アーシェリアの空は低く
灰色の空、濁った川。神具機関に汚染された町に、ミリヤは住んでいた。
かつて――3世紀程前、神の降臨と呼ばれた大発明家カディアスによって開発された機関。それは人々の生活を豊かにしたが、同時に青空と透き通る小川を奪った。神が作りたもうた世界を破壊した神具機関は、皮肉にも神具の名を冠する。カディアスはこの聖王国において堕ちた神とも歌われていた。
ミリヤの住むアーシェリアは聖王国の外れに位置し、王都ほど汚染は進んでいない。しかし彼女は天上に輝く月というものを、おとぎ話の世界でしか知らなかった。
黒い煙を吐き出しながら町中を自動車が走り去る。黒鉱石を原料として動く、神具機関の一つだ。ミリヤが子供の頃には珍しかった自動車だが、いつの間にかアーシェリアでも所有者が増えてきたらしい。
アーシェリアのような田舎で出回る質の低い黒鉱石――通称、屑石――は特に排出される煙が多い。黒煙に眉をひそめながらも、広場の中央に設置されている濾過装置から水を組んだ。
川を流れる水は飲み水はもちろん、洗濯にだって使えない。だから聖王国の人間は生活用水のほとんどを、町に数個ほどしか設置されていない濾過装置から得るしかなかった。
神具機関に汚染された水を、神具機関によって浄水する。濾過装置はもちろんもくもくと黒煙を生み出しているし、その黒煙がまた世界を汚す。いたちごっこと呼べばいいのか、それともミイラ取りがミイラになると言えばいいのか。とにかくミリヤには、この悪循環しか生み出さない世界の仕組みが滑稽に思えた。
ミリアの曾祖父の時代は、アーシェリアではわずかだが青空が垣間見えたと聞く。かつての言い伝えではどこまでも広がる青い空と輝く太陽、それに暗闇を照らす星々と優しい色を湛えた月というものが浮かんでいるらしい。だけどミリヤは、そんなものは生まれてから一度たりとも目にしたことはない。
――本当にそんなもの、あるのかしら。
ミリヤは優しい祖母の言葉を信じたかったが、灰色の煙に覆われた空を見上げそう独り言ちた。
「よい、しょっと」
水をたっぷり汲んだバケツを持ち上げると、自然に年寄りのような声が漏れる。
神具機関を使って樹脂から作られたそれは、木桶のように水を吸い込むことはなく、金属製のものに比べれば容器自体の重さも軽い。手入れもしやすいし、ミリアは気に入っていた。
神具機関をあまりよく思わないミリヤですらそう思うほどに、神具機関製の生活用具は人々の生活に溶け込んでいた。なくてはならないもの、と呼んでもいいだろう。
そういえば、とミリヤは思い出す。
アーシェリアのような辺境では整備されていないが、都心には上下水道と呼ばれる、コックをひねるだけで浄化された水が出てくるものがあるらしい。それがあれば、料理や洗濯など日々の生活も随分と楽になるだろう。
うらやましくもあるが、ミリヤには水汲みの必要がない生活で、ぽっかりと空いた時間をどう活用していいかもわからなかった。自分が年を取って水汲みが辛くなる頃には、アーシェリアにも上下水道が来ればいいと思う程度のものだった。
「おはようございます」
バケツを手に立ち去ろうとすると、声をかけられる。穏やかな声に振り返ると、ミリヤの想像通りの人間が目に入った。
――アダルバート・カディアス。
アーシェリアに半年ほど前から住み着いた男だ。背は高いが、細身の優男。とび色の髪はところどころはねていて、後ろでぞんざいに括られている。いつから蒸気火斗をかけていないのか、白のシャツはよれよれだった。
「もうお昼よ」
何度も繰り返した言葉をミリヤは返す。
このカディアスを名乗る男は、明け方まで部屋に籠って何かをしているらしく、彼の家には毎夜煌々と火灯が灯っている。アーシェリアの者が昼食を済ませた頃、のろのろと寝台から起き上がり身支度も不十分なまま濾過装置へと水を求めてやってくる男と、ミリヤは毎日のように顔を合わせていた。
アダルバート・カディアスはミリヤから見ればおかしな男だった。
初めて彼と会った時に、ミリヤは忠告したものだ。都心から外れたアーシェリアの町の年長者は、青空を奪った神具機関を忌々しく思う者も少なくない。だから、本名かはわからないが、カディアスなど気安く名乗らない方が良い、と。
それに対してアダルバートは困ったようにほほ笑んだが、そうですか、と悲しそうな顔で了承する。それから彼はアーシェリアでは、アルと呼ばれるようになった。
アルは技術者を自称するおかしな男だった。彼の家の周りには、くず鉄やスプリングなど、何に使うかわからないものが散乱している。街はずれの建物のため幸いまだ住民から苦情は出てはいないが、徐々に侵食する彼の荷物に、それも間近だろうとミリヤは心の中で独り言ちる。
「どうも、朝は苦手でして」
銀縁の眼鏡の位置を直しながら、アルが答える。これも、ミリアとアルの決まったやり取りだった。