表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/22

トイレの花子さん(学校の七不思議)

「花子さん、早く入りなよ!」


 北村ハナの背中が押された。

 押されたというより、叩かれた。


 ハナはよろめきながら、廊下から女子トイレに、一歩二歩と足を踏み入れた。

 とたんに背後でドアが閉められる。

 まるで悪魔を閉じこめるみたいに、強く。


 閉じこめられた不安で、胸がぎゅっと縮んだ。

 夕陽で赤かった廊下から、急に暗いトイレに入れられて、目が慣れない。


 電気の消えたトイレは暗く、中がよく見えない。

 ひんやりとした湿った空気が体にまとわりついて、すごく気持ちが悪かった。


「ヒヒヒヒ……」


 ハナが声にふり返ると、廊下に通じるドアの向こうから、笑い声が聞こえる。

 曇りガラスの向こうに、黒い影が三つ、笑いながらゆれている。


「花子さんにはトイレがお似合い!」


 廊下からミキの声がした。

 ハナはいつも、「花子さん」って呼ばれ、いじめられている。


「開けてよ!」


 ハナはドアにすがりついて、ミキにお願いした。でも……


「花子さんの家はトイレでしょ! ヒヒヒ!」


 笑い声が甲高くなって、魔女みたいな声になった。

 ここから出してほしい、早く出して……。


 ミキは心の中でも思った。

 この四階のトイレには噂があるんだ。怖い噂が……。


  ぎぎぎ……


 ハナのうしろの、トイレの中から音がした。

 えっ!? 私しかいないはずなのに。


  ぎぎぎ……


 それが、個室のドアが開く音だとハナにはわかった。

 四階のトイレは誰も使わないから、さびていやな音がするんだ。


  ぎぎぎぎぃ……


 どうしよう、だれかいる。だれかが個室のドアを開けている。

 怖くてふり返れない。ハナは廊下に通じるドアにしがみついた。


「出して!」


 でも、外から押さえられたドアは牢獄みたいに頑丈で、ハナを外に出してくれない。


  ことっ……


 ハナのうしろで音がした。


  ことっ……ことっ……


 足音だ。

 だれかがハナの方へ歩いてくる。

 さっきのミキの言葉を思い出す。「花子さんにはトイレがお似合い!」


 北北西小学校で、人知れず語られる、ある噂……。

 学校の七不思議。


 人の力では解明できない、不思議な七つの現象。

 その一つは……


 トイレの花子さん。


 夕方、四階の女子トイレ、三番目の個室に現れるんだ。


「ねえ……」


 うわあ! ハナのすぐうしろで声がした。


「ねえ、ここから出して……」


 氷みたいに冷たい声だ。

 ハナは首元がぞくぞく寒くなった。 

 うしろから直接、冷たい息を吹きかけられてるような。


「私を、出して……」


「きゃあああ!」


 トイレのドアを強く引いた。

 ドアはすんなり開いて、ハナは廊下に飛び出した。


 ミキたち三人の姿はない。

 廊下は夕日に染められて、血が噴き出してるみたいに赤い。


 ハナは廊下を走った。

 全力で走った。

 トイレの花子さんに、追いつかれないように。



 ○   ◇   □   △   ▽



 次の日ハナは、またミキたち三人にいじめれるんじゃないかと、いやな気持ちで学校に行った。


 でもおかしい。

 六年三組の教室に入ると、ミキたちはハナをちらっと見ただけで、なにか別の話で盛り上がっている。


 他の子も、なんだかそわそわ落ち着きがない。

 なんだろう?

 と思ったハナの疑問は、朝の学活で解決された。


 担任の千田先生が、朝の学活でみんなに言った。


「今日から隣の二組に、教育実習の先生が来ることになりました」


 それでみんな、そわそわしてたんだ。

 前の方に座るミキを見ると、ミキは隣の子と楽しそうに話してる。

 ミキはこういう新しいことが好きだから、きっと教育実習の先生のことで頭がいっぱいなんだ。



 一時間目が終わると、ミキたち三人はすぐに廊下に出て、二組の教室へ走って行った。

 見たくて見たくてたまらないんだ。


 休み時間が終わるころ、教室に帰ってきたミキたちは興奮していた。

 まるで、アイドルのコンサートから帰ってきたファンみたいだ。

 きゃあきゃあと教育実習の先生のことを話している。


「華村ゆか先生って言うんだって! すっごくかわいくて素敵だったあ」


 ミキが、二組に見に行かなかった子に、興奮してしゃべってる。

 華村ゆか先生っていう名前なんだ、とハナはぼんやり思った。

 かわいくて素敵な先生だなんて、自分とは違う種類の人なんだな。



 そうして三週間がすぎた。

 その間も、ミキたちは休み時間になるたびに二組に先生を見に行った。

 ハナは、ミキたちが三組にもどってくるたびに、先生の評判を耳にした。


「ゆか先生ってかわいー」

「ゆか先生って、この学校の卒業生なんだって!」

「じゃあ私たちの先輩だね」

「私もあんな風にかっこいい大人になりたいよー!」


 ハナにとってうれしかったのは、ミキたちがゆか先生のことに夢中で、ハナのことをあまりかまわなくなったことだった。


 たまにいやなことを言ってきたり、物を隠されたりするけど、以前に比べると数はすごく減っていた。

 このままずっと、ゆか先生が学校にいてくれたらいいのに。


 ハナはそう思った。

 ハナとは違う理由だったけど、他の子たちもみんな、同じ気持ちだった。


 だけど教育実習の、最後の日がやってきた。

 一ヶ月の実習期間はあっという間で、三組は担当のクラスじゃないのに、泣き出す子までいた。

 ミキたちもやっぱり、別れを悲しんでいた。



 放課後、ハナは帰りが遅くなった。

 多目的室の掃除を一人でやっていたからだ。

 他の子は、ハナだけに押しつけて帰ってしまった。


 掃除が終わって、教室に戻ろうと廊下を歩いていると、陽気な笑い声が聞こえた。

 足を止めて声の方を見ると、六年二組の教室だった。


 中から、何人かの声が聞こえてくる。

 声と声の間に、ひときわ目立つきれいな笑い声が一つ聞こえた。


 きっと、ゆか先生の笑い声だ。

 花壇に一つだけきれいな花が咲くように、明るく楽しい声が聞こえる。


 ハナは、その声だけで先生のファンになってしまいそうだった。

 ミキたちが、あんなに熱心に二組に通っていた理由もわかる気がした。


 二組の中を、のぞいてみたくなった。

 みんなが慕って憧れるゆか先生って、どんな顔をしてるんだろう。


 きっと、今日が最後の日だから、放課後に残って、クラスの子と話してるんだ。

 ハナは、ドアのガラス部分から、中をそぉっとのぞいた。


「花子がのぞている!」


 廊下から声がした。

 見ると、三組の教室からミキたち三人が出てくる。


「私たちに隠れて、ゆか先生と話そうとしてたんでしょ!」


 ミキが言った。


「ちがうよ私……」

「花子はトイレがお似合いだよ!」


 そう言ってミキが三組の教室に入って、すぐに廊下に飛び出してきた。

 私のカバン!


 ハナはすぐにわかった。

 ミキはハナのカバンを持って廊下を走り、階段を上がっていく。


 他の二人もミキを追って階段を上がる。

 きっと四階に行くんだ。四階のトイレに……。


 ハナもミキたちのあとを追った。

 四階に着くと、ちょうどミキが、女子トイレの中にカバンを投げ入れたのが見えた。


「ヒヒヒヒ……」


 ミキたち三人が笑った。

 ひどい……。

 ハナが黙って廊下に立っていると、ミキたち三人が横を通って行く。


「トイレの花子さん」


 すれ違うとき、ミキがハナの耳元でささやいた。

 三人は、階段を降りて行った。


 きっと二組に行って、ゆか先生と話すんだ。

 みんなの大好きな先生と、最後の別れを楽しんだり悲しんだりして……。


 ハナは、四階の静かな廊下で、一人ぽつんと立っていたけど、しばらくして、ようやくトイレの方に歩き出した。

 カバンを拾って、家に帰ろう。


 女子トイレのドアを、ぎぃっと開けた。

 中は暗い。


 入るのが怖かった。

 この前の、トイレの中から聞こえてきた声を思い出す。


「ここから出して……」という声。


 見ると、トイレの床に、カバンと、中に入っていた教科書やノートが散らばっている。

 投げ入れるときに、わざとカバンを開けっ放しにしたんだ。


 入りたくないけど、拾わないと帰れない。

 ハナは恐る恐る、トイレの中に入った。


 もう夕方だった。

 考えたくないのに、どんどん浮かんでくる。

 七不思議……夕方……四階の女子トイレ……三番目の個室……そして、トイレの花子さん。


 ハナの手が震える。

 一番手前に落ちていたカバンを拾って、それから、教科書やノートを一つずつ拾い集めて行く。

 拾うたびに下を見ることになるから、個室の方が見えなくなる。


 なにも起こりませんように……。だれも、出てきませんように……。

 ハナは教科書を拾って、すぐに顔を上げる。


 トイレの中には、だれもいない。

 三番目の個室のドアも、だいじょうぶ、閉まったままだ。


 一瞬だけ安心して、それからまたノートを拾う。

 教科書を拾って、ノートを拾って、カバンに入れていく。


 ようやく、全部拾い終わった。

 よかった、もうだいじょうぶだ。

 でも、安心してトイレを見まわすと、まだ一つ、落ちていた。


 筆箱だ。

 それが、トイレの一番奥、三番目の個室の前に、置き去りにされたみたいに落ちている。


 ハナはゆっくり、歩き出した。

 個室の前を通る。


 一つめの個室……二つめの個室……。

 あと一つだ。

 ハナが三つめの個室の前に来て、落ちてる筆箱に手をのばす。


  ぎいいぃ……


 音がした。

 すぐ横の、三番目の個室のドアが、ゆっくり開く。


 ハナは、拾う姿勢のまま、固まった。

 怖々、ゆっくり、横を見る。

 個室の中に、トイレの花子さんがいた。


 わああ!

 心の中で叫んだ。


 赤い吊りスカートをはいた、白い服の女の子だ。

 黒髪のおかっぱの下、顔の真ん中に大きな黒い目がぎょろっとある。

 すごく大きな目だ。吸いこまれそうだ。


「ここから出して……」


 花子さんが悲しそうに言った。

 大きな目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


 ど、どうしよう……。

 ハナが動けずに固まってると、個室から花子さんが、一歩、前に来た。


 うわああ!


 ハナは筆箱を拾ってカバンに入れた。

 逃げよう! 早く逃げよう!


 ハナがドアの方へ走ろうとしたとき、腕をつかまれた。

 花子さんがすぐ横に立っている。黒い目がハナをじっと見てる。


「ここから出して……」

「いやあ!」


 手をふりほどいて、ドアに走る。

 倒れかかるようにドアにしがみつき、ドアを開けた。ハナが廊下に飛び出すと――


「だいじょうぶ?」


 目の前で声がした。

 え!?

 顔を上げると、ハナの前に、すらっとした女性が立っている。

 長い髪が、夕陽を浴びて輝いてる。髪だけじゃない、顔もきれいだ。それに大きな目。


 この人がもしかして――


「ゆか先生……教育実習の華村ゆか先生ですか?」

「そう。でもそれも、今日でおしまい!」


 はきはきと、心地のいいしゃべり方だった。

 ハナがゆか先生に見とれてると、先生は笑った。

 口の端がきゅっと上がってかわいらしい。みんなファンになるはずだ。


 ゆか先生が、大きな目でハナを見つめてる。

 そんなに大きな目で見つめられたら、溶けてしまいそうだ。

 あれ? ハナは思った。この目、見たことがある。


「ねえここで、なにしてるの?」


 先生がハナに聞いた。


「あ、あの、私……カバンがトイレに……」


 ゆか先生が、ハナが抱えてるカバンを見た。

 トイレの床で汚れている。


「あなたも、いじめられてるの?」


 ハナは答えられなかった。

 自分がいじめられてることを、だれかに言うことほど、惨めなことはない。

 それが言えないから、ハナはずっと、ミキたちにいじめられたままだ。

 先生にも、親にも言えないんだ。


「私も昔、いじめられてたんだ」


 ゆか先生が言った。


「え!? でも……」


 ハナには信じられなかった。

 こんなに素敵な先生が、昔いじめられてたなんて。


「私、この学校の卒業生なんだよ」

「はい……」

「私がここに通ってるとき、いつもいじめられて、いつもこの、四階のトイレに閉じこめられてた。私は、トイレで泣いてた。いじめに負けて、ずっと泣いてた」


 私と同じだ、とハナは思った。


「ねえ、ここに、トイレの花子さん、出るんでしょ?」


 あっ!

 ゆか先生が言ったとき、気がついた。


 ゆか先生の目と、トイレの花子さんの目はおんなじだ。

 大きくて、吸いこまれそうな目だ。


「わ、私……ハナって名前だから……『トイレの花子さん』って言われて……トイレに閉じこめられるんです……」


 ハナは、初めてだれかにそのことを言えた。

 どうしてだろう、ゆか先生になら言えた。

 先生は、悲しそうな顔をしてほほえんだ。


「私もおんなじ。華村ゆかだから、華の字が違うのに『花子さんだ』って言われて、ここに閉じこめられてた」


 先生も、そうだったんだ。


「でもね、昔は、トイレの花子さん、いなかったんだよ」

「え?」

「今はこのトイレに出るんでしょ。教育実習で十年ぶりに学校に来て、そのことを聞いて、私、わかったことがあるの」

「なにが……」

「トイレの花子さんは、あの日、私がここに捨てた、私の心だって」


 ハナは驚いて、ゆか先生を見た。

 先生は、トイレのドアを見つめてる。

 夕陽が赤く、先生の横顔を照らしてる。


「私、いつもいじめられて、このトイレに閉じこめられて、ずっと泣いてて。でも、ある日誓ったの。自分の弱い心を、ここに捨てようって。弱くて、泣き虫で、惨めで、自信のない心をここに捨てて、トイレから出たら、新しい自分になろうって。いじめになんか負けない、強い自分だけ心に残そうって。そう決意して、私はトイレから出たの」


「……それから、変わったんですか?」


「うん、変わった。がんばって、いい友達も作って、先生になるために勉強して、それでまた、ここに帰ってきた。そしたら、私の、あの日捨てた心が……私の弱い心が、トイレの花子さんになって、あれからずっと、ここで泣いてるって知った。そのことを知ってから、私、ずっと迷ってて……でも今日が、教育実習の最後の日だから……」


 自信にあふれてるゆか先生の顔が、不安げになった。でも……


「私、自分の心を取りもどそうと思うの。一人ぼっちのままにしてた、私の弱い気持ちを取りもどして。もう、一緒になっても大丈夫だから。私、弱い心と一緒に生きていけると思うから」


 先生は、ハナに言っていると言うよりも、自分に言い聞かせてるみたいだった。

 言い終わると先生は、トイレの前に立って、ドアを開けた。


 ハナは、先生の背中を見つめていた。ゆか先生は、ゆっくり、中に入っていく。

 夕陽が赤く、燃えるように照らしている。

 先生がトイレに入ると、ドアが閉まった。


 廊下で、じっとハナは待った。

 しばらくすると、トイレの中から、泣き声が聞こえてきた。

 ゆか先生の泣き声だ。

 あのきれいな先生から想像できないような、体の中から沸き上がるような、大きな泣き声だった。


 泣き声が止んでから、ハナは、そぉっと、トイレのドアを開けた。

 ゆか先生の背中が見える。

 先生が、赤い服を着たトイレの花子さんを、しっかり抱きしめていた。


「ごめんね……ずっと、一人にしてごめんね……」


 泣きながら抱きしめる先生の腕の中で、トイレの花子さんが静かに消えていく。

 どんどん姿がうすくなり、最後に、ゆか先生の体の中に溶け込むように、すうっと見えなくなった。


「先生……」


 ハナが、背中に声をかけた。

 立ち上がってハナの方を見たときにもまだ、ゆか先生の顔には涙が残っていた。

 二人でトイレから出ると、先生の涙は、夕陽に照らされてきらきら光った。


「さ、帰ろう」


 ゆか先生が、言った。



―終―

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ