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企画提出作品集(短編中心)

MYSON

作者: 長谷川

 鏡の前で、シュッと紺のネクタイを締めた。

 同じ色の、袖に黄色いラインの走った上着をまとい、ボタンを閉める。

 サイドテーブルに置いていた制帽を取り、部屋を出た。

 燦々と朝日が射し込むキッチンでは、妻のアイリーンが朝食の支度をしている。

 ベーコンの焼ける匂い。

 レタスを刻む音。

 ドリップマシンから立ち上るコーヒーの香り……。


「おはよう、アイリーン」

「あら、おはよう、マイソン。ジョーイを見なかった?」

「いや、見てないが。もう起きてるのか?」

「さっき起こしに行ったんだけど。今日はあなたがあの子を送ってくれるって約束でしょ?」

「ああ。だがまだ六時半だ」

「ダメよ。あの子、早めに起こさないとのんびり屋さんなんだから」


 苦笑しながらそう言って、エプロン姿のアイリーンは一度キッチンを離れた。フローリングを鳴らしながら廊下へ出ていき、白い階段の下から息子ジョーイを呼んでいる。

 マイソンはそんな妻の、白いうなじから零れた後れ毛を後目に見ながら、彼女が用意していたベーグルにベーコン、チーズ、そしてレタスを挟んだ。三人分。

 完成したベーグルサンドをスクランブルエッグが乗った皿に置き、テーブルに並べる。戻ってきたアイリーンがそれを見ると微笑んで、頬に軽くキスをした。

 花柄のクロスがかかった丸いテーブルの席に着く。長い足を組み、テーブルに置かれていた新聞を広げた。

 今朝の朝刊は、昨夜ヨーロッパで起きたというテロの話題で持ちきりだ。マイソンは妻が差し出してきたブラックコーヒーを啜りながら黙って見出しに目を落とす。物騒な世の中になった。いや、マイソンの知る限り、世界は元々物騒で救い難いものだったけど。


「ねえ、マイソン。仕事のことだけど……」


 と、ときに向かいの席へ腰かけながらアイリーンが言う。その不安げでどこか哀願めいた眼差しに、マイソンは小さく笑った。


「昨日も言ったろ。気持ちは分かるが、俺は辞めない。今更交替はきかないし」

「でもその記事、見たでしょ?」

「見たけど、それが?」

「それが? って、他人事じゃないのよ。あなたにもしものことがあったらジョーイはどうなるの?」

「アイリーン。一つ誤解してるようだから言っておくが、俺が今の仕事を辞めたらテロが起きなくなるか? そうじゃないだろ。最近のニュースを見る限り、テロの標的になってるのは何もヨーロッパだけじゃない。アメリカにいたって、いつ、どこで、誰がテロの標的になるか分からないんだ。あの9.11みたいに」


 マイソンが落ち着いた口調でそう諭すと、アイリーンはうつむき口を噤んだ。かつてこのニューヨークで起きたあの悲しい事件の記憶は、長い歳月が過ぎた今も鮮明に残っている。

 それはアイリーンも同じだろう。大人から子供まで、誰もが衝撃を受けた事件だったから。


 そのとき廊下から足音がして、小学校に上がったばかりの息子が眠い目を擦りながら現れた。「おはよう、パパ」とあくび混じりに告げたジョーイはまだパジャマ姿で、瞼も眠たそうに垂れている。

 そこで自然、アイリーンとの会話は打ち切りになった。仕事を辞める、辞めないなんて、少なくとも幼い子供に聞かせるような話じゃない。

 彼女は遅れて現れた我が子を見ると、諦めたようにため息をついた。それから表情を切り替えて、よたよたやってくるジョーイを促しにかかる。


「おはよう、ジョーイ。ほら、早く席に着きなさい。急いで学校に行く準備をしないと、パパに置いていかれるわよ」


 「うーん」と生返事をしながらジョーイは隣の席に着いた。未だ寝惚けた様子ではあるが、こうして息子と朝食を囲むのは何だか久しぶりのような気がする。


「おはよう。相変わらず寝坊助だな、ジョーイ」


 そう言って笑いながら、マイソンは息子の頭に手をやった。ちりちりに伸びた髪を撫でられ、ベーグルサンドを頬張ったジョーイは口元を綻ばせている。


 貴重な朝の一時間ほどを、マイソンは家族三人で過ごした。仕事柄マイソンがこうして家族と過ごす時間は非常に少ないので、たまにこういうひとときを過ごすとひどく充実した気分になる。

 ジョーイもそれは同じだったらしく、ようやく目が覚めてくると今度はうるさいくらいにはしゃぎ回った。二階から着替えを手伝いに行ったアイリーンの叱声が聞こえる。小学校に入学してからマイソンが一緒に登校してやるのはこれが初めてなので、嬉しくて仕方がないのだろう。


 午前八時。玄関の前で待っていたマイソン目がけて、ジョーイが階段を駆け下りてくる。

 手にはお馴染みの飛行機の模型。白い機体の側面にシャープな青のラインが走った模型だ。ところどころ塗装が剥げた垂直尾翼には『747』の文字がある。

 ボーイング747。通称ジャンボジェット。

 既に開発から半世紀が経とうとしている古い機体だが、マイソンは息子がその小さな飛行機を頭上に掲げて「びゅーん!」とやってくるのを見ると、思わず頬が緩んでしまう。


「おはようございます、ジョーイ機長キャプテン。本日のフライトはどちらまで?」

「今日はイギリス! ロンドンまでひとっとびだ!」


 ジョーイは上機嫌で飛行機を掲げたまま駆けてきた。マイソンはそれを導くように白い玄関のドアを開け、息子を外へ送り出してやる。

 九月。ニューヨークにも秋の足音が近づいてきた。

 庭の芝生や立ち並ぶ街路樹はまだまだ緑を湛えてはいるが、ここへ戻ってくる度に少しずつ色褪せていっているような気がする。きっと街はあっという間に衣替えし、ふと気づく頃にはあちこちにジャック・オ・ランタンが溢れていることだろう。

 マイソンは元気良く庭を駆け回る我が子を眺めながら目を細める。今年のハロウィンは家族と共にいられるだろうか。もしも休日をもらえたら、アイリーンとジョーイを連れてセントラルパークまで出かけよう。


 マイソンにとって、この世は物騒で残酷で救い難い、ものだった。

 けれども今は、


「――マイソン」


 不意に名を呼ばれ、振り返る。途端にぐいと頭を引かれ、唇に温かなものを感じた。

 驚いて目を丸くすると、すぐそこでアイリーンが悪戯っぽく微笑んでいる。少し困ったような、諦めたような、けれど本当は何もかも理解している顔で。


「いってらっしゃい。無事に帰ってきてね」


 マイソンは、何か気の利いた言葉でも返そうと口を開いた。けれどそこから言葉が漏れるよりも早く、車の傍まで行ったジョーイが「パパー、はやくー!」と急かしてくる。

 後ろから聞こえる幼い催促に苦笑して、マイソンはアイリーンと額を合わせた。

 アイリーンの白い鼻と、マイソンの黒い鼻が触れそうになる。

 マイソンは笑った。


「行ってくる」



              ◯   ◯   ◯



 開け放たれた薄い扉の前で、男はそれ・・を見下ろしていた。

 それ・・は人の形をしている。とりわけ少年と呼ばれる部類のものに近いようだ。

 肌は黒くて、ひどく小さい。身長は男の腰と並ぶ程度。

 頭皮にこびりつくように生えた髪は短く、さながら黒い苔に似ていた。それが余計に彼を貧相に見せている。ただでさえ痩せっぽちなのに、髪にボリュームがないせいでひょろひょろと頼りなげなのだ。けれどもそんな見た目の印象とは裏腹に、少年は異様に白い目で強情そうに男を見上げている。


「何の用だ」


 男は、お前は誰だ、とは訊かなかった。ここデトロイトのスラムでは、食うに事欠いた子供が庇護を求めて大人を訪ねてくることも珍しくない。まるで年中ハロウィンをやってるみたいなものだ。だからいちいち誰何するだけ馬鹿らしい。

 男は大抵の場合、翌日になれば前日会った者のことなどどうでもよくなって忘れてしまうし、仮に顔と名前を覚えたとしても、この街にいるのは次の日息をしているかどうかも分からない連中ばかりだった。

 ゆえに、男は名を尋ねない。これまで無駄なことばかりの人生だったから、これ以上の無駄を重ねたくない。

 今日だってたまたま煙草を買いに行こうと家を出たら、そこにこの少年が立ち尽くしていただけのことだった。そうでなければ、たとえ何度やかましく玄関を叩かれようと、殺すぞと喚きながら扉を銃で撃たれようと、男は決して客人を迎え入れたりしない。


「何の用だ、と訊いている」


 男は、同じ質問を二度繰り返した。それもまた無駄な行為だと分かっているから、自分で自分にうんざりする。

 だが少年が物言いたげにこちらを睨み上げたまま何も答えないのだから仕方がない。いつまでも玄関の真ん前を陣取られていては迷惑だ。男は薄く乾いた唇から憂鬱を吐き出し、外套の袖口に手を突っ込んだ。

 十月。日によっては外套がないと震えるような季節になっている。


「用がないなら帰れ」

「――パパ」


 と、ときに少年が呟いた単語を聞いて、男は袖から抜こうとしていた手を止めた。

 少年はたった一言発したきり黙り込み、なおも男を見上げている。心なしか緊張した面持ちで。


「……今、〝パパ〟と言ったか?」

「……」

「俺を〝パパ〟と呼んだのか?」

「……」

「お前、ここへ何しに来た」


 最後にもう一度だけ、男は尋ねた。それで得心のいく答えが返ってこなかったら、この錆びだらけの非常階段みたいに味気ない踊り場から、躊躇なく少年を突き落としてやろうと思った。


「ママが、ここに来ればパパに会えるって」


 しかし、少年は答えた。まるで未知の生物の鳴き声みたいに幼い声で。


「その〝ママ〟ってのは誰のことだ」

「トリーナ・ぺロー」


 少年が紡いだ名を聞いて、男は目元の皺を微かに動かした。


「……お前、ジョーイなのか」


 少年は頷く。


 錆と埃と汚物の臭いを孕んだ風が、銃声を運んできた。



              ×   ×   ×



 なあ。

 なあなあなあ。

 騒ぐなよ。騒ぐなったら、おい!


 ああ、よし。

 ようやく大人しくなったな。いい子だ。

 俺は聞き分けのいい女は好きだぜ。

 だから次は殴られる前に聞き分けな。


 で、ようやく本題に入れるわけだが。

 お前、ケビン・ヘインズって男を知ってるな?

 ……知ってるだろ?


 なあ、おい。

 なに黙りこくってんだ。

 また殴られたいのか?

 俺は、ケビン・ヘインズを、知ってるか、と訊いてる。

 そんなに難しい質問か?

 “Yes”か“Of course”、どっちか選ぶだけだろ?

 ハハハ! シラを切ろうったってそうはいかねえ。

 もうここにいる全員が知ってんだ。

 お前がケビン・ヘインズの情婦だったことはな。


 だいたいなぁ、お前みたいにろくに働き口もないシングルマザーが、こんなご立派な住宅街に一軒家を構えてるってだけでまず怪しいだろ。

 金は? ガキの養育費はどこから出してる?

 隠れて売春ウリでもやってんのか?

 お前、元はシカゴの娼婦だもんな。


 ……何だよその顔?

 なんでそんなことまで知ってるのか、って?

 ハハハハ! 当たり前だろ、俺らを誰だと思ってる?

 お前もシカゴにいたことがあるなら名前くらい知ってるよな?

 俺は、ランスキー一家のレヴィンってもんだ。

 ――これで事情は分かったな?


 そうだ。俺たちはボスを殺したヘインズの行方を追ってる。

 あ? いや、そうじゃねえよ。

 ガンビーノ一家との抗争にはとっくにカタがついてる。

 やつらはもういない。

 全員殺した。殺し尽くしてやった。

 だがただ一人、あの抗争の途中でシカゴから逃げ延びやがったやつがいる。

 そう、ヘインズだ。

 あいつには七年前の落とし前をつけてもらわにゃならん。


 そこでお前に訊きたい。

 ヘインズは今どこにいる?

 知らないとは言わせねえ。

 お前、今もヘインズから金を受け取ってるんだろう?

 だからこんな悠々自適の暮らしができてるわけだ。

 噂によれば、やつは今もひっそり殺し屋稼業を続けてるって話だからな。

 依頼人は死の商人か、はたまたケチな売人か……

 どちらにせよ実入りはいいはずだ。

 やつの腕にはうちのボスを殺ったことで箔がついてるからな。


 で? いつまで泣いてんだ?

 泣いてちゃ分かんねえよ。

 俺はな、美人が泣いてんのを見るとゾクゾクするんだ。

 もっといたぶっていたぶっていたぶり尽くしてやりたくなる。

 それが嫌ならヘインズの居場所を吐け。

 連絡取り合ってるんだろ? 金の受け渡しはどうしてる?

 ……入金? それじゃ分からねえ。

 もっと詳しく話せ。

 喚くな。

 喚くなっつってんだろ、殺すぞ!


 ……うん?

 ああ、こりゃあいい。

 なあ、おい。聞こえたか?


 誰か帰ってきたみたいだぜ?



              ×   ×   ×



 男はじっと少年を見ていた。

 いや、見ている、というよりは、観察している、と言った方が正しい。

 少年もまた、人間を警戒する野良犬みたいにじっとこちらを観察していた。

 そうしながら、彼は彼と同じくらい貧相なテーブルに着いて、すっかりくたびれたハンバーガーを食べている。昨日の夕方、男が夜食にしようと買ってきて、結局食わずに冷蔵庫へ放り込んでおいたものだ。

 隣には水の入ったグラスと、マカロニチーズが盛られた皿。残念ながらここには酒とミネラルウォーターはあっても、オレンジジュースやコカ・コーラなんて気の利いたものはない。これでもかなりもてなしてやっている方だ。

 二人の間にはしばしの間沈黙が降りていた。

 しかしやがて、男の方が背もたれを軋ませながら言う。


「どうやってこの場所を知った?」


 少年はまた数秒睨むように男を見やり、やがて答えた。


「ママから聞いた」

「トリーナには、俺の居場所は誰にも漏らすなと言ってあったはずだが」

「知らないよ、そんなの。ぼくはここに行けって言われたから、来たんだ」

「セントルイスから一人でか?」

「……。一人じゃない」

「じゃあ、誰と来た」

「色んな人に、助けてもらった。車に乗せてもらったり、列車の切符を買ってもらったり」

「見知らぬ相手を無償で助けるような良心的な大人が、アメリカで最も危険な街に子供を一人でやるとは思えんが」

「それは、どうしても行きたいって、お願いしたから。ママが死んで、ぼくにはもうパパしかいないって」

「……トリーナは死んだのか」

「うん」

「どうやって死んだ?」

「病気だよ。ぼくが遊びに行って帰ってきたら、倒れてて……」


 男は答えず、しばらく黙ったあと煙草を咥えた。無言で火をつけ、ずいぶん高い位置にある換気用の窓を見上げながら煙を吐く。

 途端に少年が顔をしかめ、目の前に迫った煙を払った。手の中のハンバーガーはまだ半分くらい残っている。


「臭い」

「何の病気だった?」

「え?」

「トリーナは何の病気だった?」

「急性膵炎、だって」

「膵炎?」

「知らないの?」

「生憎と浅学でね。どんな病気だ」

「なんか……おなかがすごく痛くなる病気だって、聞いた」

「腹痛で死ぬのか?」

「知らない。ぼくは医者じゃないもの」


 機嫌を損ねたようにそう言って、少年はグラスの水を一口飲んだ。すぐ横に置いてあったマカロニチーズの皿は、邪魔そうに遠ざけている。


「……。お前、何歳になった」

「九歳」

「学校は?」


 少年は首を振った。行っていない、という意味だろう。

 確か以前、トリーナがそんなことを言っていた。彼女には身を隠すために一年から二年で住む場所を変えるよう言っていたから、一所に留まれず、だから息子を学校にはやらない、と決めたのだそうだ。

 その代わり、家庭教師を雇ったり教材を買ったりするのに必要な金は送ってやった。電話でのやりとりばかりで、この七年、直接会って言葉を交わすことはついになかったが、それでも男は父親としてやれるだけのことはやったつもりだった。

 トリーナはそんな自分のことを、息子にどう伝えていたのだろうか。遠いところで仕事をしている、とか?

 結局彼女は最期まで、自分以外の男と結ばれることを肯んじなかった。

 それが彼女にとって幸福だったのか、不幸だったのか。

 男には知る術もない。


「で、お前はこれからどうする」

「え?」

「ここで暮らすのか?」

「追い出すつもりなの?」

「そうは言っていない。ただお前の希望を訊いてる」

「ぼくには、他に行く宛なんてない」


 うつむき、足元に目を落としながら、少年は噛み締めるようにそう言った。食べ残しのハンバーガーを、まるで宝物みたいに大事に持ったまま。

 けれどそのわりに、少年はマカロニチーズの方には手を出さない。男は試しに皿を少年の方へ押しやった。嫌悪の眼差しが返ってくる。


「食わないのか」

「……チーズ、嫌いなんだ」

「トリーナは好きだったが」

「だからぼくも好きになるとでも?」


 棘のある反論だった。男はじっと睨みつけてくる少年を見据える。


「じゃあ、何が好きだ?」

「……」


 またしばしの沈黙があった。

 それから少年は目を逸らし、答える。


「……フランクフルト」



              ×   ×   ×



 よう。昨日ぶりだな。

 夜はぐっすり眠れたか?

 ずいぶん身奇麗になってるじゃねえか。

 その服どうした?

 ……へえ、ウィップの野郎がね。

 意外といいとこあるな、あいつ。


 それはそうと、だ。

 お前、ケビン・ヘインズって男を知ってるか?


 ハハ、まあ知らねえよな。

 お前とは縁もゆかりもない男だ。

 だが俺たちとは切っても切れない因縁がある男でな。

 まあ、端的に言うと、そいつを見つけ出して殺したい。

 昨日言った条件ってのはそれだ。


 ……あ? なんで殺すのか、だって?

 そんなのは知る必要のねえことだ。

 俺たちの仲間に入りたければ、余計なことは訊くな。

 知ろうとするな。

 これが鉄則だ。

 いいな?


 よし。話の分かるやつで嬉しいぜ。

 この任務を成功させたら、次からはアミーゴって呼んでやる。

 あ? アミーゴ? 〝兄弟〟って意味だよ。

 ……なんだ、そんなことも知らねえのか。

 まあいい。さっきも言ったな?

 余計なことは知ろうとするな。

 お前が生き延びるために必要なことだけ教えてやる。


 で、だ。

 これがそのヘインズって野郎の写真だ。

 歳は今年で四十六。

 見てのとおり白人。

 何度か整形してるみたいでな。顔を変えてやがる。

 だが色々と裏を取って確認した。

 これが今のヘインズだ。

 ほら、写真こいつはくれてやる。

 俺には野郎のブロマイドを懐で温めておく趣味はないんでね。

 とにかくその顔をよーく覚えろ。

 今度という今度こそ、やつを逃がすわけにはいかねえんだ。

 俺たちは顔が割れてる。

 おまけにやつは妙にカンがいい。

 おかげでこの七年、見つけるところまではいっても殺せなかった。

 逃げ足が速いんだ。カンガルーみたいにな。ハハハ!

 ……何? カンガルーも知らない?


 ……。

 分かった、もういい。

 今はヘインズだ。

 これからそいつを殺す段取りを教える。

 お前は俺の言葉に従って、言われたとおりのことをするだけでいい。

 簡単だろ?

 そうさ、簡単だ。


 やつはデトロイトのスラムにいる。

 お前の母親・・・・・が吐いた。


 ハッ、どういうことかって?


 そうだな。教えてやる。



              ×   ×   ×



 小一時間ほどかけて、郊外にあるショッピングモールへと足を運んだ。

 デトロイト・メトロポリタン空港の北にある、そこそこ大きなショッピングモールだ。ここではその気になれば食料から雑貨、洋服、医薬品、本、そしてちょっとした家具まで何でも揃う。いつも活気に溢れているのは、荒廃した街の中心部に比べて格段に治安がいいというのも理由の一つだろう。

 とは言え男は、世界中のありとあらゆる人種を一ヵ所に無理矢理押し込めたような、このモールの人混みが好きではない。一面のガラス張りを多用した先鋭的な建物も巨大な鏡みたいで好きになれないし、買い物と言えばほとんど食料と酒、煙草の三点セットしか買わない男にとって、わざわざこんな迷路のような商業施設など利用しなくとも、すべては街中の寂れたスーパーマーケットで事足りてしまうのだった。


 男がそんな嫌悪感を押し殺し、久しぶりにこのモールを訪れた理由は他でもない。急に入り用となった子供用の衣服や靴を揃えるためだ。

 振り向けば男の数歩後ろでは、少年が白や黒や黄色の人波にもみくちゃにされながら必死で前に進もうとしている。体が華奢なのでちょっと体格のいい大人にぶつかるとすぐ弾き飛ばされ、なかなか男に追いつけずにいるようだった。

 一方、男は法則性など皆無と言っていい雑踏の中を、まるで障害など何もないようにするすると進む。途中でいきなり進む方向を変える客がいようと、突然横から両親目がけて走り込んでくる子供がいようと動じない。

 男は巧みな足運びで人々の間を擦り抜け、それでいて誰の意識にも残らなかった。どこに何の店が出ているのかは、入り口の案内板を一目見て完璧に記憶している。

 その記憶の中の地図に従い、男は一切の無駄なく、最短の距離で必要最低限の店を回った。いざというときの逃走経路までしっかりと頭の中で計算しながら。


「お買い上げありがとうございました」


 そんな風にモールの中を歩き回って、一時間ほどが過ぎた頃。

 少年に何着か服を選ばせ、会計を終えて店を出た男は、先程まで少女のマネキンの傍にいたはずの彼がいなくなっていることに気がついた。

 買い物袋を抱え、店内をぐるりと見渡してみたがそれらしき姿はない。ついさっきまで、あの人混みの中、男に置いていかれまいと懸命についてきていたのは何だったのか。

 男は無造作に撫でつけた髪と同じ、アッシュブロンドの眉を寄せた。そうして店を一歩出たところでふと気づく。

 少年はいつの間にか、隣の店舗の前にいた。目が痛くなるような原色の看板の下、ぴかぴかに磨かれたショーウィンドウの前で何かを食い入るように凝視している。


「おい」


 もう行くぞ、という意味を込めて男は呼んだ。しかし少年は気づかない。


「おい、何を見てる」


 二度目の呼びかけで、少年はようやくこちらを見た。肌よりも淡い茶色の目で男を一瞥し、それからまたショーウィンドウの向こうへ目をやり、心なしか名残惜しそうにしている。

 男は仕方なく少年に歩み寄った。彼が熱心に眺めていたのは、色とりどりにカラーリングされた何種類もの飛行機の玩具だった。

 現代の戦闘機などとは違う、一昔前のプロペラ機や複葉機を模した玩具だ。安っぽいプラスチックで作られたそれはやけにツヤツヤしていて、本物と比べるとサイズや形もかなりデフォルメされている。


「欲しいのか」

「……」


 尋ねたが、少年は答えなかった。


「お前、飛行機が好きか」

「……」


 これにも答えはない。


「行くぞ」


 男は少年の返答を待たずに歩き出した。

 背後で少年がまた、ガラスの向こうの飛行機と男の背中とを見比べる。けれど彼はやがて諦めたように肩を落とし、男を追って歩き出した。


 男の暮らすアパートは、五大湖の一つであるエリー湖とセントクレア湖をつなぐデトロイト川にほど近い。アパート、とは言っても大家がいるわけではなく、元はそういう建物として使われていたというだけだ。

 ぼろぼろの赤煉瓦が辛うじて建物としての体裁を保っているそのアパートは、市経済の悪化により人口流出に歯止めがきかなくなっているデトロイトの他の建物同様、既に住み手も持ち主も去って廃墟となっていたものを男が勝手に拝借しているだけだった。

 当然ながら他に住人はなく、暮らしているのは男一人だ。それでも部屋がダイニングの他に二部屋もあるというのはとても理想的だったし、電気、水道については発電機や屋上の雨水タンクを利用して使えるように改造した。冬場に湯が使えないという難点はあっても、男にとって口うるさい大家や隣人がいないというのは何ものにも代えがたい好条件だった。


 そんなアパートの、狭くもなく広くもないダイニングキッチンに少年を呼ぶ。彼はモールから帰るなり、男があてがった奥の部屋――これまでは物置として使っていた――に引き籠もっていたが、飯だぞ、と低く呼びかけると、仏頂面をしながらもすぐに現れた。

 そうして互いに貧相なテーブルを囲む。外は既に暗く、天井から吊り下がった裸電球が不器用に向かい合った白人の男と黒人の少年を照らしていた。


 が、そのどこか頼りない明かりの中で少年がたちまち目を丸くする。席に着いた少年の前には電子レンジで温めるだけのピザ、出来合いのサラダ、そしてケチャップつきのフランクフルトが乗ったプレートと、飛行機の模型が置かれていた。

 昼間にモールで見かけたちゃちな玩具とは違う、かなりしっかりした模型だ。手に取ってみると素材は木のようで、表面には白と青の塗装がされていた。

 垂直尾翼には『747』の文字。どこからどう見ても旅客機だ。

 少年は目を瞬かせながら男を見た。一方の男は、早くも自分の皿のピザに囓りついている。


「これ、どうしたの?」


 少年は飛行機を手に持ったまま尋ねた。男が冷たい一瞥を投げる。


「部屋にあった。お前にやる」

「これ、パパの?」

「そうだ」

「もらっていいの?」

「やる、と言った」


 素っ気なく言いながら、男はビール瓶を開けた。少年の横にはコーラの瓶がある。


「なんていう飛行機?」

「ボーイング747。ジャンボジェット、という愛称の方が有名だな」

「ジャンボジェット……」

「知らないのか?」

「うん。ずっと昔の飛行機?」

「今も現役で飛んでいる。俺がそれを買ったのは、もう二十年以上も前だがな」

「パパも飛行機が好き?」

「ああ。好きだった」

「今は違うの?」

「さあ。どうだかな」

「ぼくは、好き」


 手の中の模型にじっと目を落とし、少年は言った。

 男はなおもピザを咀嚼しながら、そんな少年に目を向ける。


「何故だ?」

「え?」

「どうして飛行機が好きなんだ?」

「だって……空を飛べるから。鳥みたいに、自由に」

「お前は自由が欲しいのか?」

「……」

「トリーナのところは、自由じゃなかったか」


 少年は答えない。男はビールを呷った。


「俺も昔はパイロットになりたかった」

「……パイロット? 旅客機の?」

「旅客機でも、戦闘機でも」

「空を飛びたかった?」

「ああ。そうだな」

「本当になってみようって、思わなかったの?」

「思う前に仕事が決まった」

「どんな仕事?」


 好奇の眼差しを向けられて、男は黙った。

 それから一拍の間を置いたのち、言う。


「殺し屋だ」



              ×   ×   ×



 ――ハロー?

 ああ、俺だ。ちゃんと電話を寄越したな。感心じゃねえか。

 ハハ、そうムッとするなよ。褒めてるんだぜ。

 俺だって無駄玉は撃ちたくねえからな。


 それはそうとお前、今一人か?

 この会話を聞かれてないか、と訊いてるんだ。

 ……よし。上出来だ。

 初仕事にしては、お前はなかなか上手くやってる。

 で、どうだ、様子は?

 ……なるほど。あの女の話は本当だったってわけだ。


 問題はここからだな。

 俺が前に言ったこと、覚えてるか?

 ……何? 今更ビビッてんのか?

 おいおい、ここまで来て失望させんなよ。

 俺たちの仲間になりたい、そう言ったのはお前だぜ?

 それとも何だ? まさかこの俺をたばかろうってのか?


 そんなことしてみろ。

 どうなるか分かってんだろうな?


 おい。

 なあ、おい。

 いいか。俺を甘く見るなよ。

 俺はずっとお前を見てる。

 嘘じゃない。

 さっきも言ったよな?

 俺だって無駄玉は撃ちたくねえんだ。

 この意味が分かるだろ?


 ……よし。それでいい。

 お前が賢い男で良かったぜ。

 俺は馬鹿を見るとすぐに殺したくなる性分でね。

 長生きしたけりゃ、賢く生きることだ。


 ……ああ。ああ、分かった。

 次も三日以内に連絡しろ。


 いや、待て。

 最後にもう一度だけ言っとくぞ。


 俺は、ずっとお前を見てるからな。



              ×   ×   ×



 少年が男のもとへやってきてから、数日が過ぎた。

 このアパートは退屈だ。男は数日に一度買い出しに行ったり気まぐれにドライブに行く以外は、日がな一日家の中に籠もっている。

 籠もって何をしているのかと言えば、寝室で本を読んでいたり、唐突に腕立て伏せを始めたり、酒を飲んで寝ていたり。

 もちろん家事もやってのけるが、本当に必要最低限だ。食事はほとんど出来合いのものを買ってくるし、洗濯は三日に一度ランドリーへ。掃除と言えばゴミを窓から外へ放り投げるくらい。少年には手伝う余地がない。


 だから最初の三、四日間くらいは、寝室としてあてがわれた部屋の荷物をひっくり返し、何か暇潰しに使えそうなものを探した。乱雑に箱詰めされた荷物のほとんどは元々このアパートに住んでいた住人が置いていったもののようで、大量のガラクタの中には額に入ったジクソーパズルと、カラフルなカラーリングが施された六面体の玩具があった――どうやら後者は『ルービックキューブ』と呼ばれる色合せのパズルらしい。

 少年は初め、その二つの異なるパズルに没頭した。ジグソーパズルの方は完成した絵を覚えてバラバラにし、ルービックキューブも男にやり方を教わって六面すべての色を揃えるのに挑戦した。

 が、ジグソーパズルの方は二日で完成し、ルービックキューブに至っては難しすぎて途中で飽きた。


 そんなわけでここ数日の少年の楽しみは、もっぱら男が貸してくれたポータブルテレビだけになっている。まるで無骨な無線機みたいな形のそれはかなり昔のもののようで、画面は呆れるくらい小さく、しかもモノクロだった。

 しかしそんなものでもないよりはずっとマシだ。少年はすぐに動物が主役のアニメーションや、コメディアン、手品師などが多数出演するバラエティ番組の虜になった。内容が難解でよく分からないニュース番組やドラマ、ドキュメンタリーまで、食い入るように見るようになった。


 その晩も、少年は味気ない裸電球に照らされた部屋で、ぼろぼろのベッドにうつぶせてアメリカの国勢について熱弁する有識者たちの討論を眺めていた。当然ながら話の内容はまったく頭に入ってこないが、それでも人の声がするのとしないのとでは心持ちがずいぶん違う。

 たとえそれが画面の向こうの、まったく知らない赤の他人のものであっても、少年は構わなかった。黄色いシミだらけの枕に頬を預け、スーツ姿で互いに議論を戦わせている初老の男たちをぼんやりと眺める。

 ところが二人の論戦がいよいよ激しさを増そうかというとき、突然少年の前からテレビが取り上げられ、電源が切られた。

 驚いて体を起こすと、すぐそこに男が佇んでいる。叱られるのかと思ったが、男は相変わらず無表情で、怒っているのかそうでないのか、少年にはまったく読めなかった。


「もう九時を過ぎた。子供は寝ろ」


 抑揚のない声で男は言った。少年は上目遣いに男を見上げる。


「でも、まだ眠くないんだ」

「だったら本でも読んでいろ。生憎と子供向けの漫画や絵本はないが、読んでいるだけで眠くなりそうな本ならいくらでもある」

「……ぼく、字が読めない」


 少年が控えめに白状すると、男はわずかに目を見張った。男が少年の前で感情を露わにしたのは、これが初めてかもしれない。


「トリーナから習わなかったのか」


 少年は頷いた。すると男は微か見開いていた目を戻し、瞼が半分落ちた、いつもの眠たそうな顔に戻った。


「そうか」


 男の返事はそれだけだった。彼はその一言を置き土産に身を翻し、テレビを持ったまま立ち去ってしまった。


 ――翌日。


「……これは?」


 既に日も中天を過ぎた頃。少年は煙草を買いに出た男が意外なものを持って帰ったので、思わずぽかんと彼を見上げた。

 男が帰宅するなり無言で差し出してきたのは、絵本だ。それも低年齢向けのかなり易しい絵本のようで、表紙には最近少年が入れ込んでいるアニメによく似た、デフォルメされた動物たちの姿が描かれている。


「テレビばかり見ていても退屈だろう。やる」

「でも、ぼく、字が」

「読んで覚えろ」


 言って、男は表紙に描かれた、アーチ状のポップな文字列を指差した。


「『かしこいコヨーテ』」

「え?」

「この本のタイトルだ」

「かしこいコヨーテ?」

「そう」

「コヨーテ、って、何?」


 少年が尋ねると、男は何故か黙り込んだ。それから深いため息をつき、表紙に描かれた犬と狐の合いの子みたいな動物を示す。


「これがコヨーテだ」

「じゃあこれは?」

「ロバ」

「この白い鳥は? ハクチョウ?」

「違う。アヒルだ」


 男は呆れた様子で言い、座れ、と、いつも食事をするあの貧相なテーブルを顎で示した。少年はてっきり自分の浅学を責められるものと思い、絵本を抱えて悄然と席に着く。

 だが、少年の予想は外れた。男は脱いだ外套を寝室に置いてくるとすぐに戻って――気が進まない様子ではあったが――少年の前で絵本を開き、親切にもそこに綴られた文字を読み上げ始めた。


「昔々あるところに、一匹のヘビがおりました。ヘビはある日、崖から落ちてきた岩に挟まれ、動けなくなってしまいました……」


 少年は食い入るように男の指の動きを追った。隣に座った男は文章を読み上げながら、それがどの部分かを指先で示し、ゆっくりとなぞっていく。

 それは少年にとって、とてつもなく有意義な時間だった。『かしこいコヨーテ』の話の内容は、要約するとこんな感じだ。


 ある日岩に挟まれて動けなくなったヘビが、たまたま近くを通りかかったアヒルに助けを求めた。アヒルは哀れんでこれを助けるが、ヘビは体が自由になると腹が減ったからアヒルを喰うと言い始める。

 恩を仇で返すのか、とアヒルが怒れば、ヘビは悪びれもせずに「良いことをすると悪い報いがあるんだよ」と嘯いた。

 それを聞いたアヒルは、ならば他の動物たちにどちらの言い分が正しいか訊いてみようじゃないか、と提案する。


 かくして一羽と一匹は、道端で出会うウシやロバにどちらを正しいと思うか尋ねてみた。するとウシもロバもヘビの言うことが正しいと言う。

 自分たちは人間のためにくたびれるまで働いたが、人間はそれに報いるどころか、働けなくなったウシやロバを殺そうとした。つまりどんなに良いことをしても受けるのは悪い報いだけだ、と。

 この答えに気を良くしたヘビはいよいよアヒルを食べようとした。だがアヒルは最後にコヨーテを呼び止め、尋ねた。

 するとコヨーテは、アヒルがヘビを助けたときの状況が分からなければ何とも言えないという。


 そこで一羽と一匹は、そのときの様子を再現することにした。アヒルはヘビのもとを離れ、ヘビは岩の下敷きに。

 これでヘビは動けなくなった。

 それを見たコヨーテは笑って言う。

 お前、この世じゃ良いことをすると悪い報いがあると言ったね。ならば悪いことをしたらどんな報いがあるのかな。その答えをそのままそこで考えていろ――。


「……コヨーテは賢いね」

「だから『かしこいコヨーテ』だ」


 話を最後まで読み終えると、男は絵本を閉じて至極当然のようにそう言った。

 それから彼は席を立ち、この薄汚れたアパートには不釣り合いな、やけに立派なドリップマシンでコーヒーを淹れ始める。少年はそんな男の背中を後目にもう一度絵本を開き、たった今男が読んでくれた話の内容を何度も反芻した。


「このお話では、ウシもロバも良いことをすると悪い報いがあるって言ってるけど……でも、アヒルは最後には助かったんだから、良いことをすれば良い報いが返ってくることだって、あるよね」

「そうだな」

「だけど、悪いことをしたら悪い報いしか返ってこない?」


 絵本の最後のページ、再び岩に挟まれたヘビの絵を見ながら少年は尋ねた。男は答えない。


「……ねえ。殺し屋って、人を殺す仕事のことだよね?」

「ああ」

「パパは、殺し屋だったんだよね」

「そうだ」

「人を殺すのって、悪いこと?」

「そうだな」

「じゃあ、パパもいつか報いを受けるの?」


 ドリップマシンの稼働音が止まった。少年は男を振り返る。

 男はこちらに背を向けて、湯気の立つ白いマグを手に取った。

 そうしてこちらを顧みながら、言う。


「報いなら、もう受けている」



              ×   ×   ×



 ――遅いぞ!

 おいてめえ、ようやく連絡を寄越しやがったな。

 俺は三日置きに連絡を入れろと言ったはずだ。

 俺が一度でもロシア語で話したか? あ? 違うよな?

 あと一時間待っても連絡がなかったら殺しに行くところだったぜ。

 次はねえぞ。気をつけろ。


 で、首尾はどうだ。やつは殺せそうか? 

 ……何?

 おい。おいおいおいアミーゴ!

 何度も言わせんな。今更後戻りはできねえってよ。


 とにかく、いいか、黙れ、黙れと言ってる!

 その言い訳しか吐けない口を閉じろ!

 俺は最初に言ったな。この件には一ヶ月でケリをつけると。

 あと一週間だ。

 一週間でできなければ俺が殺る。

 ヘインズも、お前もな。


 ハハ、おい、このマヌケ野郎。

 この俺から逃げられると思うなよ。

 前にも言ったが、俺はずっとお前を見てる。

 お前の考えそうなことなんてお見通しさ。

 言ったはずだ。今度こそ逃さねえ。


 お前がその邪魔をするってんなら、こっちも容赦しねえぜ。

 逆にお前がもう一度利口になるってんなら、俺たちも歓迎する。

 アミーゴ。

 悪くない響きだろ? なあ?


 とにかくあと一週間だ。

 俺もこれ以上はうるさく言わねえよ。

 だから選べ。


 生きるか、死ぬか。



              ×   ×   ×



 ダイニングのテーブルに向かって、少年は熱心にペンを動かしていた。

 〝(SKY)〟。〝飛行機(PLANE)〟。〝パイロット(PIROT)〟。

 覚えたての単語を、たどたどしいアルファベットで何度も綴る。そうしていると、初めはどこか頼りなくよれよれしていた文字の線が、次第にしゃんとしてくるように思えた。まるで赤の他人だった相手が少しずつ親しい友人になってくるような、そんな感じだ。

 それで言えばこの三つの単語と少年は、既に親友と呼んでもいい間柄だった。何せ彼は朝からずっと、コピー用紙の一面にこの文字を綴り続けている。

 理由はニ日前、男が買ってくれた乗り物図鑑にあった。少年は子供向けの、平易な文章で書かれた飛行機の説明文を何度も読み返しては、そこから単語を覚えて書き綴る。

 図鑑には他にも戦艦とか機関車とか、童心をくすぐる乗り物がたくさん掲載されているが、少年はどれも眼中にない。興味があるのは旅客機、戦闘機、複葉機、プロペラ機、あとはロケット。それだけだ。


「おい、出かけるぞ」


 と、ちょっと前まであんなに夢中だったテレビも忘れ、正午を迎えた頃。

 少年は不意に声をかけられ、我に返った。顔を上げれば、奥の寝室からいつもの外套を羽織った男が出てきて、懐に何か収めている。


「お前も来るか」

「どこへ行くの?」

「煙草と食糧を買えるところなら、どこでも」

「じゃああのモールがいい!」


 少年は椅子から跳び下りながら言った。男は何も答えなかったが代わりに頷き、上着を取ってこい、というように顎をしゃくる。

 要望が容れられた少年は大はしゃぎで、それこそ飛ぶように部屋へ舞い戻った。そこからデニム生地の上着をひったくり、袖を通しながら男のもとへ向かう。

 男は火のついた煙草を咥えながら、左腕に巻いた革のホルスターに小さな銃を収めているところだった。恐らく先程懐に捩じ込んでいたのも銃だろう。どうやらその懐のものと合わせて、常に二挺持ち歩くのが男の習慣らしい。

 少年はその銃を見て、足を止めた。急に興奮が醒めて、体温が床に吸われていく。

 そのまま何も言えずに立ち尽くしていると、腕の銃を外套の袖でいつもどおり隠した男が口を開いた。


「行くぞ」


 男の言葉はいつも短い。少年はぎこちなく頷いて、家を出ていく男に続いた。

 滑らかな流線を描くスチールグレイの車に乗り込み、モールまでの道を走る。家でもそうだが、乗り合わせた二人の間に会話はほとんどない。

 沈黙を埋めてくれるのは、ラジオから流れるカントリーミュージックと低いエンジン音だけ。

 少年はスピーカーから聞こえる陽気な歌声に耳を傾けながら、じっと窓の外ばかり見ていた。

 街のあちこちに、目、口、鼻を刳り抜かれたカボチャの置物が飾られている。


 そのまま小一時間ほど走り、モールに到着した二人は、いつものように買い物を済ませた。その途中、男は二階にある書店に寄って、少年に新しい本を一冊選べと言う。

 気になる本がたくさんあって、少年はしばらく悩んだが、やがて一冊の絵本を選んだ。表紙におばけのような格好をした子供たちと、カボチャ頭の怪人が描かれている絵本だ。


 ひととおりの買い物が済むと、男はアパートへ引き返すのではなく、南へ車を走らせた。デトロイト・メトロポリタン空港までのドライブだ。

 道すがら、偶然見つけたドーナツ・ショップでドーナツとコーヒーとホットチョコレートを買い、二人は空港近くの公園に入った。少年はその公園に、以前にも連れてきてもらったことがある。

 バスケットコートとテニスコートしかない閑散とした公園だが、ここにいると時折空港へ向かう飛行機が見えるのだった。

 男と少年は片隅にあるベンチに腰かけ、飛行機が来るのを待つ。十月も終わりに近づき、風は冷たいが、ドーナツ・ショップで買ったホットチョコレートが冷えた体をじんわりと温めてくれた。


「ねえ、これ読んで」


 飛行機を待つ間、少年は先程買ってもらった絵本を男へ渡す。男は飲んでいたコーヒーを置いてそれを受け取ると、普段と変わらぬ抑揚のない声で絵本の内容を読み上げた。

 タイトルは『たのしいハロウィン』。子供たちがハロウィンの日に仮装して街を練り歩いていたら、カボチャ頭の怪人が現れて不思議の世界へ招待してくれるという話だ。

 少年は男の語りを聞きながら、色彩豊かに描かれたハロウィンの情景に目を奪われた。

 シーツを被った真っ白おばけ。作り物の牙を生やしたヴァンパイア。紫色の三角帽子を被った魔女。色とりどりのキャンディー、チョコレート、マシュマロにビスケット……。


「お前、ハロウィンが好きなのか?」


 やがて絵本を読み終えると、唐突に男が訊いてきた。

 それまですっかり絵本の世界に入り込んでいた少年は、急に現実に引き戻されて思わず目を瞬かせる。


「ううん、別に好きじゃないけど……」

「じゃあ何故この本を選んだ?」

「それは……ぼく、やったことないから」

「何?」

「ハロウィン、やったことないんだ。だから、どんな風なのかなと思って」


 言いながら、少年は男の膝の上にある絵本へもう一度目を落とす。そこに描かれた子供たちはカボチャ頭の怪人と仲良く手をつなぎ、とても楽しそうだった。


「……。トリーナはやらせてくれなかったのか」

「う、うん……。パパはやったことある?」

「いや、ない」

「ないの? 小さい頃だよ?」

「俺に〝小さい頃〟はなかった」

「……? 昔から大人だったってこと?」

「そうとも言う。……どれがいい?」

「え?」

「お前は、仮装するならどれがいい」


 尋ねられ、少年はまたも虚を衝かれた。三度みたび絵本へ目をやると、そこには様々の怪人やモンスターに変装した子供たちの姿がある。

 少年はしばし悩んだのち、見開きのページの、真ん中あたりに描かれている一人の子供を指差した。


 彼方から、細く尾を引くような飛行機のエンジン音が聞こえてくる。



              ×   ×   ×



 おかけになった電話番号は現在使われておりません。

 申し訳ございませんが、電話番号をご確認の上、もう一度おかけ直し下さい。


 おかけになった電話番号は現在使われておりません。

 申し訳ございませんが、電話番号をご確認の上、もう一度おかけ直し下さい。


 おかけになった電話番号は――



              ×   ×   ×



 男が買ってきてくれた吸血鬼ドラキュラセットは、なかなかの出来映えだった。

 内側が赤い黒のマントに、近世のイギリス貴族を思わせる燕尾服。きちんと黒人用に作られた尖り耳。それから、つけ髭ならぬ二本のつけ牙。

 それらをすべて身につけると、少年はどこからどう見ても立派なドラキュラになった。唯一、身長だけが足りなかったけれども。


 十月最後の日曜日。

 アメリカにおける多くの都市がそうであるように、デトロイトでもまた、街のあちこちでハロウィンイベントが開催された。

 少年が男と共に向かったのは、セントクレア湖にほど近い緑地公園だ。男と少年がいつも飛行機を眺めにいく公園とは違い、かなり大きくて、特に今夜はたくさんのイベント参加者で大賑わいだった。

 芝生が敷かれた広場には多くの出店が並び、至るところにキャンドルを入れたジャック・オ・ランタンが飾られている。広場を照らす光源のほとんどはそれで、見渡す限りオレンジ色だ。魔女、幽霊、ゾンビ、悪魔、骸骨、怪獣、ピエロ……とにかく大人から子供まで、色んな仮装をした人々が溢れている。まるで異界のパーティに迷い込んだかのようだ。


「――おい。どうした」


 あちこちから甘い菓子の香りが漂ってくる夜の公園。立ち止まり、そこに集う人々の姿を忙しなく目で追っていると、不意に前方から声がした。

 はっとして振り向けば、数歩先で男が外套のポケットに手を突っ込んで立っている。彼の服装はいつものままだ。無地のトレーナーに暗い色のボトムス。羽織っている外套も黒い上、丈があるので、ちょっと目を離すと闇に溶け込んで見えなくなってしまいそうな気さえする。


「立ち止まるな。はぐれるぞ」

「う、うん……ごめんなさい」

「どうかしたのか?」

「え?」

「昨日から妙に落ち着きがない」


 少年は体を硬くして男を見上げた。少年を見下ろす青灰色の男の目からは、相変わらず感情が窺えない。


「べ、別に、何でもないよ。ただ、初めてのハロウィンだから……その、興奮しちゃって」

「そうか」

「あの……ありがとう」

「何がだ?」

「この服、用意してくれて。イベントにも、連れてきてくれたし」

「気にするな」

「ぼく、ちゃんと吸血鬼に見える?」

「ああ。だが、血は吸うな」


 男にしては珍しく、冗談を言ったのだろうか。少年は思わず笑った。

 少し離れたところで、黄色と水色の二色で塗られたとんがりテントに子供たちが群がっている。どうやらそのテントは無料で菓子を配るブースのようだ。

 テントの前ではずいぶんと足の長い大男――少年は知らなかったが、あれは足長スティルトと呼ばれるパフォーマーらしい――が笑顔でお菓子をばらまいていた。まるでキャンディーの雨が降っているみたいだ。

 弾けるような笑い声につられて目を向けると、男が横で顎をしゃくった。行ってこい、という意味らしい。


「あれは子供限定だ」


 言われてみれば、確かにテントの前には子供たちしか集まっていない。少年は男の顔色を窺いつつ、彼の視線に押されてテントへ歩み寄った。


「と、トリック・オア・トリート!」


 ずっと言ってみたかった台詞を口にする。すると、不気味なほど背の高いピエロが腰を曲げ、少年に笑顔を向けた。


「おやおや、これはかわいらしいドラキュラ伯爵だ。だが、いくらかわいくても噛まれるのだけは勘弁だな。代わりにこれをあげるから、イタズラしないでおくれ」


 ピエロはそう言って、直接手渡しでキャンディーをくれた。ドラキュラの仮装をしていたためだろうか。血のように赤いセロハンでラッピングされたキャンディーだ。それも三つも。

 少年はそれを受け取るとピエロに礼を言い、一目散に駆け出した。テントに群がる子供たちの後ろで、無表情の男が待っている。


「ねえ、見て! お菓子、もらえた!」

「良かったな」


 男の感想は短かった。それでも少年は嬉しくて、男に白い歯を見せる。

 二人はその後も公園内をぶらぶら歩いた。どこもかしこもすごい人だ。途中、曲芸師たちによるパフォーマンスがあったりもして、少年は夢中でそれに見入った。男はあまり興味がなさそうだったが、彼らの出し物が終わるまで、少年の隣で一緒に見物してくれた。


「この金で好きなものを買ってこい」


 男がそう言って五ドル札をくれたのは、曲芸師たちによるパフォーマンスが終わり、ステージの前から人々が解散した頃のこと。

 男は広場の外れにあるベンチに腰を下ろし、出店が集まっているあたりを目だけで示した。男が座ったのは街灯の明かりもない暗がりで、そこは人々の熱気から少し遠い。


「いいの?」

「金には困ってない。これ以上使い道もないしな」

「使い道?」

「こっちの話だ。とにかく俺はここで一服する。あの人混みじゃ煙草も吸えん」


 言うが早いか、男は既に懐から煙草を取り出し、口に咥えた。少年は受け取った五ドル札と男とを見比べる。


「……この間テレビで、煙草は体に悪いって言ってたよ」

「そうらしいな」

「煙草の煙は毒なんだって。だからあんまり吸わない方がいいよ」

「今更そんな心配をしてもしょうがない」

「もう手遅れってこと?」

「俺はヘビだ」


 男の言葉の意味が分からず、少年は眉をひそめた。そんな少年の反応にも頓着せず、男は煙草に火をつける。


「分かったら、行ってこい」

「分かんないよ」

「分からなくても行ってこい。俺は少し休む」


 言って、男は煙を吐いた。少年は不審なものを見る目つきで男を見たが、男はまるで虫でも追い払うように手を払う。

 仕方なく、少年は踵を返して出店へ向かった。飲み物、軽食、雑貨、玩具……とにかく色んな売り物が並んでいる。どの店もそれなりに繁盛しているようだ。

 だがその中でも特別長い列が出来ている出店に、少年は目をつけた。並んでいるのは子供ばかりだが、その先に見たこともない不思議な機械がある。

 それは一見、大きなたらいのように見えた。スーパーマンの格好に仮装した店員がその盥に棒きれを突っ込んで、スープでも混ぜるみたいにぐるぐると回している。

 するとその棒きれの先にピンク色の綿のようなものがくっついて、どんどん大きく膨らんだ。

 やがてそれが大人の顔くらいの大きさになると、列の先頭に並んだ子供が飛び跳ねる。スーパーマンが紙幣と引き替えに棒きれを渡した。受け取った子供は列を外れながら、早速ピンク色の綿にかぶりつく。驚いたことに、どうやらあれは食べ物らしい。


 少年は未だかつて見たことがないその食べ物に興味を引かれた。右手に握り締めた五ドル札を見て、買うならあれがいい、と即座に決めた。

 急いで列の最後尾に並ぶ。五ドルであれが買えるだろうか。どんな味がするのだろう。食感は? そんなことを考えながらうずうずと自分の番を待つ。

 けれど途中で、少年は気づいた。

 子供たちが並ぶ謎の出店の隣。そこにはマスクの露店がある。

 ゾンビに骸骨、人造人間、狼男。どれも気味が悪いほどに精巧で、いかにもハロウィンらしい。


 そう言えば男は、自分もハロウィンの仮装をしたことがない、と言っていた。だとしたら、こういうイベントに来るのもきっと初めてのことだろう。

 元々こういうことには興味がない人間なのかもしれない。少年が見る限り、男は世間というものに対して無頓着で、マイペースで、どんなことにも感情が動かない人物のように思える。

 けれど彼は、少年の好物を覚えていてくれた。飛行機の模型をくれた。絵本を買ってくれた。文字を教えてくれた。こうしてハロウィンにも参加させてくれた――。


 少年はもう一度右手の五ドル札を見た。

 それから意を決して、スーパーマンの店に並ぶ列を外れる。

 マスク屋の前に立ち、真剣になってマスクを選んだ。

 男に似合うのはどれだろう。この頭にネジの刺さったツギハギ男だろうか? それとも宇宙人? もしくはこの角の生えた、ヤギの――


「よう、アミーゴ」


 そのとき突然、少年は後ろから肩を叩かれた。

 聞こえた声に目を見張り、反射的に振り返る。

 そこには一人の男がいた。

 黒のスーツに中折れ帽を被った、まだ若い男だった。



              ×   ×   ×



 ――よう、戻ったぜ。

 ……何だ、お前? 泣いてんのか?

 ハ! 泣けばイエス・キリストが助けてくれるとでも?

 お前がそんなに信心深いとは思わなかったぜ。

 ちなみに俺は無神論者アセイストだ。


 だいたいな、俺たちが本気でお前みたいなガキを信用するわけないだろ。

 初めからこうするつもりだったんだよ。

 そのために話を持ちかけた。ヘインズは顔に似合わず、あのトリーナとかいう黒人の娼婦にかなり入れ込んでたみたいだったからな。

 じゃなきゃ抗争の最中さなかに組織を裏切って、女連れて逃げたりしねえだろ。

 だからずっと探してたんだ。

 やつの弱み・・をな。


 だがヘインズと違って女の方は救いようのねえ馬鹿だった。

 何せ俺たちに銃を向けやがったんだ。

 息子を放せ・・・・・、とな。

 あの売女ビッチ、ちゃっかり銃なんか隠し持ちやがって。

 だから言ったんだ。

 俺は馬鹿を見ると殺したくなる性分だってな。


 まあ、何はともあれお前の協力には感謝するよ。

 さっきヘインズに電話をした。俺の部下に携帯を届けさせてな。

 あの野郎、律儀に一時間もお前の帰りを待ってたみたいだぜ?

 いい父親・・を持ったなぁ、ハハハ!


 ……あ? 何だよ、その顔は?

 そりゃ、確かに俺たちはお前を利用したけどな。

 お前がもし本当にヘインズを殺してくれたら、そのときはちゃんと仲間にしてやるつもりだったんだぜ?

 言ったろ。

 俺だって無駄玉は撃ちたくないのさ。


 まあ、だが今回は特別だ。

 あの腐れ野郎のドタマに風穴を開けられるなら、一発くらい安いもんさ。

 そういやお前、あいつを殺せないとか言ってたな?

 まだあいつと一緒に暮らしたいか?


 ……そうか。

 なら、安心しろ。


 全部片づいたら、お前も地獄に送ってやるよ。



              ×   ×   ×



 スライドを引き、銃弾を装填した。

 無表情に闇を見つめ、車を降りる。

 カントリーミュージックはもう聞こえなかった。

 かつてこの街の経済を支えた自動車工場の廃墟。

 男はそこに足を踏み入れる。あちこちから視線を感じたが、振り向かず、真っ直ぐに、前だけを向いて中へ入った。

 ところどころコンクリートの壁が崩れた通路に、男の足音だけが響き渡る。

 時刻は既に深夜だ。明かりの一切ない通路を、男は腕時計に内蔵されたライトの明かりだけで進んだ。

 この工場がまだ稼動していた頃、車体の組み立て作業が行われていたと思しい巨大なホールに入る。

 以前は乗用車を乗せて動いていたと思しいベルトコンベアや、役目を失った溶接ロボット。

 耳を澄ませば、それらがまだ動いていた頃の機械的なリズムが聞こえてきそうな気がする。


「待ってたぜ、ケビン・ヘインズ」


 無人の工場の様子に気を取られていた男の前方から声がした。先程電話口で聞いたのと同じ、鼻にかかった男の声だ。

 男はゆっくりとそちらへ視線を向けた。黒いスーツを着た男が一人、機械類のない開けた空間に立っている。

 恐らく、元は搬入した荷物などを置くスペースとして利用されていたのだろう。スーツ男は足元に白い光を放つ電球式のランタンを置いていた。右手には銃。そしてその銃口は、彼に肩を抱かれた少年の頭へ向けられている。


「まさか本当に一人でのこのこ現れるとはな。あんたはもっと慎重で賢い男だと思ってたぜ」

「久しぶりだな。アルフォンソ・レヴィン」

「光栄だな。俺を覚えててくれたのか」

「七年もつけ回されれば、忘れたくても忘れられんさ」

「人のせいにするなよ。お前が七年もみっともなく逃げ回るのが悪いんだぜ」

「すまない。だが俺にもやるべきことがあったんでな」


 男が抑揚もなく答えると、かつてランスキー一家の下っ端だった男は仰け反って笑った。相変わらず耳障りな笑い方をする男だ。

 まだ若いが、顔つきは垂れ目がちで品がない。いかにもお喋り好きそうな口元も、他のパーツに比べて不格好に大きい鷲鼻も、何もかも昔のままだった。


「そのやるべきことってのは、自分の組織を裏切って元娼婦を養うことか?」

「それと、子供だ」

「ハ! あんたの子供かどうかも怪しいガキだろ?」

「それでも、俺の息子だ」

「驚いたな。ガンビーノ一家で一番の冷血漢が、家族愛溢れる模範的父親だったとは」

「レヴィン。俺は無駄話が嫌いだ」


 言って、男はレヴィンへ銃を向けた。瞬間、レヴィンの銃口もまた少年の蟀谷こめかみにぴたりと当てられる。


「この状況で俺を撃つ気か?」

「……」

「銃を捨てろ。あんたの負けだ」

「――捨てちゃダメだ!」


 つけ耳も牙も剥がれ、場違いな燕尾服だけをまとった少年が叫んだ。男の視線が彼へ向く。

 少年はぎゅっと眉を寄せて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「なんで……なんで来たんだよ! ぼくは、ずっと騙してたのに! 本当は、ぼくは、この人たちに――」


 鈍い殴打音が響いた。少年が冷たい床に倒れ伏す。

 レヴィンが銃把で少年を殴り倒した音だった。男の銃口が狂いなくレヴィンを向く。だがその引き金が引かれるよりも早く、レヴィンは少年に銃を向け直した。


「で、どうする? あんたはその大事なガキをここで見殺しにするか、それとも救うか?」


 レヴィンの怒号がだだっ広いホールに響く。その残響がゆっくり鉄とコンクリートに吸い込まれていき、あたりには沈黙が立ち込めた。

 男はレヴィンを、少年は男を見つめている。

 どれほどの時が流れただろうか。

 やがて男は、銃を下ろした。

 レヴィンの口角が吊り上がる。


「やめて――!」


 少年が跳ね起きるのと、銃声が轟くのが同時だった。

 男の右胸が爆ぜ、銃が宙を舞う。男の体はゆっくりと、背中から倒れ込んだ。少なくとも、少年にはそのように見えた。


「ケビン……!」


 少年は駆け出した。仰向けに倒れた男の体に取り縋る。

 男はまだ息があった。駆け寄ってきた少年へ、青灰色の瞳が向けられる。レヴィンの哄笑が工場に響いた。


「ハハハ! やってやったぞ! ついにやった! 組織の誰も成し得なかったことを、この俺が――」


 男の口が動いた。

 瞬間、少年は頭を抱えてその場に伏せる。


 銃声。


 レヴィンの笑い声が途絶えた。

 額には風穴。

 男の手には、彼がいつも左腕に忍ばせていた小型の銃コルト・ベスト・ポケットが握られている。


 途端に工場内が色めき立った。男がここへやってくるときに感じていた視線の主たちが、怒声を上げて湧いてきた。

 男は起き上がりざま、まず柱の陰から現れた一人を撃つ。次に大型機械の裏から飛び出してきた男。四発目はレヴィンの死体の傍にあるランタン。これで一時的にではあるが、相手はこちらの居場所を見失う。


「ケビン――」

「――声を上げるな」


 男は先程取り落とした拳銃グロックを回収し、胸を押さえて立ち上がった。咳き込んだ拍子に口から血が滴る。

 コルト・ベスト・ポケットを握ったままの手で少年を誘導し、狙いもつけずに飛んでくる銃弾の雨を掻い潜った。ベルトコンベアの上に廃棄されていた組み立て途中の車の陰に隠れ、やみくもな銃撃をやりすごす。


「ケビン、血が――」

「声を上げるなと言った」

「でも、このままじゃ……!」

「これを持て」


 男はグロックの方を少年に差し出した。少年は首を振る。


「ぼく、撃てない」

「護身用だ」

「なら、そっちの小さい方がいい」

グロックこっちの方が弾数があるし、性能もいい」

「でも」

「お前も将来、家族を持てば、守らなきゃならないときが来る」


 少年は男を見上げた。

 街の明かりか、それとも月明かりか。

 ぼろぼろになった天窓から射し込む光が、男の表情を照らしていた。

 このとき少年は、初めて男が笑っているのを見た。

 ほんの少し口の端を持ち上げただけで、本当に笑っているのかどうか、それすらも判然としない笑みだったけれど。


「耳を澄ませ」


 掠れた声で、男が言った。

 直後、それまであちこちで上がっていた怒声が止む。

 次に聞こえたのは、動揺の声と下品な悪態だった。それから――サイレン。

 甲高く唸るような音。まだ遠いけれど、それが複数。

 少年はまたも男を振り向いた。


「ここに着く直前に呼んでおいた。あの男にもらった携帯でな」


 言って、男は懐から取り出した小さな機械を床へ放った。それは確かに携帯電話だった。

 先程まで銃を乱射していた男たちが、口々に何か言いながら逃げ去っていくのが分かる。足音はあっという間に遠のき、工場内には男と少年、そしていくつかの死体だけになった。

 少年は改めて男の容体を見やる。胸に穴が開いていた。口からはまるで喘息みたいな喘鳴が漏れている。少年は男に縋った。


「ねえ、ケビン、死なないで」

「それは……かなり難しいな」

「お願いだよ。ぼくを一人にしないで」

「言っただろう。俺はヘビだ」


 このときようやく、少年は先程公園で聞いた男の言葉の意味を理解した。

 途端に涙が溢れてくる。少年は叫んだ。


「だったら、ぼくもヘビだ」

「何故?」

「だって、ぼくは、ケビンを騙した。ぼくはジョーイなんかじゃない。ただの孤児だ。それを、シカゴのスラム街で、あの人たちに拾われて」


 男はわずかに目を細めた。それ以上言うな、と言われているような気がしたが、少年の言葉は止まらない。


「ぼく、七歳のときに、家を飛び出したんだ。お母さんはぼくを見てくれなかった。お父さんは――違う、あれはお父さんじゃない、でもお母さんがそう呼べって言ったんだ――だけどそのお父さんは、いつだってぼくを殴りつけた。だから、シカゴの街で、一人で」

「……」

「それをあの人たちに拾われたんだ。ケビン・ヘインズって人を殺せたらマフィアの仲間にしてくれるって。そしたらもう、人から物を盗んだり、誰かに殴られたり、凍死しそうになったりしなくて済むと思った。だから――」

「――知ってたさ」

「……え?」

「お前がジョーイでないことは、初めから、知っていた」


 サイレンの音が、さっきよりも大きくなった。

 少年は絶句している。


「だから、俺は一度も、お前をジョーイとは呼んでいない。一番最初に、ジョーイなのか、と、尋ねただけだ」

「……どうして」

「お前の話には、不自然な点が多すぎた。それに、俺はこの七年……トリーナたちの様子を、何度も見に行った。直接、会いはしなかったがな。だから、本物のジョーイの顔は、目に焼きついている」

「なら、どうして」


 少年の問いかけは、叫びに近かった。

 男は右胸を押さえたまま、ゆっくりと目を閉じる。


「俺と同じだったからさ」

「どういうこと?」

「お前は、昔の俺に似ていた」


 だからだ、と男は言った。

 少年の瞳から、止まりかけていた涙が再び溢れる。口を開いたが、言葉は何も出てこない。


「最後に、本当の名前を訊いても?」

「……ない」

「何?」

「名前、ないんだ。お母さんは、一度も呼んでくれなかった」


 男は数瞬の沈黙ののち、「そうか」と言ったようだった。

 けれどもそれは口の動きだけで、声は聞こえない。遠くから、警官のものと思しい足音がする。


「これを持っていけ」


 男がポケットから何か取り出し、少年の手に握らせた。

 薄明かりの中に翳してみると、どうやらそれは鍵のようだ。プラスチック製の鍵札がついており、そこに何やら数字が書かれている。


「これは?」

「デトロイト空港にある、ロッカーの鍵だ。ほとぼりが冷めたら……まずそこへ行け。なるべく、早い方がいい」

「何があるの?」

「子供用の、服や靴、玩具の中に……金を、紛れ込ませてある。当分は、お前一人でも、生きていけるだけの額だ」

「ケビン」

「これだけは、言っておく。お前はな。ヘビじゃない。――コヨーテさ」


 男は、やはり微笑んでいた。こらえきれなくなった少年の慟哭が建物に響く。

 警官たちの足音が近づいてきた。口々に何か叫んでいる。

 少年は男に縋った。男もそれを抱き留める。

 そして、言った。


生きろ(Survive)息子よ(My Son)



              ◯   ◯   ◯



 校門の向こうへ消えていく息子に手を振って、マイソンは車のエンジンをかけた。

 窓の向こうでは、女性教師に手を引かれたジョーイが何度もこちらを振り向いている。手にはボーイング747の模型。ジョーイはあれがお気に入りだ。片時も手放そうとしない。

 そんな小さな息子の姿がやがて見えなくなると、マイソンは車を発進させた。後ろ髪を引かれる思いがしたが、仕方がない。マイソンはこれからしばらくニューヨークを離れることになる。

 だがマイソンは、やはりこの仕事を辞める気にはなれなかった。やりがいを感じているし、何よりも誇りがある。

 家族とわずかな時間しか共にいられないのは残念だが、それでもマイソンはこの仕事が好きだ。子供の頃からずっと憧れていた職業だから。


「おはようございます、ヘインズ機長」

「ああ、おはよう。晴れて良かったな」


 空港の駐車場で顔馴染みの客室乗務員と行き会い、互いに笑顔で挨拶を交わす。彼女とは今回のフライトで共にロンドンへ向かう予定だった。せっかくなので世間話をしながら、二人で会社のオフィスを目指す。

 マイソンたちの暮らすサウス・リッチモンド・ヒルから車でおよそ十分。ジョン・F・ケネディ国際空港は今日も朝から大勢のスタッフ、利用客で賑わっていた。

 擦れ違う同僚たちと挨拶を交わしながら、関係者専用の入り口をくぐる。もう何年も繰り返してきた、変わらぬ出勤風景だ。


「おはようございます、機長」

「おはようございます」

「ああ、おはよう。今回のフライトもよろしく」


 ディスパッチルームでの打ち合わせと確認を終えて、第四ターミナルから飛行機へ乗り込む。搭乗口で乗客を案内していた客室乗務員たちに迎えられ、マイソンは操縦室へ向かった。

 副操縦席には既に今回の副操縦士が着席している。マイソンより二つか三つ年下の、まだ若いアイリッシュだ。既に一度ディスパッチルームで顔を合わせているが、マイソンとは初めて組むパイロットだった。

 そのマイソンが操縦席に着くや否や、彼は横から熱い眼差しを注いでくる。形のいい唇が何か言いたげにしているのを見て取って、マイソンはシートベルトを締めながらすぐ隣を振り向いた。


「俺の顔に何かついてる? 目と鼻と口以外に」

「いえ、いえ。すみません。そういうわけじゃないんです。ただ、あなたと一緒に飛べるのが光栄で」

「どういう意味だい?」

「よく言われませんか? あなたは若いパイロットたちの憧れですよ。何せ機長就任の最年少記録を塗り替えた。その若さで機長を任されるだなんて、本当にすごいことです。だからずっと、こうしてご一緒できるのを楽しみにしていました」

「その分、年嵩の先輩方にはかわいがられる・・・・・・・けどね」


 マイソンが冗談めかして言えば、副操縦士も破顔した。操縦席から見える九月の空は清々しいほど晴れ渡っていて、マイソンはわずかに目を細める。


「一つ、伺ってもいいですか?」

「何だ?」

「機長はどうしてパイロットに?」


 最後のベルトをカチリと嵌めて、マイソンはもう一度隣の副操縦士を見た。操縦室へ入る前に頼んでいたコーヒーを、後ろから乗務員が運んでくる。

 マイソンは礼と共にそれを受け取った。まだ熱い液体を口の中へ流し込む。


「そういう君は?」

「僕は、単純な憧れから、ですね。子供の頃、幸運にもサンダーバーズの展示飛行を見る機会があったんです」

「アメリカ空軍の曲技飛行アクロバットチーム?」

「ええ、そうです。それ以来ずっと飛行機の虜で。だけど母が軍人になるのだけはやめてくれと泣いて縋るので、それなら別の道でパイロットになろうと思ったんですよ」

「なるほど。だけどまさか、この機体で宙返りはしないよな?」

「ご希望とあらばやってみせますが、責任は取りません」


 隣で肩を竦める副操縦士に、マイソンは白い歯を見せて笑い返す。離陸予定時刻が迫っていた。再び乗務員を呼び、中身を飲み干した紙コップを持っていってもらう。


「――俺は、約束だな」

「え?」

「約束したんだ。子供の頃、将来はきっと立派なパイロットになってみせるって」

「誰に、ですか?」


 歳のわりに幼く見える顔をきょとんとさせて、副操縦士が尋ねた。それを見たマイソンは意味ありげに目配せして、制服の懐へ手を入れる。

 取り出したのは一枚の写真だった。古くてぼろぼろの写真だが、マイソンがフライトに臨むときはいつも懐に入れているものだ。

 そこには一人の男が写っている。アッシュブロンドの髪に、青灰色の瞳。隠し撮りされたものだからだろうか。男の視線はあらぬ方向を向いてしまっているが、それでもそれは、この世で唯一彼の姿を留めた写真だ。

 マイソンはしばしその写真を見つめた。隣では副操縦士もまた、興味深げに写真の中の男を見つめている。

 そんな彼を顧みて、マイソンは笑った。

 答えはいつも同じ。


「父親の夢は、息子が叶えるものだろう?」











END.

BGM:『What Sarah Said』(Death Cab for Cutie)

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[良い点] すごく面白かったです。子どもの扱いに戸惑う不器用な男と何やら事情を抱えているらしい少年の共同生活に、とても心温まりました。クライマックスは悲しかったけれど、マイソンの正体に気づいた時に心が…
[良い点] なぜ感想が一件もないのかさっぱりわからんね! [気になる点] 最後まで読み終わってマイソンじゃなくてマイサンだって気付きました。 [一言] おもしろかったよ!
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