第2章 狩猟日記 第1話
その日は雨が降っていた。外からのザーっという音がひっきりなしに聞こえてくる。ジメジメとした室内は居心地が悪いことこの上ない。
桐生楓は一人考え事にふけっていた。
「彼方眞澄、か。」
何の因縁か、もしくは運命か。そんなことはどうでもいい。問題はなぜあの中に入ってこれたのか。
『張っておくから、まぁ誰にも見られることはないだろう』
確かにアサカはそう言った。
入る時も確かに結界は在った。
微弱で、薄く、確かな効果をもたらしていた。
『この世は姿も本質も常に流動変化し、一瞬といえども存在は同一性を保持することが出来ない。ならばその場を静止させればいい。諸行は無常であってこれは生滅の法である、というのを逆転させるわけだからな。外界と遮断されるのと限りなく近いはずだ』
『そんなことが可能なのか?そんなもの、時間を止めるようなものじゃないか』
『可能だ。
時計の電池が切れて、針が動かなくなったとしても実際、現実は動いているだろう?止まった時計はまたネジを巻けばいいんだよ』
そんな会話をしたのを思い出した。
じゃあなぜあの男は入って来られたんだという問題に戻る。
また振り出しだ。さっきからこの調子。
もう何度目だろう。
『何故入れたのか』
俺は雨の降る中、浅香泉の事務所を目指す。
相変わらず雨は降り続いている。頭を冷やすにはもってこいだ。
◇◇◇◇◇
「ほう、彼方眞澄か。面白いじゃないか」
アサカの事務所。相変わらずここは気に食わない。
体の内部がミキサーにかけられるようにグチャグチャにミンチにされている気分だ。
「あいつからは何も感じられなかった」
「何も?」
「あぁ」
「まったく?」
「まったくゼロだ。プラスでもなければマイナスでもない」
そうか、とアサカは興味があると言いたげな顔をしている。
そして急に何かを探すようにポケットを叩きだした。
「タバコが切れた。買ってくる」
そう言い残して事務所から出て行った。
俺はそのあいだソファーに腰掛けて、テレビでも見ながら帰りを待つことにする。
四角い箱から音声が流れる。
最近はどこを見ても例の殺人事件の話しばかり。それもここI県Y市での出来事。
残虐なのかは知らないが、話題性は十二分にあるんだろう。
獣が狩りをするように殺すと言われているから。
◇◇◇◇◇
「プラスでもなければマイナスでもない、か」
浅香泉はアパートから歩いて5分のコンビニにいた。
面白いことを言うじゃないか、と呟く声は誰にも聞こえない。その理由は店内にはレジで待機している店員しかいないからだ。
ほんのり暖かい店内は考えをまとめるのに最高の環境だ、と浅香泉はこの場所を気に入っている。
『プラスでもマイナスでもない』
イコール零。無だということだ。無とは物事が存在しないこと。人間である以上存在を否定出来ない。微量でもプラス。あるいはマイナスに偏る。
マイナスに偏った人物は偉人、異人、変人などと呼ばれることが多い。
しかし、どんな達人でも、変人でも自分の存在を無くすことなど出来やしない。確かに自分は在るからだ。絶対無になどなりえない。概念としての無はあっても現実としての無は無として捉えることが出来ない。無いものをどうやって定義する?“これは無だ”と言っている時点で“これ”は有の性格を帯びる。マイナスだって量を持つ点でやはり有の一形態だ。
考えに耽る自分を現実に引き戻す。ついでに、とスナック菓子の袋を取る。
支払いを済ませ、背中で店員の声を受ける。自動ドアのガーっという音が店内に響いた。
風が吹いた。少し肌寒い乾いた風が目の前を駆け抜けていく。
それに浅香泉は何かを感じ取っていた。
コンビニを出てすぐ右へと歩きだした。事務所とは反対の方向に。




