狩猟日記 第8話
「ほら、置いてくぞ」
「待ってよ。もう少し。お兄ちゃん、いっつも早いよ」
「俺が早いんじゃなくて、お前が遅いの」
「はいはい。私が悪うございました。そんなことより、早く行こ。置いてっちゃうよ?」
「って待てよ。さっきまで待ってやってただろ」
そんな朝で1日が始まった。
いつも通りの朝で、いつもより天気の良い朝。
照りつける太陽は心地よく、風も、背の低い植物を軽く揺らす程度で気持のいいものだった。
昨晩、雨が降ったのだろうか。葉から滴る液体が小さな鏡のように見える。
通い慣れた通学路を歩くと、そこには見慣れた人と物が、ひとつの風景として成り立っている。
「おはようございます」
と、ゴミ捨て場にいる、隣に住むおばさんにご挨拶。
さらに、3軒隣りに住む夫婦にも。
新婚さんらしく、最近ここに越してきたばかりで、毎朝幸せそう。
「羨ましいな」
そんなことを呟くと、
「お前にはまだ早いよ。そうだな、あと50年くらい経ったらかな」
とすかさず切り返す兄。
「その頃にはおばあちゃんになっちゃうよ」
ハハハ、と笑うお兄ちゃん。いや、冗談じゃくてね。
他愛もない話しをしていると、学校に着くのはあっという間。
私の名前は涼夜加奈。
中学に入学してから2年が経ちそうです。
勉強はそんなにできる方では無いけど、運動はそこそこ得意です。
兄の名前は耕輔。
学年は私よりひとつ上。
勉強は私よりも出来るっぽいです。運動は、何とサッカー部のキャプテンをやってらっしゃいます。あーすごい。
そんな私たちが通う学校は至って普通の、家から歩いて20分くらいのところにある。
教室に着くと、また帰りに、と言って別れた。
兄のクラスは私のクラスより、階がひとつ上なのだ。
いつも教室まで送ってくれて、帰りも来てくれる。
あ、今日は無理か。
いつも兄妹でいて恥ずかしくないのかと聞かれても、全然。
むしろ、
「加奈のお兄ちゃん、かっこいいな〜」
教室に入るなり、そんな声が聞こえてきた。
「ほんと。毎朝一緒に登校するとか羨ましすぎる」
むしろ、嬉しいのだ。
「そうかな?」
一応謙遜。
「「そうだよ」」
私のお兄ちゃん、私のクラスでは、結構人気がある。
他のクラスのことはよく分からないけど、私の勘では、恐らく同じ様な状況だと思う。
「それで、みんな、準備は?」
友達の1人がそんなことを言うと。
「もちろん」
と、周りの数人が頷いた。
ちなみに、今日は2月14日。
いわゆるバレンタインデーというやつです。
友達は皆、バッグの中に、可愛らしく包装されたチョコを隠し持っている訳だ。
ここにいるみんな、お兄ちゃんのことが好きみたいで、絶対に渡して告白すると心に誓っているらしい。
そんなモテモテの兄は、バレンタインデーになるといつも手一杯にチョコやクッキーを持って帰宅する。
なので、今日は兄は帰りがいつもより遅くなる。
仕方が無いので、私は1人で帰るしかない。
だって、友達もみんなお兄ちゃんにチョコ渡すからと言って帰れないし、兄を無理やり引っ張って帰るのもみんなに悪い。
と言っても、こういうのは、何もバレンタインデーに限ったことじゃないんだよね。
ちょくちょく屋上や体育館の裏にお呼出しがあるから、正直慣れっこ。
そして、いつも通り変わらない授業が全て終わったころ、HRも無視して、数人教室から消えた。
早くしないと他のクラスの子に先を越されて渡せなくなっちゃうらしい。
実際、去年、渡せない子が出て、泣きながら家に帰り、私が慰めながら送って行った記憶がある。
さて、私はいつまでも学校に残っていてもしょうがないので、友人の家にいた。
で、その友人宅で、何とチョコ作りに挑戦中。
「カナ、いいの?今日渡さなくて。バレンタインデーだよ?」
「いいんです。わざとですから」
「わざと?」
「そう。わざと」
わざと、の部分を強調。
そう。私はバレンタインデーの次の日。つまり15日にチョコを渡す計画を立てているんです。
渡す人は決まっています。
ま、年上。とだけ言っておきます。
「で、その理由は?」
「理由はですね。ズバリ“裏をかく”です」
「裏をかく。と言うと?」
「裏をかく。つまり、『あ〜あ。今年もチョコ貰えなかったなぁ。・・・え?チョコくれるの?!』みたいな?」
みたいな?の部分を可愛く首を傾げてみる。
「みたいな?って。楽しそうね」
羨ましいわ、なんていいながら笑ってる。
うん。楽しいです。
「それより、チョコ奢ってもらっちゃって。ありがとうね」
「いいのよ。私も楽しいから」
ハハハ、だって。なんていい人なんでしょう。
私も自分でチョコを買いたかったんだけど、それには問題があった。
それは、金銭的な問題で、最も現実的で、最も高い壁のひとつだった。
家には、早い時間から母も父もいた。
ちょっと違うか。
両親は最初から家にいた。
無職になった父と、働く気のない母が、私たちの家族。
一応ね。
父は、ギャンブルというギャンブルに手を染め、飲酒、喫煙。
だらしのない、という言葉を体で表したような人だ。
元々は定職に就いていた父だったけど、この不景気のせいか、急にリストラ。
これは1年半前のこと。
自暴自棄になり、それ以来働く気はないらしい。
そればかりか、最近は兄に暴力を振るっているらしく、兄は違うと言っているけど、日に日に不自然な痣が増えている。
母は、最初から働く気などは無く、現実から目を逸らすように、文字通り淡々と家事をこなしているだけだった。
けど、貧乏ながらも、私は幸せな生活を送っていた。
それから数時間掛けて作ったチョコは、中々の出来栄え。
「じゃあ、明日。頑張ってね」
「はーい。また明日来ますね」
バイバーイ。なんて無邪気に手を振ってみる。
家に着く頃には、外は真っ暗で、月の明かりが影を作っていた。
お兄ちゃんには、どこに行ってたのか聞かれたけど、友達の家。とだけ答えた。
両親は何も聞いてこなかった。幸いっちゃ幸いだけどね。
と、その日の夜、ベッドの上から、
「カナ。明後日、あの場所で」
そんな声が聞こえてきた。
「うん。分かった」
そう答えると、それっきり兄は眠りについたらしく、小さく吐息が聞こえてきた。