ストーン
たのしかったたん生日
二年一くみ す田 かける
今日は、ぼくのたん生日です。ぼくはあさから、とってもたのしみでした。学こうにつくと、友だちが、
「たん生日おめでとう!」
と言ってくれました。ぼくは、
「ありがとう。」
と言いました。それからぼくは、プレゼントについて友だちとはなしました。ぼくのお父さんは、けんきゅうしゃです。なんのけんきゅうをしているかはぼくにはよくわからないけれど、とってもあたまがいいです。お父さんはいつも、ぼくのたん生日に手作りのプレゼントをくれます。きょ年は、ラジコンカーをくれました。しかも、ぼくのかおをにんしきして自どうでもどってくるやつです。ぼくは、お父さんってエジソンみたいだな、とおもいます。今年はどんなプレゼントがもらえるのか、とてもたのしみです。
学こうがおわって家にかえると、お母さんがよるのパーティのじゅんびをしていました。キッチンからいいにおいがしてすごく気になったけど、ぼくはまずしゅくだいをおわらせることにしました。しゅくだいがおわったあとはテレビをみたりして、パーティがはじまるのをまちました。
そしてよるになって、パーティがはじまりました。テーブルの上には、ぼくの大すきなりょうりがもりだくさんです。すごくおいしかったです。ごはんをたべおわると、ケーキがはこばれてきました。チョコレートケーキでした。ぼくとお父さんとお母さんでハッピーバースデートゥーユーをうたって、ろうそくをふーっとけしました。すごくうれしかったです。
ケーキをたべおわると、いよいよプレゼントタイムです。お母さんからのプレゼントは、あたらしいくつでした。あるくと光るやつです。かっこよくて、すごく気に入りました。そしてお父さんが、白いはこをもってやってきました。中をあけると、犬のロボットが入っていました。お父さんがぼくに、
「なまえはなににするんだい?」
とききました。ぼくはちょっとかんがえて、
「ナイトにする!」
と言いました。ナイトは、えいごで「きし」っていみです。つよそうだから、ナイトにしました。お父さんはにっこりわらうと、ナイトをもってけんきゅうじょにいきました。ぼくも、ついていきました。おとうさんはけんきゅうしつに入ると、ナイトとパソコンをケーブルでつなぎました。そして、カタカタやっていました。少しするとお父さんが、
「できたよ。」
と言ってぼくにナイトをわたしました。お父さんが、
「なまえをよんでごらん。」
と言うので、ぼくは、
「ナイト!」
とよんでみました。するとナイトはぼくのほうをむいて、
「なあに、かける。」
と言いました。ぼくは、すごくびっくりしました。しかもこれだけじゃなくて、ナイトはほかにもいろいろしゃべるのです。ぼくはうれしくて、ずっとナイトとおしゃべりをしました。
そのあと、ぼくはお父さんといっしょにおふろに入りました。ぼくはお父さんに、学こうのこととか友だちのことをはなしました。お父さんは、にこにこしながらぼくのはなしをきいてくれました。
その日のよる、ぼくはナイトといっしょにねました。ぼくは、はやくあしたになって、あたらしいくつとナイトを友だちにじまんしたいなあ、と思いました。八才のたん生日は、とてもたのしかったです。さいこうのたん生日でした。
人生は、何が起こるかわからない。俺がそれを実感したのは、小学三年生のときだった。母さんが、交通事故でこの世からいなくなったときだ。俺は、そのとき初めて人が一人いなくなるということの意味を知った。もちろん悲しかったし寂しかったけれど、父さんの悲しみは俺なんかとは比べものにならないほどだった。
父さんは毎日塞ぎ込んで、悲しみに暮れていた。仕事も手につかなくなり、父さんの研究所からは一人、また一人と職員が辞めて行った。だけど俺はその様子を見て、少し嬉しかったのを覚えている。父さんの、母さんに対する愛の深さが伝わってきたからだ。
だけどやっぱり、父さんには元気になってもらいたかった。そこで俺は、父さんの研究を手伝えないかと考えた。しかし当時俺は小学生で、それでなくても頭が悪かった。高校生になった今でも、父さんの研究に関してはまったくちんぷんかんぷんである。手伝いなんて、できるわけがない。
そんなとき見つけたのが、母さんの愛用していた大量の料理本だった。頭が悪くても、料理ならできるかもしれない。そう思って小学三年生の俺は、包丁を手にとった。
「ん……」
スマートフォンの振動音で、目が覚める。時刻は午前五時。今日もまた、一日がはじまる。朝の冷たい空気に身を浸しながら、俺は階段を降りていく。トイレを済ませ、洗面所で顔をバシャバシャ洗うとようやく頭がすっきりと晴れてくる。俺はそのまま台所へ向かい、エプロンの紐をきゅっと締めた。
「よっと」
熱々の玉子焼きを、皿の上に載せる。料理を始めてから、六年。その腕前は、相当なものになっていた。父さんの負担を減らすために始めた料理だったが、今では自分の趣味みたいなものになっている。料理だけでなく、掃除、洗濯といった家事全般も俺の担当だ。いつものように二人分の朝食と弁当を作り終え、俺は一人、食卓につく。
「いただきます」
そう言って手を合わせ、俺は味噌汁を口に運ぶ。父さんは、まだ寝ているだろう。同じ家に住んでいるはずなのに、父さんと顔を合わせることはほとんどない。数年前から、父さんは研究室に籠もるようになった。自宅の敷地内にある研究所で、父さんは日夜研究に没頭している。父さん以外に職員のいない研究所で、一体何をそこまで熱心に研究しているのか、俺にはよくわからない。
だけど、それでいいと思っている。だって父さんは、毎日俺の作った料理を食べてくれる。俺はテーブルの上に置かれた父さんの弁当箱と、ラップのしてある朝食の皿に目をやる。テレビからは、今日の天気予報が淡々と流れていた。
「行ってきます」
返事が来ないのはわかっているが、俺は玄関で一応そう呟く。ドアを開けて庭に停めてある自転車のもとへと向かい、前カゴにスクールバッグをセットしてサドルに跨る。右足で地面を蹴って、体重をすべて自転車に委ねる。俺の家のすぐ前は、傾きが急な下り坂になっている。徐々に加速する自転車で風を切り、あっという間に自宅は遠ざかって行く。
俺が住むこの村は、いわゆるド田舎と呼ばれる場所だ。周りを山で囲まれ、熊が出たなんて騒ぎは年に何度もある。コンビニなんてものは当然存在しないし、本当に自然以外は何もない場所だ。俺はここから約二時間かけて、市内にある高校に通っている。同じ村の奴らは皆バス通学をしているが、俺が自転車を選択している理由は節約のためだった。一応舗装はしてあるけれど、この村の道路は細く曲がりくねっていて走りづらい。だけど俺は、この時間が嫌いじゃなかった。ただひたすらに、何も考えず前へ、前へ、とペダルを漕いで行く。
「ふぅ……」
キキッ、とブレーキ音を響かせて、俺は自転車小屋へと降り立つ。時刻は九時。いわゆる遅刻という時間だが、自転車小屋付近には何人もの生徒の姿が見える。髪を染めピアスをしている奴や、制服をだらしなく着崩している奴がわんさかいる編差値が低いこの学校が、俺がこの春から通っている高校だ。俺は、自宅から一番近いという理由でこの高校を選んだ。周囲からは白い目で見られることが多い学校だが、俺は結構居心地の良さを感じている。先生たちはハイパーな不良にかかりっきりで、遅刻くらいじゃ何も言われないし。
スクールバッグを背負い、俺は古びたコンクリートの校舎に入って行く。階段を三階まで上り、一年三組のプレートが掛けられた教室へと入る。何人かが「おーっす」と挨拶をしてくれるので、俺は片手を挙げてそれに応える。窓際の自分の席に着き、スクールバッグを開きペンケースを取り出す。一時間目はなんだっけ、と思い黒板脇の時間割表に目を向ける。月曜日の一時間目は……保健か。こりゃあ寝れないな、と俺は気合いを入れるために頬をぺちんと叩いた。保健の授業の先生は体育の授業と同じ先生で、がっしりとしたガタイのいい体をしている。性格は明るい感じなのだが、何せ威圧感がすごい。居眠りなんかで怒られたくはない。俺は席を立ち、廊下にあるロッカーへと向かう。ロッカーの中をごそごそやって保健の教科書や資料集を引っ張り出すと、一時間目開始のチャイムが鳴った。
「おーっし、授業始めるぞー。生徒委員、号令ー」
「きりーつ」
熊のような大きな体をした男の先生が、のっしのっしと教室に入って来る。生徒委員の号令に従い、俺たちはいつものように授業開始の挨拶をする。
「えー、三組は今日は、ストーンの授業だなー」
俺たちが着席すると、先生は黒板に白いチョークで『ストーン』と書いた。お世辞にも、字が綺麗とはいえない。俺たちもノートを開き、先生の板書をそっくりそのまま写す。
「はい、じゃーまずストーンについて。小学校から何度も聞かされてるからわかるな。はい、新谷。ストーンを体に埋め込むとどうなる?」
先生はそう言うと、一番前に座っていた女子を指名した。その女子は、げっ、という顔をしつつも、ぼそぼそと答える。
「ストーンを埋めると、超常的な力が使えるようになります」
「そうだな。手から火を出したり、あるいは人の心を読んだり。そんな摩訶不思議な力が使えるようになるわけだ。しかし、我が国の法律ではストーンを体に埋め込むことは禁止されている。さあ、なぜだろうか?」
先生は、今度は廊下側に座っている男子を指差した。
「はあ……。そんな人がいたら、危険だからじゃないですか」
「その通り。そんな奴らが街をうろうろしているとなったら、怖くて仕方がないだろう。それにストーンは、一度埋めたらいかなる手段を用いても摘出できない。だから禁止しているわけだ。しかし、残念ながら手を出す人はいる。違法薬物と同じように、興味本位で手を出してしまう人が後を絶たない。しかも、十代の若者の間で急速に広まりつつある」
先生は、ふうっ、とため息をついた。そして再び、顔を上げる。
「この背景には、ストーンの入手が恐ろしく簡単だということも関係している。実際、ストーンを持っているという人、挙手」
先生がそう問いかけると、俺は手を上げなかったが実にクラスの半数近くが手を上げた。割合としては、若干女子のほうが多く感じる。
「そう。法律ではストーンの所持に関しては禁じられていない。昔、パワーストーンブームというのもあったくらいだ。装飾品として使われることも多い。では、なぜ所持を禁ずることができないのか。それは、ストーンの定義が実に広すぎるためだ」
すると先生は再び黒板へ向かい、チョークを手にとった。『天然石』の字が書かれる。
「天然石。文字通り、天然物の石だ。これは言うまでもなく、人体に埋め込めば超常的な力を発揮する」
先生は次に、『加工石』と黒版に書いた。
「続いて加工石。天然石を加工したやつだな。ワックスがけしてあったり、加熱して色補正がされてたり。こいつも、天然石同様埋め込んだら違法だ」
続いて、『人工石』の文字が書かれる。
「人工石。言うなれば、ビニールハウスで育てた野菜みたいなもんだ。しかしこの人工石でも、人間に超常的な力を及ぼすんだ」
先生は、不思議だよなあ、と言ってがははと笑った。そして、『模造石』と黒板に書く。
「そんで模造石。これはもう、石じゃねえな。ガラスとかだ。しかしこれにも何らかのエネルギーがあるらしく、埋め込んだらまずいんだよなあ」
先生は、そこでようやくチョークを置いた。
「つまり、ストーンに該当するものが多すぎるんだ。教室にある窓ガラスだって、人体に埋めちまえばアウトだ」
先生がそう言うと、俺たちは一斉に窓を見た。こんなガラスにそんな力があるなんて、どうにも信じがたい。
「そんな調子だから、所持を規制することは現実的じゃない。というわけで、人体への埋め込みのみが違法となっているわけだ」
先生はそう言うと、教卓の上に置いてあった教科書をぺらぺらとめくった。
「まあ、ストーンが人体に影響を及ぼすことが発見されたのが、お前らが生まれた頃だからな。ほとんどがまだ解明されてないんだ。色々と研究も進めば、制度も変わってくるかもしれないがな。うし、二十三ページ開け」
俺たちは先生の指示に従い、教科書のページを開く。そこには、ストーンに手を出すとどうなるのかが図入りで説明されていた。
「その図を見ればわかるように、ストーンを埋め込んだ者は特殊刑務所に入れられ、そこで一生を過ごすことになる。一生だぞ?もう二度と、外には出られない」
先生に強い眼差しで見つめられ、俺たちの体はすくむ。
「まあ、これは成人したやつの場合だな。お前らみたいな未成年の奴だとちょっと違う。更生の機会が与えられるとかで、対策校と呼ばれる学校に入れられることになる。今現在全国に五校あって、この辺りだと、隣の県にあるな」
そう言って先生は、ボールペンで廊下側を指差す。
「俺はここらへんの制度も未成年者がストーンに手を出す原因だと思うけどな。もっと厳罰化してもいいと思う。まあお前らは今難しい年頃なわけで、ふとしたときに手を出したくなる気持ちもわからんでもない。でもな」
先生は、そこで言葉を区切った。そして俺たち一人一人の目を見つめるようにして、言った。
「ストーンに手を出したら、人生詰むぞ。異能バトルだなんて言って軽い気持ちで手を出したら、絶対に後悔する。ストーン保持者になったら、まともな就職先なんてない。お前ら、対策校を出た奴がどんな職につくか、わかるか?」
みんな、一斉にふるふると首を振る。先生は、大きく息を吸い込んだ。
「看守だ。ほとんどの者は特殊刑務所の看守として、同じストーン保持者の相手をさせられる。お前ら、そんな人生でいいのか?違うだろ。いいか、ストーンには絶対に手を出すな。その先に、希望は何もない」
なぜか俺の心には、その言葉が深く、深く突き刺さった。
「さて、と……」
俺は、両手に持ったビニール袋をダイニングテーブルの上にどすんと下ろす。そして中から次々と食品を取り出していき、冷蔵庫へとしまう。学校帰りに、市内のスーパーマーケットから買ってきたものだ。俺の村には、小さな商店以外に買い物ができるところがない。そのため俺の家では食材の宅配サービスを利用しているが、細かいものはこうしてこまめに学校帰りに買い足している。今日の夕食は、ペペロンチーノに野菜のコンソメスープ、それにポテトサラダ。一旦自分の部屋に戻り制服から私服に着替えると、俺はさっそく料理に取り掛かった。
シャー、と流れる水にボウルを浸しながら、俺は横目で今日の成果を見る。パスタの湯で加減も丁度良くできたし、味付けもバッチリだ。ポテトサラダには、明太子を入れてみた。野菜たっぷりのコンソメスープには、にんじんを花の形に切って入れてある。今は五月だから、春らしくていいかと思ったのだ。俺は洗い物を済ませると、ダイニングテーブルの上の二人分の夕食を見つめる。
……父さんは、今日も食卓には来ないだろう。それはいつものことだ。最後に一緒に食事をしたのは、半年前とかその辺りだろう。だけど、それを悲しいとは思わない。俺は高校生で、父さんは研究者。生活のリズムが違うのだ。仕方がないことだ。
俺はいつものように、麦茶の入ったボトルとグラスを持ってリビングへと向かった。俺は一人の食事はいつも、ダイニングではなくリビングでとることにしていた。リビングには、テレビがあるからだ。一人で黙々と食事をするよりも、音があったほうがいい。麦茶をリビングのテーブルに置き、次に料理を運ぼうと体を反転させたときだった。
カチャリ、と玄関のほうからドアの開く音がした。
……誰だ? 俺は思わず眉を寄せる。ド田舎ということで、この周辺の家では基本的に鍵を掛ける習慣がない。俺の家も例に違わずだ。少し用心しつつ、俺は玄関を覗き込む。
「……! 父、さん」
「架」
玄関で靴を脱いでいたのは、父さんだった。くたびれたワイシャツを着て、目には深く濃い隈が刻まれている。歳は四十歳前後のはずだけれど、それよりも若干老けて見える。
「今日は……もう終わったの? 珍しいね」
「ああ……。ちょっと一段落ついたからな。たまには、架と一緒に夕飯を食べようと思って」
そう言うと父さんは、穏やかに微笑んだ。
「あ……うん。もう準備できてるよ」
俺は、大慌てでダイニングへと引っ込む。途中リビングで麦茶を回収し、箸やフォークをしっかりと揃える。
少し待つと、父さんが着替えを済ませてダイニングへとやって来た。その手には、なぜだか木箱を持っていた。
「今日もおいしそうだな」
父さんは料理を見て微笑むと、持っていた木箱をテーブルの上に置いた。
「お昼に樫野さんのところからいただいたんだ。フルーツのジュースだそうだよ。架、どうだい」
「へえ……。いただこうかな」
木箱を開けると、瓶に入ったジュースが出てきた。ラベルには、マスカットの写真が載っている。ちょっと高級そうな感じだ。ちなみに樫野さんというのは、同じ村に住むご近所さんだ。
「父さんは? ビール飲む?」
「ああ、ありがとう」
俺は冷蔵庫から、冷えたビールの缶を取り出す。お互いにビールとジュースをグラスに注ぎ、食卓につく。いただきます、と言って合掌し、料理を口に運ぶ。ダイニングの椅子に座ったのは、ものすごく久しぶりだった。
「架は、手先が器用だな」
スープに入っている花の形の人参を見て、父さんは笑う。今日の父さんはよく喋るな、と俺は思った。機嫌がいいのだろうか。研究が上手くいったのかもしれない。
「いつも家のことを任せっきりにしてしまって、すまないな」
父さんはパスタを口に運び、肩を竦ませる。俺は、首を横に振る。
「いいよ別に。俺は頭が悪いから、このくらいしかできることがないし」
「勉強なんてできなくてもいいだろう。架は、優しい子だよ」
父さんに真っ直ぐ見つめられて、俺は照れくさくなる。なんだか、昔に戻ったみたいだった。家族三人で夕食を囲んだ、遠い昔の日々。母さんはもうここにはいないけれど、それでもすべてが失われてしまったわけではない。時々こうして父さんと言葉を交わせるだけで、俺は十分だった。
俺は懐かしさの熱を冷まそうと、グラスを持ち上げ冷たいジュースを口に含んだ。
眩しい、と思った。
なんでこんなに眩しいんだろう。ぼんやりとした頭で、俺はそんなことを思った。やがてもっと強い光が目に飛び込んできて、俺は自分が今まで目を閉じていたということに気が付いた。
「……?」
真っ白な天井に取り付けられた蛍光灯が目に入る。俺の部屋じゃない。
どこだ、ここは?
そこでようやく、俺は体を起こした。俺の体は、歯医者で使うような長くて黒い椅子の上にあった。ベージュのブランケットが、腰から下に掛けられている。
俺はきょろきょろと辺りを見回して、気が付いた。真っ白な内装の部屋、ビーカーやフラスコなどの実験器具が入った棚。書類が雑多に置かれた机に、そこかしこから伸びる機械のコード。
「研究所……?」
そうだ。もう何年も来たことがないけれど間違いない。ここは、自宅の敷地内にある研究所の一室だ。
だけど、なんで俺はここにいるんだろう。そもそも、今何時だ?
俺は、必死に記憶を辿る。今日はいつも通り学校に行って、帰りにスーパーで買い物をして、それから久しぶりに父さんと夕食を食べて……。
あれ、いつ研究所に来たんだ?まったく憶えがない。
俺は靄がかかったような状態の頭をコンコンと叩く。今がどういう状況なのかを必死に思い出そうとするけれど、まったく思い出せない。一体、何が起きているんだ?
「ああ、目が覚めたか」
キィ、とドアが開く音と共にそんな声がして、俺は後ろを振り向く。白衣姿の父さんが、そこにいた。 父さんはスリッパの音を鳴らしながら近くにやってくると、俺の顔を覗き込んだ。
「気分はどうだい?どこか、痛むところはないかい?」
「え……?」
質問の意図がわからず、俺は目をぱちくりさせる。どういうことだろう。俺は、急にぶっ倒れでもしたんだろうか。困惑する俺を見て、父さんは優しい笑みを浮かべた。
「百聞は一見に如かず、というからね。説明するよりも、目で見た方が早いだろう」
父さんはそう言うと壁際にずらりと並ぶ棚へと歩いて行き、引出しの一つから何かを取り出した。そしてまた、俺のいる椅子へと戻ってくる。
「ごらん。お前はもう昨日までのお前じゃない」
「……!」
俺の背中が、ぞわっと粟立った。
そこに映っていたのは、俺の顔だ。父さんが、手鏡を俺に向けたのだ。
だけど、違う。長年慣れ親しんできた自分の顔とは違う点が、ひとつだけあった。
目の色が、深い海のような青色をしていた。
「……カイヤナイト。冷静、明晰、自立心、インスピレーション……。そんな意味のある石だ」
鏡を見つめたまま固まる俺に、まるで授業をする先生のように父さんは語る。これで俺の中にわずかにあった、カラーコンタクトを入れられたんじゃないか、という希望は跡形もなく消し飛んだ。
ストーンだ。俺はおそるおそる、指先で自分の瞼に触れる。
なんで。どうして。ストーンが、俺の両目の中にある。
「驚くのも無理はない。架……」
そのとき、父さんの手が俺に伸びた。俺は思わず息を飲んだ。ゆっくりと近づいてくる父さんの手に、俺はとてつもなく恐怖を感じた。
「っ……!」
身を捩って避けようとしただけだった。だけど、そのとき信じられないような現象が起きた。俺と父さんの間に、どこからか水流のようなものが出現した。俺が驚きで目を見開くと同時に、透明な水流はまるで刃のように父さんの側頭部にぶつかった。ぼたぼたと水が床に滴り落ちると共に、父さんの体もどさりと崩れ落ちた。一瞬のことだった。
「な……」
俺は椅子から降りると、床に倒れている父さんに駆け寄った。体を揺すってみるが、反応はない。気を失っている……? 辺りに目をやると、バケツの水をぶちまけたかのように所々で水溜りができていた。
「……っ」
俺は思わず、壁際に後ずさった。額からは、汗がたらりと流れる。心臓がドクドクと脈打っていて、体が熱い。頭の中では、今日学校で受けた保健の授業が再生される。
ストーンを人体に埋めると、超常的な力が使えるようになる。
俺は、今さっき起きた不思議な水流の光景を思い出す。
あれが、ストーンの力……? ということは、あの水流を作り出し父さんに叩きつけたのは、俺自身ってことなのか……?
ぞっとした。
何だよ、そんなの、本当に化け物じゃないか。
俺は逃げるように、研究室を後にした。とてもじゃないけれどじっとしてなんていられなかった。頭の中は混乱で沸騰しそうだった。足を引きずるようにして廊下を抜け、研究所の玄関の自動ドアをくぐり抜ける。外の景色は、濃い闇に覆われていた。ひんやりとした土の感触が足の裏から伝わってきて、背筋が冷えた。裸足で外に出てきてしまったのだ。だけど、靴がどこにあるかもわからない。俺は構わず、冷たい風が吹き付ける中をそのまま走り続ける。
やがて自宅が見えてきて、俺は乱暴に玄関のドアを開けると体を滑り込ませた。普段掛けたこともない鍵をしっかりと掛け、俺はその場にへたり込んだ。
玄関のドアに背中を預け、はぁ、はぁ、と荒い息が治まるのを静かに待つ。
ひょっとしたら夢なんじゃないか、と思った。父さんにストーンを埋め込まれたなんてのは悪い夢で、そのうち目が覚めてまたいつも通りの一日が始まるんじゃないか、と。
だけど俺の鼓動は今もなお激しく打ち鳴らされていて、どうしようもなく現実感を与えてくる。俺はふらふらと立ち上がり、階段を上る。二階にある自分の部屋に入ると、机の上に置いてあるスマートフォンを手に取った。カメラモードを起動すると、内側カメラで自分の顔を映す。
「……」
青。俺の目の色は、やはり青いままだった。
俺はスマートフォンをベッドに投げると、そのまま体も投げ出した。ふかふかのシーツに顔を埋めながら、俺は考える。
なぜ? なぜ俺の目に父さんは、ストーンを埋め込んだんだ?
ストーンを埋め込まれた瞬間は記憶にないが、父さんがやったということは間違いないだろう。父さんは研究者だし、その気になればストーンを埋める外科手術なんていくらでもできるだろう。父さんは、すごく頭がいいから。
俺は、ぼんやりとこれからのことについて頭を巡らせた。ストーンを人体に埋める外科手術をすることは違法だ。父さんは逮捕され、刑務所に入ることになる。そしてストーン保持者となった俺は、対策校と呼ばれる更生施設を兼ねた学校へと転入することになるだろう。
どうにかできないか、と思った。例えば、そう、黒いカラーコンタクトを付けて生活するとか。そうすれば俺がストーン保持者だということはわからないし、父さんも逮捕されなくて済む……。
「……!」
ぞわり、と悪寒が走った。俺はシーツから顔を上げる。唐突に、研究所で倒れたままの父さんのことを思い出したのだ。混乱のあまり思わず飛び出して来てしまったが、あのままにしておいていいはずがない。父さんは、気を失っていた。おそらく俺が作り出したのであろう水流に、頭を叩きつけられて。頭。頭だぞ? 打ち所が悪かったら……。
ふいに、天国にいる母さんの顔が浮かんだ。
「父さん!」
俺は勢いよく立ち上がると、階段を無我夢中で駆け降りた。素早くサムターンを回して玄関のドアを開けると、裸足のまま外へと飛び出す。
冷たい土の上を走りながら、手の中にあるスマートフォンを操作した。
救急車……!
とにかく、もうそれしか頭になかった。
このまま、父さんが動かなくなってしまったら。そんな不吉な考えを振り払うように、俺は深い闇の中をひたすら走り続ける。
耳の中でこだまする呼び出し音が、永遠に続くかのように感じられた。