お甲の涙
清次郎を偽エレキテル診療所から追い出した後、お甲は同じ長屋に住む十歳になったというのに口数の少ない矢ノ(の)吉を下働きに雇い入れ、エレキテル診療を続けていた。
続けてはいたのだが、清次郎が抜けてからというもの緊張感が薄れ、仕事に身が入らず治療がなおざりになることもあった。
ちょうどそのころ日本橋の大店の主人で阿蘭陀屋善兵衛がお甲の噂を聞いてやってくるようになっていた。善兵衛は背が低く、小太りで腰痛持ちだった。人がいいと言う塗り薬や飲み薬、鍼灸、祈祷などなんでも片っ端から試していたが、一向に良くならない。腰痛のせいなのか、近頃は商売にも身が入らずイライラすることも多くなり、番頭や丁稚に当たり散らすことも度々であった。
そんな善兵衛がお甲の診療所に通うようになった切っ掛けは、朝から腰の具合が悪く腰をさすりながら店先に出てきたある日のことだった。客同士が橋本町で色白でぽちゃぽちゃっとした可愛い女がエレキテルとかいう道具で肩や腰の痛みを和らげる治療をしているとニヤニヤしながら話しているのを小耳にはさんだ。腰痛治療にいろんなことを試してきた善兵衛にとって、エレキテルそのものにはそれほど関心もなく、期待もしていなかったが、色白でぽちゃぽちゃっとした可愛い女と聞き興味津々でお甲の診療所にやって来たのだった。
中を覗くと何人もの男たちが待合室で順番待ちをしている。奥の診察室はよく見えないが、白の作務衣を着た女が患者らしい男と話しながら治療をしている。
半時ほど待っただろうか、やっと善兵衛の順番になった。
お甲は善兵衛をチラリと見た。明らかに長屋の連中とは違っている。いい着物を着ていることは一目見ただけでわかる。
「はい、お待たせしました。おや、初めての旦那さんですね。どこがお悪いのですか」
お甲は流し目を送った。
善兵衛はゾクリとした。噂どおりだ。まさに善兵衛の好みにぴったりで、一目で気に入った。
「腰が悪くてね。どこで診てもらってもよくならないんだよ。うまくやっておくれ」
善兵衛は腰を抑えながら診察台に腹ばいになろうとした。
「あたしのエレキテル診療はここに座ってもらうだけでいいんですよ」
お甲は手を差し伸べた。
善兵衛はその手を握ろうとしたが、お甲はさりげなくその手を払う。
「これを握っててください」
善兵衛に両手を添えてそっと取っ手を握らせた。
「それでは治療を始めます。矢ノ吉やっとくれ」
善兵衛は取っ手を握りしめ、静かに眼を瞑った。
グルグルグルグル、グルグルグルグル。矢ノ吉は力をこめてハンドルを回した。
バチッと音がして、善兵衛は取っ手を胸の前で握りしめたまま、ウッと息が詰まり、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
お甲は善兵衛を抱き起こした。
「ご気分はいかがですか」
「ビリッとして、体の中がゾクッとした後、なんだかわからないが気分がスーっとして、気持ちいい」
「そうでしょう。これがエレキの力、エレキテル診療です」
善兵衛は恐る恐るそぉーっと立ち上がり、ゆっくり腰を伸ばした。
「おお、腰の痛みが取れている。まるで魔術にかかったみたいだ!」
善兵衛の顔にぱっと華やいだ笑顔が浮かび、今度はゆっくり両腕を上げ、大げさに大きな伸びをして見せた。
「う~ん、気持ちいい。何年ぶりかに思い切り背伸びをしましたよ」
と、笑顔を振りまき、お甲の手を取って何度も礼を言った。
「それはようございました。悪くなったらまたお越しください。お待ちいたしております」
お甲も嬉しくなり、いつになく丁寧に挨拶し、善兵衛の手を両の手で握り返した。
「はい。また、来ますよ」
善兵衛は治療代だと言ってお甲に一分銀を握らせエレキテル診療所を後にした。
それから善兵衛は三日とあけず、お甲のエレキテル診療所に足しげく通うようになった。そして、治療が終わるとお甲の両手を握り、ありがとうと礼を言い、一分銀を置いて帰って行った。
お甲にとって最上級の客になったのは言うまでもない。善兵衛が現れてからというもの、お甲は吉松とは距離を置くようになり、吉松との仲はぎくしゃくしていた。後は自然な流れで、善兵衛の誘いを受けるようになり、深い関係になるまでそう時間はかからなかった。
それから何日かが過ぎたある日のこと、エレキテルで治療ミスが起きた。
朝から気だるい日だった。初めて来た患者で、頭痛と肩こりがひどく、腰も痛いと訴えた。ひょろりとした体つきで、顔色が異常に青白い。お甲はこの人にエレキテルをやっても大丈夫かな、と一瞬不安に思ったが、他の治療をできるはずもなく、いつもどおりにエレキテルを使って治療を始めた。
お甲は、さっさと終わらせようと思い、最初は矢ノ吉に、弱めにやっとくれと頼んだ。矢ノ吉はハンドルをゆっくりグルグル回したが、これではエレキは発生しない。何度かやったがやはり火花は飛ばなかった。運悪くその日はどんよりとした曇り空で、湿度が高かったせいもあり、エレキの飛びが悪かった。そのようなこと、お甲や矢ノ吉にわかるはずもない。
「お甲先生……」
矢ノ吉はお甲に訴えるように眉を下げた。
「仕方ないわね。いつものとおりでやっておくれ」
お甲の尖った声と共に、矢ノ吉は力を込めた。
グル、グルグルグルグル。グル、グルグルグルグル。やっとのことでバチバチッと火花が飛んだ。
男は飛び上がることもなく、無言のままうつ伏せに丸太が倒れるようにくずおれた。お甲はすぐに抱き起こしたが男は口をへの字に結び、瞼は固く閉じられたまま、ピクリとも動かない。
「旦那さん。終わりましたよ。起きて……、旦那さん」
何度か肩を揺すったが、男はお甲の手を握り返してこない。右腕はだらりと垂れ下がり、体はお甲の腕の中で力なくぐったりしたままだ。男の顔色は蒼みを帯びてますます白くなっていく。
「旦那さん……! 旦那さ…ん。ダンナ……、ひや~」
お甲は抱いていた男を投げ出し、悲鳴を上げた。
「しっ、死んでる~」
ちょうどそのとき、清次郎と蒼空、透明人間のリウの三人がお甲のエレキテル診療所の近くまで来ていた。
「ここです。ここの長屋でやってたの」
清次郎は前方を指差した。
「へぇ~、ここでねぇー」
蒼空はきょろきょろ辺りを伺い見廻した。
そのとき、「死んでる~」という甲高い女の叫び声が聞こえ、清次郎と蒼空はビクッとしてお互い顔を見合わせた。
清次郎は、脱兎のごとくまっしぐらに長屋に飛び込んだ。
男が一人倒れ、お甲が横で震えている。矢ノ吉はお甲の後ろで何が何だか分からない様子で、呆然と宙を見つめ立ち尽くしていた。
「お甲さん。しっかりして。これはいったいどうしたの」
清次郎がお甲の肩をゆすり、耳元で叫ぶ。
「しっ、し、ん、で、るー」
虚ろな眼をしたお甲が倒れた男を指差しながら途切れ途切れに言った。
「蒼空さん、なんとかして!」
清次郎が振り返り、声を張り上げた。
「何とかしろと言ったって……」
「お願い。この人を助けてあげて」
――エレキテルは電気ショックです。もう一度ショックを与えてみてはどうでしょう。
リウの声が聞こえる。
「そうよ! AEDの要領でやればいいのよね」
――やってみましょう。
電極の一つを左胸に当て、もう一方の電極を右側腕部に当てた。
「清次郎さん! エレキテルを回して」
グルグル、グルグルグルグル。
リウは心臓マッサージをした。胸が勝手にぺこぺこしているように見える。
「生き返ったの」
胸を見た清次郎が訊いた。
そのそばでお甲は喚き、手を合わせ念じていた。
「ごめんなさい。ゆるしてー。いきかえってー、おねがいー」
しかし、男の眼は硬く閉ざされたままだった。
蒼空は首を横に振る。
「まだよ。清次郎さんもう一度、やって。今度はもう少し強く」
清次郎は大きく肩で頷くと、グルグルグル、グルグルグルグルグル。グルグルグル、グルグルグルグルグルとハンドルを思い切り強く回した。ハーハー、肩で息をしている。
バチ、バチ、バチ、バチ。これまでになく大きな火花が飛んだ。男の体はビクンと大きくのけ反った。
リウも心臓マッサージを続けた。でも男は生き返らない。蒼空は再び首を横に振った。これを何度かやり、三十分ほど経っただろうか、
「うっ、う、う~ん」
男の呻き声がかすかに聞こえた。
「生き返ったの……」
清次郎が心配げに問いかける。
蒼空は男の胸に耳を押し当てると、コト、……、コトとゆっくりとだがかすかに動き出した心臓の音が聞こえる。蒼空は小さく首を縦に振った。
「よかった。蒼空さんありがとう」
――やりましたね、蒼空さん。
リウもほっとしたのだろう、額の汗を拭い、ふうっと大きな吐息をついた。
お甲は男のそばににじり寄り、へたり込んだ。
「ごっ、ごめんなさい。ごめん、な、さい……」
お甲は涙を流し、あやまり続けた。
男は焦点の定まらない虚ろな目をうすく開け、お甲の咽び泣く声をただ黙って聞いていた。
お甲は腰が抜け、呆けたようにその場にへたり込み、細い涙が頬を伝って流れ落ちた。
「お甲さん。大丈夫」
清次郎はお甲の肩を優しく抱き寄せ、言葉をかけた。
「お甲さん。わたしたちにエレキテル診療は無理なのよ。いつかこんなことが起きるのではないかと心配だったの。これでわかったでしょう」
お甲は涙を拭こうともせず、すすり泣きながら小さく頷いた。
蒼空と清次郎は、心臓発作を起こし瀕死の男を玄白の診療所に連れて来た。その日のできごとの一切は清次郎から玄白に伝えられた。
「玄白先生。この人をなんとか治してあげて下さい。よろしくお願いします」
清次郎は深々と頭を下げた。
「この人にはエレキが強過ぎたようですね。医者でない人がエレキテルを使うのは危険が多過ぎます。清次郎さん。あとは任せてください」
玄白は小さな丸顔に笑みをたたえそう告げると、蘇生した男を入院させることにした。
一方の吉松は、エレキテル診療所を清次郎とお甲に任せてからは暇を持て余していた。そこで、懐にしまってあったエレキテル図面を持ち出し、にんまりしながら久三に囁いた。
「仲間を集めエレキテルを作って、売ろうぜ」
「仲間たって、兄ぃと俺以外、ロクな腕の奴はいねぇぜ」
「いいんだよ。かっこがついてりゃ。売れるだけ売って後は知らぬ顔の半兵衛よ」
「知らん顔はいいが、売れるあてがあるのかい」
吉松は目の奥に深い憎しみの光を宿し、
「うむ……、そこは任しときな」
自信満々に胸を叩き、次なる手立てを考えていた。
出来上がってきたエレキテルは材料や部品をケチったため、見かけや形はそっくりなものだが、ハンドルを回してもエレキが飛ぶことはほとんどない劣悪な模倣品だった。
それでも吉松は完成させた偽エレキテルをガラス瓶の取引で親しくなっていた阿蘭陀屋に持ち込み、善兵衛に一台十両という高値で売り付けた。
善兵衛は、最初は何ともいかがわしい物と思い、買い取りは拒否しようとしたが、「お甲が大変お世話になっております」と耳元で囁かれ、やむなく引き取らざるを得なくなった。
吉松の唇に浮かんだのは、憎しみを含んだぎこちない笑みだった。
善兵衛は後ろめたさもあり、三台だけという約束で、とりあえず一台を引き取ることにした。
吉松は久三に四両を渡し、自分は六両を懐にした。
「これならうまく行く。どんどん作って、どんどん儲けような、久三」
吉松は次なる手立て考えながら、いつまでもにたりにたりとほくそ笑んでいた。