トイレの花子さん(学校の七不思議)
「花子さん、早く入りなよ!」
北村ハナの背中が押された。
押されたというより、叩かれた。
ハナはよろめきながら、廊下から女子トイレに、一歩二歩と足を踏み入れた。
とたんに背後でドアが閉められる。
まるで悪魔を閉じこめるみたいに、強く。
閉じこめられた不安で、胸がぎゅっと縮んだ。
夕陽で赤かった廊下から、急に暗いトイレに入れられて、目が慣れない。
電気の消えたトイレは暗く、中がよく見えない。
ひんやりとした湿った空気が体にまとわりついて、すごく気持ちが悪かった。
「ヒヒヒヒ……」
ハナが声にふり返ると、廊下に通じるドアの向こうから、笑い声が聞こえる。
曇りガラスの向こうに、黒い影が三つ、笑いながらゆれている。
「花子さんにはトイレがお似合い!」
廊下からミキの声がした。
ハナはいつも、「花子さん」って呼ばれ、いじめられている。
「開けてよ!」
ハナはドアにすがりついて、ミキにお願いした。でも……
「花子さんの家はトイレでしょ! ヒヒヒ!」
笑い声が甲高くなって、魔女みたいな声になった。
ここから出してほしい、早く出して……。
ミキは心の中でも思った。
この四階のトイレには噂があるんだ。怖い噂が……。
ぎぎぎ……
ハナのうしろの、トイレの中から音がした。
えっ!? 私しかいないはずなのに。
ぎぎぎ……
それが、個室のドアが開く音だとハナにはわかった。
四階のトイレは誰も使わないから、さびていやな音がするんだ。
ぎぎぎぎぃ……
どうしよう、だれかいる。だれかが個室のドアを開けている。
怖くてふり返れない。ハナは廊下に通じるドアにしがみついた。
「出して!」
でも、外から押さえられたドアは牢獄みたいに頑丈で、ハナを外に出してくれない。
ことっ……
ハナのうしろで音がした。
ことっ……ことっ……
足音だ。
だれかがハナの方へ歩いてくる。
さっきのミキの言葉を思い出す。「花子さんにはトイレがお似合い!」
北北西小学校で、人知れず語られる、ある噂……。
学校の七不思議。
人の力では解明できない、不思議な七つの現象。
その一つは……
トイレの花子さん。
夕方、四階の女子トイレ、三番目の個室に現れるんだ。
「ねえ……」
うわあ! ハナのすぐうしろで声がした。
「ねえ、ここから出して……」
氷みたいに冷たい声だ。
ハナは首元がぞくぞく寒くなった。
うしろから直接、冷たい息を吹きかけられてるような。
「私を、出して……」
「きゃあああ!」
トイレのドアを強く引いた。
ドアはすんなり開いて、ハナは廊下に飛び出した。
ミキたち三人の姿はない。
廊下は夕日に染められて、血が噴き出してるみたいに赤い。
ハナは廊下を走った。
全力で走った。
トイレの花子さんに、追いつかれないように。
○ ◇ □ △ ▽
次の日ハナは、またミキたち三人にいじめれるんじゃないかと、いやな気持ちで学校に行った。
でもおかしい。
六年三組の教室に入ると、ミキたちはハナをちらっと見ただけで、なにか別の話で盛り上がっている。
他の子も、なんだかそわそわ落ち着きがない。
なんだろう?
と思ったハナの疑問は、朝の学活で解決された。
担任の千田先生が、朝の学活でみんなに言った。
「今日から隣の二組に、教育実習の先生が来ることになりました」
それでみんな、そわそわしてたんだ。
前の方に座るミキを見ると、ミキは隣の子と楽しそうに話してる。
ミキはこういう新しいことが好きだから、きっと教育実習の先生のことで頭がいっぱいなんだ。
一時間目が終わると、ミキたち三人はすぐに廊下に出て、二組の教室へ走って行った。
見たくて見たくてたまらないんだ。
休み時間が終わるころ、教室に帰ってきたミキたちは興奮していた。
まるで、アイドルのコンサートから帰ってきたファンみたいだ。
きゃあきゃあと教育実習の先生のことを話している。
「華村ゆか先生って言うんだって! すっごくかわいくて素敵だったあ」
ミキが、二組に見に行かなかった子に、興奮してしゃべってる。
華村ゆか先生っていう名前なんだ、とハナはぼんやり思った。
かわいくて素敵な先生だなんて、自分とは違う種類の人なんだな。
そうして三週間がすぎた。
その間も、ミキたちは休み時間になるたびに二組に先生を見に行った。
ハナは、ミキたちが三組にもどってくるたびに、先生の評判を耳にした。
「ゆか先生ってかわいー」
「ゆか先生って、この学校の卒業生なんだって!」
「じゃあ私たちの先輩だね」
「私もあんな風にかっこいい大人になりたいよー!」
ハナにとってうれしかったのは、ミキたちがゆか先生のことに夢中で、ハナのことをあまりかまわなくなったことだった。
たまにいやなことを言ってきたり、物を隠されたりするけど、以前に比べると数はすごく減っていた。
このままずっと、ゆか先生が学校にいてくれたらいいのに。
ハナはそう思った。
ハナとは違う理由だったけど、他の子たちもみんな、同じ気持ちだった。
だけど教育実習の、最後の日がやってきた。
一ヶ月の実習期間はあっという間で、三組は担当のクラスじゃないのに、泣き出す子までいた。
ミキたちもやっぱり、別れを悲しんでいた。
放課後、ハナは帰りが遅くなった。
多目的室の掃除を一人でやっていたからだ。
他の子は、ハナだけに押しつけて帰ってしまった。
掃除が終わって、教室に戻ろうと廊下を歩いていると、陽気な笑い声が聞こえた。
足を止めて声の方を見ると、六年二組の教室だった。
中から、何人かの声が聞こえてくる。
声と声の間に、ひときわ目立つきれいな笑い声が一つ聞こえた。
きっと、ゆか先生の笑い声だ。
花壇に一つだけきれいな花が咲くように、明るく楽しい声が聞こえる。
ハナは、その声だけで先生のファンになってしまいそうだった。
ミキたちが、あんなに熱心に二組に通っていた理由もわかる気がした。
二組の中を、のぞいてみたくなった。
みんなが慕って憧れるゆか先生って、どんな顔をしてるんだろう。
きっと、今日が最後の日だから、放課後に残って、クラスの子と話してるんだ。
ハナは、ドアのガラス部分から、中をそぉっとのぞいた。
「花子がのぞている!」
廊下から声がした。
見ると、三組の教室からミキたち三人が出てくる。
「私たちに隠れて、ゆか先生と話そうとしてたんでしょ!」
ミキが言った。
「ちがうよ私……」
「花子はトイレがお似合いだよ!」
そう言ってミキが三組の教室に入って、すぐに廊下に飛び出してきた。
私のカバン!
ハナはすぐにわかった。
ミキはハナのカバンを持って廊下を走り、階段を上がっていく。
他の二人もミキを追って階段を上がる。
きっと四階に行くんだ。四階のトイレに……。
ハナもミキたちのあとを追った。
四階に着くと、ちょうどミキが、女子トイレの中にカバンを投げ入れたのが見えた。
「ヒヒヒヒ……」
ミキたち三人が笑った。
ひどい……。
ハナが黙って廊下に立っていると、ミキたち三人が横を通って行く。
「トイレの花子さん」
すれ違うとき、ミキがハナの耳元でささやいた。
三人は、階段を降りて行った。
きっと二組に行って、ゆか先生と話すんだ。
みんなの大好きな先生と、最後の別れを楽しんだり悲しんだりして……。
ハナは、四階の静かな廊下で、一人ぽつんと立っていたけど、しばらくして、ようやくトイレの方に歩き出した。
カバンを拾って、家に帰ろう。
女子トイレのドアを、ぎぃっと開けた。
中は暗い。
入るのが怖かった。
この前の、トイレの中から聞こえてきた声を思い出す。
「ここから出して……」という声。
見ると、トイレの床に、カバンと、中に入っていた教科書やノートが散らばっている。
投げ入れるときに、わざとカバンを開けっ放しにしたんだ。
入りたくないけど、拾わないと帰れない。
ハナは恐る恐る、トイレの中に入った。
もう夕方だった。
考えたくないのに、どんどん浮かんでくる。
七不思議……夕方……四階の女子トイレ……三番目の個室……そして、トイレの花子さん。
ハナの手が震える。
一番手前に落ちていたカバンを拾って、それから、教科書やノートを一つずつ拾い集めて行く。
拾うたびに下を見ることになるから、個室の方が見えなくなる。
なにも起こりませんように……。だれも、出てきませんように……。
ハナは教科書を拾って、すぐに顔を上げる。
トイレの中には、だれもいない。
三番目の個室のドアも、だいじょうぶ、閉まったままだ。
一瞬だけ安心して、それからまたノートを拾う。
教科書を拾って、ノートを拾って、カバンに入れていく。
ようやく、全部拾い終わった。
よかった、もうだいじょうぶだ。
でも、安心してトイレを見まわすと、まだ一つ、落ちていた。
筆箱だ。
それが、トイレの一番奥、三番目の個室の前に、置き去りにされたみたいに落ちている。
ハナはゆっくり、歩き出した。
個室の前を通る。
一つめの個室……二つめの個室……。
あと一つだ。
ハナが三つめの個室の前に来て、落ちてる筆箱に手をのばす。
ぎいいぃ……
音がした。
すぐ横の、三番目の個室のドアが、ゆっくり開く。
ハナは、拾う姿勢のまま、固まった。
怖々、ゆっくり、横を見る。
個室の中に、トイレの花子さんがいた。
わああ!
心の中で叫んだ。
赤い吊りスカートをはいた、白い服の女の子だ。
黒髪のおかっぱの下、顔の真ん中に大きな黒い目がぎょろっとある。
すごく大きな目だ。吸いこまれそうだ。
「ここから出して……」
花子さんが悲しそうに言った。
大きな目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
ど、どうしよう……。
ハナが動けずに固まってると、個室から花子さんが、一歩、前に来た。
うわああ!
ハナは筆箱を拾ってカバンに入れた。
逃げよう! 早く逃げよう!
ハナがドアの方へ走ろうとしたとき、腕をつかまれた。
花子さんがすぐ横に立っている。黒い目がハナをじっと見てる。
「ここから出して……」
「いやあ!」
手をふりほどいて、ドアに走る。
倒れかかるようにドアにしがみつき、ドアを開けた。ハナが廊下に飛び出すと――
「だいじょうぶ?」
目の前で声がした。
え!?
顔を上げると、ハナの前に、すらっとした女性が立っている。
長い髪が、夕陽を浴びて輝いてる。髪だけじゃない、顔もきれいだ。それに大きな目。
この人がもしかして――
「ゆか先生……教育実習の華村ゆか先生ですか?」
「そう。でもそれも、今日でおしまい!」
はきはきと、心地のいいしゃべり方だった。
ハナがゆか先生に見とれてると、先生は笑った。
口の端がきゅっと上がってかわいらしい。みんなファンになるはずだ。
ゆか先生が、大きな目でハナを見つめてる。
そんなに大きな目で見つめられたら、溶けてしまいそうだ。
あれ? ハナは思った。この目、見たことがある。
「ねえここで、なにしてるの?」
先生がハナに聞いた。
「あ、あの、私……カバンがトイレに……」
ゆか先生が、ハナが抱えてるカバンを見た。
トイレの床で汚れている。
「あなたも、いじめられてるの?」
ハナは答えられなかった。
自分がいじめられてることを、だれかに言うことほど、惨めなことはない。
それが言えないから、ハナはずっと、ミキたちにいじめられたままだ。
先生にも、親にも言えないんだ。
「私も昔、いじめられてたんだ」
ゆか先生が言った。
「え!? でも……」
ハナには信じられなかった。
こんなに素敵な先生が、昔いじめられてたなんて。
「私、この学校の卒業生なんだよ」
「はい……」
「私がここに通ってるとき、いつもいじめられて、いつもこの、四階のトイレに閉じこめられてた。私は、トイレで泣いてた。いじめに負けて、ずっと泣いてた」
私と同じだ、とハナは思った。
「ねえ、ここに、トイレの花子さん、出るんでしょ?」
あっ!
ゆか先生が言ったとき、気がついた。
ゆか先生の目と、トイレの花子さんの目はおんなじだ。
大きくて、吸いこまれそうな目だ。
「わ、私……ハナって名前だから……『トイレの花子さん』って言われて……トイレに閉じこめられるんです……」
ハナは、初めてだれかにそのことを言えた。
どうしてだろう、ゆか先生になら言えた。
先生は、悲しそうな顔をしてほほえんだ。
「私もおんなじ。華村ゆかだから、華の字が違うのに『花子さんだ』って言われて、ここに閉じこめられてた」
先生も、そうだったんだ。
「でもね、昔は、トイレの花子さん、いなかったんだよ」
「え?」
「今はこのトイレに出るんでしょ。教育実習で十年ぶりに学校に来て、そのことを聞いて、私、わかったことがあるの」
「なにが……」
「トイレの花子さんは、あの日、私がここに捨てた、私の心だって」
ハナは驚いて、ゆか先生を見た。
先生は、トイレのドアを見つめてる。
夕陽が赤く、先生の横顔を照らしてる。
「私、いつもいじめられて、このトイレに閉じこめられて、ずっと泣いてて。でも、ある日誓ったの。自分の弱い心を、ここに捨てようって。弱くて、泣き虫で、惨めで、自信のない心をここに捨てて、トイレから出たら、新しい自分になろうって。いじめになんか負けない、強い自分だけ心に残そうって。そう決意して、私はトイレから出たの」
「……それから、変わったんですか?」
「うん、変わった。がんばって、いい友達も作って、先生になるために勉強して、それでまた、ここに帰ってきた。そしたら、私の、あの日捨てた心が……私の弱い心が、トイレの花子さんになって、あれからずっと、ここで泣いてるって知った。そのことを知ってから、私、ずっと迷ってて……でも今日が、教育実習の最後の日だから……」
自信にあふれてるゆか先生の顔が、不安げになった。でも……
「私、自分の心を取りもどそうと思うの。一人ぼっちのままにしてた、私の弱い気持ちを取りもどして。もう、一緒になっても大丈夫だから。私、弱い心と一緒に生きていけると思うから」
先生は、ハナに言っていると言うよりも、自分に言い聞かせてるみたいだった。
言い終わると先生は、トイレの前に立って、ドアを開けた。
ハナは、先生の背中を見つめていた。ゆか先生は、ゆっくり、中に入っていく。
夕陽が赤く、燃えるように照らしている。
先生がトイレに入ると、ドアが閉まった。
廊下で、じっとハナは待った。
しばらくすると、トイレの中から、泣き声が聞こえてきた。
ゆか先生の泣き声だ。
あのきれいな先生から想像できないような、体の中から沸き上がるような、大きな泣き声だった。
泣き声が止んでから、ハナは、そぉっと、トイレのドアを開けた。
ゆか先生の背中が見える。
先生が、赤い服を着たトイレの花子さんを、しっかり抱きしめていた。
「ごめんね……ずっと、一人にしてごめんね……」
泣きながら抱きしめる先生の腕の中で、トイレの花子さんが静かに消えていく。
どんどん姿がうすくなり、最後に、ゆか先生の体の中に溶け込むように、すうっと見えなくなった。
「先生……」
ハナが、背中に声をかけた。
立ち上がってハナの方を見たときにもまだ、ゆか先生の顔には涙が残っていた。
二人でトイレから出ると、先生の涙は、夕陽に照らされてきらきら光った。
「さ、帰ろう」
ゆか先生が、言った。
―終―