~202号室の佐伯さんと203号室の穂高くんの場合~
夢や恋が「疲れ」に直結するようになったのはいつからだっただろう。
ベランダの古びた手すりに体を預け、奈緒はそっと夜空を見上げた。
一日中パソコンと向かい合っていた目には朧な月の光さえ眩しい。堪えきれず目を閉じれば、深いため息が零れた。
「今日も頑張ったよなぁ」
自らを労う呟きも心許ない
大学を卒業し就職を機に故郷を出て早五年。
職場と家を往復するだけの毎日は、奈緒の心のどこかを少しずつ削っていく。
「ばあちゃん家のお雑煮が食べたい」
瞼の裏に浮かぶのは自然豊かな故郷の景色。
今頃はもう霜も降り始めている頃だろう。
山間の田舎町は何をするにも不便だったが、今となってはその不便さすら恋しかった。
都会には全てがあるが、奈緒の心を捉えるものは見つからない。
大好きな星空でさえ霞の向こうで、星々の紡ぐ神話も空だ。
別に。今の生活に不満がある訳じゃない。特に満足もしていないけど。
任された仕事はそつなくこなせるようになったし、いつの間にか後輩だって沢山できた。子供の頃思い描いていた夢や希望にあふれる将来像とはだいぶかけ離れているけど、幸せかと聞かれたら「まあ普通に」と答えられる。
寂しいけれど、人生って妥協の連続だ。
……そう、思っているのに。
どうしてこんなに空しいんだろう。
どうしてこんなに寂しいんだろう。
重たい空を振り仰げば、霞む星々が自分の居場所を主張するように懸命に瞬いている。
──私はここにいるよ。見つけて。見つけて。
星たちの放つSOSは、音もなく静かに奈緒の頭上に降り注ぐ。
「何か泣きたくなってきた」
奈緒は思わず熱くなった目頭を指で摘むように押さえつけた。
こんな時間に泣いたりしたら確実に明日に響く。若い頃とは違って目の腫れはなかなか戻らないのだ。腫れぼったい目で出社なんてした日には、うわさ好きの同僚に、あること無いこと言われるに決まってるのだから。
「泣くな、奈緒。もう少しだけ頑張れ」
アラサーともなれば、自分の尻は自分で叩いて進まなければいけないのだ。
だって、だれも触ってすらくれないし!
なんて心の中ですらお道化ている自分にますます悲しみが込み上げる。
あと少しで冬休みだ。年末には久しぶりに実家に帰ろう。
そうしたら家族にいっぱい甘えるんだ。
鼻の奥がツンと痛む。
堪えきれなかった涙が零れそうになったその時。
「こんばんは」
薄いアイボリーの防火壁が低い声で囁いた。
「佐伯さん、今日は早かったんですね」
「……あんた居たの」
「ええ、まあ。壁に耳あり障子に目あり、防火壁に穂高あり。ってね」
「何それ」
壁の向こうで隣室の貧乏学生──穂高充は、くつくつと笑っている。
「いつからそこに居たのよ」
「たぶん、わりと、最初から」
独り言を聞かれていたバツの悪さに、奈緒は眉を吊り上げる。文句の一つでも言ってやろうかとしたところで、薄壁の向こうからぬっと手が差し出された。
男にしては色白の節くれだった手が誘うように缶ビールを揺らす。
「これで許してください。盗み聞きするつもりはなかったんです」
ゆったりとした声音が、奈緒の凝り固まった心を少しだけほぐしていく。
「……しょうがないわね」
奈緒はあくまでも渋々という風を装って、缶ビールを受け取った。
「乾杯」
お互いに手を伸ばして、缶ビールをコツンとぶつける。
煌めく水滴が銀河のように弾けた。
「202号室さんのセンチな夜に」
「一言余計よ」
薄い防火壁にそっともたれかかる。
顔を見たことも無い隣人の背中が、そこにある。
強く押せば簡単に破けてしまうだろうその壁に、確かな温もりを感じた。
「……ありがと」
冷たいビールを煽ると、ふぅっと大きく息を吐く。
胸を沈めていた気持ちが、優しく夜気に溶けていった。