら……

　あれ？　大丈夫だ。

　どうしてだろう、苦しくない。息ができる。

「ど、どうして？」

　おまけに言葉までしゃべれる。僕も海の生き物になったみたいだ。

「おまえ、いつまでメソメソしてんだよ！」

　アキラが言った。

「メソメソなんて！」

「ウソ言うな、知ってんだぜ。プール学習にも参加しないで、いっつも横に座ったきりのクセに」

「え？　どうして」

「水の中から見てんだよ。ま、たまに今みたいに足引っぱってイタズラしてるけどよ」

　アキラはうれしそうに、水の中を円を描くように回った。

「じゃあ七不思議は！」

「七不思議？　そんなの信じてんのかよ」

　ニヤリ。いつもの不敵な笑みを浮かべたかと思うと、アキラは人魚のようにスーッとプールの奥へ泳いで行ってしまう。

「待てよ！」

　僕もアキラを追いかけて泳ぐ。

　すごい！　僕まで人魚になったみたいだ。スイスイ動ける。水と一緒になったような。僕自身が、水になったような。

　あっという間にプールの端まで泳いでアキラに追いついた。

　急にアキラがふり返る。

「おい」

　見たこともないまじめな表情だった。

「おまえ、大会でないのかよ」

「だって……」

「どっちが勝つか、勝負じゃなかったのかよ」

「だってアキラは……」

「俺はもう、出られない」

　アキラの顔が、ぐにゃりとゆがんだ。下を向いて、小さくふるえてる。

　泣くなよアキラ。おまえが泣いたら、僕まで……

　今までずっと、こらえてきたのに、どんなにつらくても、我慢してきたのに。

　アキラが顔をあげた。どうしただろう、水の中なのに、流れる涙が僕には見えた。

「俺はもどってきたんだぜ。おまえと約束したから。島まで行ったんだ。ずっと泳いで、本当に遠くまで行ったんだ。だけど、もどるっておまえと約束したから、おまえと約束したから、こうやって……」

「アキラ」

「大会、出ろよ。俺たち練習してきただろ。俺のぶんも泳いでくれよ」

「……わかった。約束する」

「ありがとな」

　そう言ってアキラは、ニヤリといつもの笑顔を見せて、水の底へ、深い深い水の奥へ、ひとり泳いで行った。

「アキラ！」

「いつか、ずっとあとになって、また会おうな。島で待ってるから」

　最後に、言葉だけが聞こえた。

　　　＊

　プールの水に体を浸す。

　集中したら、歓声は聞こえなくなった。

　ギラギラとした日差しが、肌に刺さる。

　左右に生徒が、ドボンドボンと水に入ってくる。

　水がゆれた。ゆれに合わせて、僕も動く。まるで水と、一体になったみたいに。

　レースは一回きりだ。二五メートルのタイムで競う。いつもなら、僕とアキラは最後の組で同時に泳ぐ。ふたりが飛び抜けて、速いから。

　だけど今日は、アキラはいない。僕と、ほかの三人。

「位置について」

　声が聞こえる。

　右足を壁にくっつけ、蹴る用意。腕を前にのばして――

「よーい、ドン！」

　号令とともに頭をもぐらせる。

　キックはうまくいった。前へ数メートル、大きく前進。腕をかく。ひとかき、ふたかき。僕は水の中を、流れるように突き進む。

　あっという間に先頭にたった。三人を引き離す。

　中間地点まで独走だ。

　だけど急に、力がなくなっていく。スピードが落ちていく。

　息が苦しくなってきた。体が重い。

　ずっと泳いでなかったからだ。ようやく二回だけプール学習に参加したけど。練習はそれだけ。

　ただでさえスタミナはないのに、いまの僕は一〇メートル泳ぐのがやっとの体力だった。

　腕が重い。バーベルを持ったまま水をかいてるみたいだ。体が沈んでいく。顔が水面からあがらない。ダメだ、息継ぎができない。

　泳ぐのをやめ、立ちあがった。

　その瞬間、割れんばかりの歓声が聞こえるようになった。

　僕は、プールの真ん中に立ちつくす。周囲をぐるっと観客が埋め尽くしてる。

　うしろから、泳いでくる三人の姿が見えた。

　あわてて泳ぎだす。

　それでもしばらくいくと、また立ちあがる。

　なかなか進めないんだ。二五メートルがこんなに長いなんて。

　うしろから追ってくる。だけど僕はまだ先頭だ。

　なんとか体を水に沈めた。水を蹴る。腕をまわす。

　知らない人が見たら、おぼれてるように見えるかもしれない。バシャバシャと不格好にもがきながら、水を飲みながら、前に進んでいく。

　もうすぐだ。もうすぐゴールなんだ。

　でも……あの日のことが突然目に浮かぶ。

　冷たい海、沈みゆく太陽。

　暗い海の中を、僕はひとり、帰ってこないアキラを探していた。

　長い時間だった。永遠みたいに長かった。

　わあっ！　っとまた、歓声が高まった。

　後方から迫ってきてる。

　いつの間にか僕はまた、泳ぐのをやめていた。

　もう泳げないよ。

「バカやろう」

　声がした。

「なんのために俺たち練習したんだよ」

「アキラ」

「いいから泳げよ！」

　グイッと足を引っぱられた。水中に引きずりこまれる。

　北北西小学校、七不思議のひとつだ。

　わかったよ。

　僕は力いっぱい体をひねり、腕を大きく突き出して、思いっきり水面にぶつけ、水を後方へ押しやった。

　前へ。

　左右の足を交互に振って、もうひとつのエンジンが始動する。

　前へ。

　もう片方の腕が自然に上になり、もうひとかき。

　さらに前へ！

　もう僕は、止まらなかった。アキラと練習したじゃないか。つらくても泳ぐ方法だ。自分の、さらに先へ泳ぐんだ。

　ゴールが近づいてくる。

　後方から追っ手が迫ってくる。

　もう少しだ。

　腕を伸ばす。

　もう少し。

　最後のひとかき。

　僕とアキラの約束だ。

　せいいっぱい、ちぎれんばかりに伸ばした手の先が、壁にふれた。

　プールからあがってしばらくたっても、座りこんで動けなかった。

　下を向いて、目を開けられず、こらえていたけど、こらえきれなかった。

　今までずっと、どんなことがあっても我慢してきたのに、僕はついに、泣いた。大きな声で泣いた。

　プールの水も、僕の涙も、すべてが混ざりあったまま、流れ落ちていく。

　泣きつづける僕を見て、みんなは一位になった喜びだと思ったはずだ。

　でもちがう、そんなんじゃない。

　そんなことのために僕は泣いてるんじゃない。

　僕は泣きつづけた。

　ここにはいない、あいつのために泣いた。

―終―