リウ、現る
蒼空は悔しい気持ちを抑え、逆転の発想はないかと模索する日々だが、これといった名案も浮かばず、ただ時間だけが刻々と過ぎて行った。
――ああ、もうダメ。何も考えられない。
イライラ、もやもやして頭の中は暗雲が垂れこめ、小さな光すら見えない。知恵を振り絞ってみたが、名案どころか愚案すら出てこない。
――ああー、こんなんじゃダメだ。
頭を抱え込み、大きな溜息をついた。
そんな様子を見ていた大石は、「たまには気分転換も必要だよ」、と蒼空に声をかけ、駆り立てられるようにして蒼空は珍しく早めに事務所を後にした。
ビルを出ると同時に一陣の風が吹き、カールストレートボブヘアが逆立った。蒼空はこの三年でスーツ姿もすっかり板に付き、今日はグレーのピンストライプのパンツスーツに淡いピンクのドレスシャツをコーディネートしている。
西の空はまだ昼間の明るさをわずかに残す、トワイライトタイムのころだった。
――ああ、今夜は七夕だったんだわ。
ふと思い出す。庭に竹笹を飾って遊んだのはもう何年も前のこと。子供の頃、毎年のように父が買ってきた笹に、小さなお願いを書いた短冊を飾った自分の姿が脳裏に浮かんだ。
高層ビルで矩形に区切られた空を見上げた。星が一つ輝いている。東京の空で星を見たのはいつだったのだろうか、本当に久しぶりに夕空を見たような気がする。
――あの明るい星が宵の明星かしら。
こんなとき、夕陽を見ながらおしゃれな会話ができる彼がいたらなあ、なんて思いながら、
「ふうーっ、疲れたあ」
思わず声が漏れでたそのときだった。
「すいませんが……」
突然、目の前から声をかけられた。
――透明感のある柔らかな男性の声のようだけど……。今の今まで人なんて居なかったのに……。
「はっ、はい。なんでしょうか」
どぎまぎしながら答えた。
歳は三十前ぐらいだろうか、身長は蒼空より頭半分ほど高く、やや細身の身体つき。髪は軽くウェーブがかかり、目鼻立ちはくっきりしている。
ボケっとしている蒼空の顔を覗き込むようにその男は訊ねた。
「大石特許事務所の夏姫蒼空先生ですよね」
「はい、そうですが……」
――お客様だろうか。でも、見覚えがない……。
蒼空は疲れた頭をフル回転させたが、やはり思い出せない。まったく心当たりがなかった。
――それにしてもわたしの名前を知っているとは。誰なんだろう……。
どなた、と尋ねようとすると、男は左の手のひらでそれを制した。
「葛城リウと言います。リウと呼んでいただいて結構です」
カツラギリウと名乗る男性は辺りをゆっくり見廻し、声を潜めるようにして言った。
「蒼空先生にわたしの発明品を見ていただきたいのです」
「は、発明品、ですか」
声が喉の奥で詰まった。
「しっ!」
男は人差し指を口に当てた。
「はい。発明品です」
男は再び周りを伺うようにさらに声を潜めた。
――お客様かしら、でも、キョロキョロしてなんだか怪しい。わたしの名前を知っているとは……。それに初対面のはずなのに、蒼空先生だなんて、慣れ慣れし過ぎる。
「いま、お持ちなんですか」
つい弁理士の習性で訊いてしまった。
「いえ、ちょっと大きいので。実は……、特許を出したいのです」
「いま、すぐに……、ですか」
「ええ。お手間はかけません。見るだけでもよろしくお願いします」
リウと名乗るこの男性は深々と頭を下げた。
――特許だなんて、本当かしら……。
いつもなら不審な客はお断りするのだが、この時の蒼空はいつもと違っていた。イライラしていて冷静な判断ができなかったとしか言いようがない。魔が差したというのだろうか、それともこれが運命だったのかもしれない。
「わかりました。少しの間でしたら拝見いたします」
と答えていた。見ず知らずの人に不味かったかなあ、と思ったが発明品なるものを見てみたいという気持ちもあった。それと何か浮世離れしたリウと名乗る男性にも興味がわいた。
リウは蒼空の心配など全く気にする風でもなく、踵を返すとすたすた歩き出した。
幾つかの通りを過ぎ、右に左に曲がり、どんどん進んでいく。いくらなんでも不安になり、
「どこまで行くの」
と声をかけた。
その時、リウはぴたりと立ち止まり、
「着きました。ここです」
と、左手で指差した。
薄暗い路地を入った、古びた二階建てのビルで、オレンジ色の街灯がひとつ灯っているだけだ。大石特許事務所からそれほど離れた場所ではないと思うのだが、蒼空にはまったく見覚えのない建物だった。やっぱり東京って広いんだなぁ、と妙に感心してしまった。
リウは、「こちらからお入りください」、と案内した。茶褐色に錆びの浮いたシャッター脇のドアをギッ、ギッ、ギーと押し開き、リウは中に入って行く。蒼空も背中を押されるようにリウの後を追った。
中はガレージのようになっており、薄暗い裸電球が一つ灯っている。部屋の中はガランとして、真ん中に一つの古びた自転車のようなものが置かれているだけだった。こんなところに発明品があるのだろうか。
リウは真っすぐ自転車のようなものに近づき蒼空を手招きした。
「これがそうです」
リウは自信満々の笑顔でハンドルに手を添えている。
「これって、ただの自転車のように見えますけど……、それに後ろのタイヤがないですね」
そのうえ趣味の悪いデザイン、と思ったがさすがに初めて会った人にそうは言えない。
「ただの自転車ではありません。タイムマシンです」
「えー。これって、どう見たって、壊れた自転車でしょう。あっ、失礼しました」
「よく見てください。自転車の前に時代設定装置があります」
覗き込むように一歩前に踏み出し、タイムマシンなるものをよく見ると、自転車のハンドルにスピードメータのようなものが二つ付いている。
「この装置で移動時間を設定するのですか」
「そうです。良くわかりましたね。さすがは弁理士先生です」
「タイムマシンなんでしょ。時代設定装置が付いていればそういうものだと……」
「すごいです。ではこちらの計器はわかりますか」
「帰って来る時間でしょう」
蒼空はバカにされているようで、ムッとした。
リウは蒼空の反応などお構いなしに真剣な眼差しでマシンの説明を始める。
「これは蒼空先生がご存じの時計ではなくて、時代往還設定ダイヤルです」
「時計だろうと何とかダイヤルだろうと、そんな呼び方なんてどちらでも同じでしょ」
「それはまた大胆なことをおっしゃる。弁理士先生のお言葉とは思えません」
リウはちょっと呆れて見せる。
「はぁ……、少し言い過ぎました」
リウの勢いに押されてあやまってみたが、
――どうしてわたしがあやまらなければならないのよ。
蒼空はリウの言葉にますますイラついた。
「あなたが発明したというタイムマシンは確かに拝見いたしました。でも、特許とはまったく無縁のものです。わたしはこれで失礼します」
――こんな壊れた子供だましのような自転車がタイムマシンであるはずがない。
引き返そうとする蒼空にリウはとんでもない言葉を投げかけた。
「これに乗って過去に行ってみませんか」
「は~。からかわないでください」
「本当に行ってみたいとは思いませんか」
「そりゃあ、まあ、少しは……」
一瞬怯んだ蒼空にリウはたたみかけた。
「このタイムマシンに乗って、それで性能を確かめてみてください。それで納得したら特許を出してください。これでどうですか」
リウは真剣なまなざしで、真っすぐ蒼空を見つめていた。
「いい加減にしてください。タイムマシンなんて……」
蒼空は一瞬言いよどんだが、
「空想の世界のものでしょう。それに特許は、自然法則に反するものは出願できません」
と、蒼空はきっぱりと言い切った。
――本当に変な人に捕まってしまった。早くこの場を去ろう。
出口に向かおうとする蒼空の背中にリウは冷ややかに言った。
「それなら、どうしてわたしに付いてきたのですか」
蒼空は、「えっ」と声を上げ、振り返った。
「そ、それは……、発明品を見てみたいと思ったからよ。それに……」
「それに、なんですか」
「いいえ、何でもありません」
ムシャクシャしていたし……、とは言えない。
「それではちょっと乗ってみましょう」
有無を言わさず蒼空の手を取った。
蒼空は手を振り払おうとしたが、あっという間に自転車に座らされていた。
リウは時代往還設定ダイヤルをカチカチカチッと回しながら、紀元前二六三七年七月七日午前七時七分にセットした。
蒼空は、タイムマシンは未来のものなのにアナログダイヤルで設定するなんて、これは絶対に違うと思った。
「ちょっと待ってよ。あなたが勝手に決めないで」
蒼空は時代往還設定ダイヤルを適当に回して、「この時代に行ってちょうだい」と挑戦するように言った。
セットされた時間は一七七六年七月七日午後六時二七分になっていた。
――どうせ何にも起きないんだから。さあ、どうするつもりかしら……。
蒼空は顔をそむけ、リウがどうするのか横眼でちらりと見た。
リウは蒼空が設定した時間をしばらくじっと眺めていた。そして決心するように、
「わかりました。この時代に行きましょう。帰りは今の時間がいいでしょう」
リウは腕時計を見ながら帰還時間を二〇X七年七月七日午後六時三九分にカチカチとダイヤルを合わせた。
蒼空は、ありえないとは思ったが、念のために訊いた。
「一七七六年にタイムスリップしたとして、どうすれば戻ってこられるの」
「ちょうど四八時間、二日間だけその時代に滞在できます。その後は自動的に帰還するように設計されています」
バカバカしいとは思ったけれど、もう一つ質問した。
「どうせなら二日間だけじゃなくて、一週間くらい居たいわね」
「このタイムマシンはまだ長期滞在できるまでの性能がありません……」
リウはすまなさそうに下を向いた。
――へぇ~、未来のタイムマシンなのに、まだその程度なんだ。
でも、とりあえず聞いて、安心している自分がおかしかった。
リウは心に沁みるテノールで静かに告げた。
「その前に少しだけ待ってください」
「今度は何ですか」
――待てだなんて、やっぱり嘘だったんだ。
「嘘じゃありません。この自転車をタンデムに改造しますから」
――確かにこのままでは一人乗り用だし、しかも後ろのタイヤがない。それに二人乗りだと交通違反になるかも。
などとどうでもいいことを考えていると自然と笑みがこぼれた。
リウは何処からか二人乗り用のフレームとサドルを持ち出してきて、タンデム自転車に組み替えている。
「お待たせしました。それでは出発します。後ろに座ってハンドルをしっかり握って、ペダルを強く踏んで下さい。それではタイムワープをオンにします」
と、言うや否やリウはペダルをぐっと踏み込んだ。
――何よこれ。スポーツジムにあるエアロバイクみたい。
蒼空は初対面のリウと二人で自転車を漕ぐはめになったが、自分でも何故こんなことをしているのか不思議だった。
リウは蒼空のそんな気持ちなどわかるはずもなく、ただ無心にペダルを漕いだ。
ペダルを踏む速度が上がってくると、キーンと微かな音が鳴った。と、同時に蒼空の目の前がうす暗くなり、幾つもの星が頭の上や足の下で煌めき始めた。
――あれは宵の明星? 七夕様の白鳥座? 下に見えるのは北斗七星? こちらはオリオンザ~。これって、えっ、えー……。
それらの星ぼしが一気に糸を引くように流れて行く。
「ああああーー」
急激に真っ暗になり意識が遠くなりかける。正面から突風のような風が吹き、カールストレートボブヘアが逆立った。蒼空は恐怖でハンドルを強く握りしめた。
次の瞬間、眼の前が急に明るくなり、今度は眼を開けていられない。強烈なライトを全身に浴びているようだ。そして、スーッと暗くなった。
――わたし、どうなるのかしら。
蒼空は渾身の力を振り絞って立ち上がろうとしたが、金縛りにあっているかのように体が重く動かない。
――何がどうなったの!
焦りもがくがどうすることもできない。
――ハンドルから手を放してください。
静かな声が聞こえた。
――あっ、そうだ。自転車に乗っていたんだ。
蒼空は恐怖と驚きで強くハンドルを握りしめていたのだった。
――蒼空さん。着きましたよ。
リウの声だ。
――着いたって……。わたし、夢を見ているのかしら。
蒼空は意識を取り戻し、タンデム自転車から降りた。
「ここはどこなの?……」
蒼空はやっとのことで掠れる声を絞り出した。
――一七七六年七月七日午後六時三九分、いや、正確には九分四八秒の江戸大和町です。
「江戸……、大和町? なにを言ってるの。ここは東京都、千代田区……」
――回りをよく見てください。
リウの静かな声が聞こえるのだが。
「あなた、どこにいるの」
蒼空は右、左とあたりをきょろきょろ見廻しリウの姿を探したが、自分一人で他に誰もいない。
すると、
――わたしはここです。
声がする方に顔を向けたが、やはり誰もいない。
リウの落ち着き払った声が耳の奥に響く。
――わたしたちタイムトラベラーはその時代の人たちを驚かさないように姿を消さなければなりません。
「じゃあ、わたしの姿も見えないの」
蒼空は自分の身体を見廻したが、手も足もちゃんと見える。
――いいえ。蒼空さんの姿は見えています。ですから、これからは歴史的事実を変えないよう細心の注意を払ってください。
「もし少しでも歴史を変えるようなことをしたらどうなるの」
――場合によっては蒼空さん自身が存在しないことになります。一瞬にして消えてなくなります。
「それって、将来わたしが生まれないということ……」
――そういうことです。ですからこの時代の人たちに影響を与えないようにしてください。これがタイムトラベラーの掟です。
蒼空は、わたしはタイムトラベラーじゃないわよ、と言おうとしたが思いとどまった。気を取り直してリウに訊いた。
「どうしてあなたは姿を消すことができるの」
ニヤリとし、得意げにしているリウの顔が瞼に浮かんだ。
――わたしのDNAには、タイムトラベルすると透明になる遺伝子が組み込まれているのです。
「だから人に見えないと……。そんなこと信じろって言うの!」
蒼空は本当にばかばかしいと呆れはてた。
――なにがタイムトラベラーよ、透明人間よ……。